有森裕子インタビュー前編「女子選手が抱える問題は今も変わっていない」 日本のマラソン界で一時代を築いたランナーとして知られる、有森裕子さん。有森さんは2019年、一般社団法人 大学スポーツ協会(UNIVAS)の副会長に就任。昨年から、体育会…

有森裕子インタビュー前編「女子選手が抱える問題は今も変わっていない」

 日本のマラソン界で一時代を築いたランナーとして知られる、有森裕子さん。有森さんは2019年、一般社団法人 大学スポーツ協会(UNIVAS)の副会長に就任。昨年から、体育会に所属する大学生らと直接語り合うオンライン企画「大学スポーツありもり会議 “animoの部屋”」を開催している。

 ここでは幅広いテーマを取り上げ、大学スポーツの課題解決を中心にディスカッションを重ねるが、有森さんが第1回の会議で取り上げたのは「女性アスリートの身体問題」だった。

「正直、自分の現役時代も今も、女子選手が抱える問題はあまり変わっていない、という印象です。

 私たちの時代はあまりに情報がなく、無謀に身体を痛めつけて競技を行っていました。それ以降も改善するどころか、勝利至上主義が進み、低年齢層の選手まで健康とはかけ離れてしまった。その最たるものが、貧血の対応と称した、鉄剤注射や造血剤の投与です」

 過剰な鉄摂取は健康を害する。日本陸上連盟は2016年、「アスリートの貧血対処7か条」を公表。陸上競技選手、指導者に向け、安易な鉄剤注射の使用について警告を発した。しかし、その後も中学・高校生の中・長距離選手に対し、鉄剤注射が行われている実態が認められ、不適切な鉄剤注射に対する警告を発信し続けている。

 有森さん自身も高校時代、重い貧血になり、鉄剤の摂取と鉄剤注射による治療を続けていた。

 中学時代、バスケットボール部だった有森さんが本格的に陸上競技を始めたのは、高校入学後だった。

「陸上を始めると、やはり体重コントロールが必要になりました。成長期だったので食べたいし、でも食べたら走れないし、というなか、正しい減量に関する情報が何もなかった。結局、目方を減らすことだけに重きを置くようになりました」

 部活の練習前後は、必ず体重を測り、真夏であっても、Tシャツ、ジャージ、ヤッケ、カッパを重ね着して走った。練習後、体重はだいたい3キロは減っていた。

「パーンと減りますから、やったー! 減ったーっ!! と喜んでいました。今だからわかりますが、痩せたのではなく、体中の水分とミネラルが抜けただけ。例えるならギュッと絞った雑巾状態です。

 でも、当時は子供だったし、『体重が減る』ということで、練習に対する納得感を得ていました」

 ところが、1年の秋口から、日を追うごとに鉛のごとく足が重くなった。100メートル走るだけで息切れがし、ウォーミングアップさえしんどい。眠い、ふらふらするという感覚が日常的に続き、あるとき一気に走れなくなった。

安易に頼った鉄剤注射「足に羽が生えたかの如く、軽くなるんです」

 病院に行き、血液検査を受けると、有森さんのヘモグロビン値は「6」。これは正常値の半分の値で、普通であれば立っていられないほどの状態だという。

「それでもパタンと倒れる、か弱さはないんですが(笑)、鉄欠乏性貧血であることは明らかでした。食事だけで改善することは難しく、当初は鉄剤での治療を行っていました。

 でも、鉄剤ってものすごく胃に負担がかかるんですね。少しでも空腹の状態で飲むと、夜中に目が覚めるくらいの胃痙攣を起こす。しかも、私の場合、体質的に鉄が吸収しにくいとわかり、途中から鉄剤注射も打つことになりました。

 鉄剤注射を打つと、もう、どこまでも走れるよ! とうれしくなるくらい、足に羽が生えたかの如く、軽くなるんですね。だからみんな、安易に頼るのだと思います」

 治療は功を奏し、ヘモグロビン値は徐々に上がった。しかし、夏になると無茶な減量を3年間くり返し、そのたびに貧血を起こした。その原因は、問題の根本を理解していなかったからだ、と話す。

「鉄剤を飲めば体調はよくなる。しかし、数値がよくなった後、どう過ごせばよいのか、また、悪くなる原因もわかっていなかった。そのため、やっぱり夏になれば極端な減量をするし、そのしわ寄せが秋にきていました」

 都道府県を代表する女子長距離選手が一同に会する、全国都道府県女子駅伝。この大会がスタートしたのは、有森さんが高校1年生のときだった。有森さんは、1年時から、岡山県の強化メンバーに選抜されたが、3年間、補欠のまま終わった。それも、今となっては無理な減量の影響だとわかる。

「秋口一発は、身体が軽くて走れます。でも、強化に入る頃から調子が悪くなり、現地でのタイムトライアルでもよい結果が出ない。3回目の正直、と臨んだ3年時に選ばれなかったときは、やっぱりつらかった」

 高校3年間で、鉄剤の威力とヘモグロビン値が下がることの怖さを知った。速く走れる、走れないではなく、身体が正常でないことの怖さを知り、身体への関心が高まった。

「高校3年間、栄養士の免許を持っていた母がずいぶん、食事の内容も考えてくれました。そのおかげで、鉄分の吸収を妨げる食材を一緒に摂らないなど、組み合わせを考えて食べるようになり、貧血も改善。正常値になり、以来、鉄剤注射は打っていません。この経験は、体重の減らし方もちゃんと考えなければいけないと、考えるきっかけになりました」

 高校卒業後、有森さんは体育の教員になる目標を持って、日本体育大学に入学。自分の身体への関心がより一層強くなった。

大学時代に変わった意識「とことん自分の身体や食事を研究していた」

「私は股関節脱臼で生まれ、故障も多く、生まれ持った身体は人よりも優秀ではなかった。そのこともあって、大学入学後はトレーナーの仕事にも興味を持つようになりました。人体解剖学を学んだり、『どうすることが、身体にとっていいのだろう?』と考えたりすることが、とにかく好きでした」

 大学では3年生まで、陸上部の寮で生活。貧血の経験から食事の大切さを理解していたものの、上下関係の厳しい時代。下級生の間は、十分な食事を摂ることが難しかった。

「夜は寮で出してくれる食事、朝は選手個々で用意した朝食を食べましたが、当時の寮の食事は本当にお粗末(笑)。食堂は朝、先輩が使っていたら使えないし、1年生は冷蔵庫に自分のものを1個しか入れられないというルールがありました。冷蔵庫に入れるのはせいぜい、パンかジャム。パンってカロリーが高いし、糖質と脂質のコンボ。本当に偏った食生活でした。

 結果、部員が皆、同じように、痩せているのにビヨーンとした(締まりのない)体形になっていきました」

 その後、女子合宿所の本部メンバーになり、寮長にもなった有森さんは、朝食も寮で出すことを提案。これが、採用された。

「ご飯と味噌汁は寮で出し、卵も全員、1個は使っていい、となりました。足りなければ、納豆なり、味噌汁の具材に好きなものを加えたりすればいい。やっと、部員全員がきちんとご飯を食べられるようになりました」

 4年になると、規則により寮を出て、下宿を始めた。焼いた頭無しのいわしを2本、梅干し1個、卵1個、そしてご飯と味噌汁。これは、有森さんが、毎日、下宿先で作っていた朝食だ。

「私、毎日、同じものを食べても平気なんです(笑)。実業団入団後も寮の食事はありましたが、練習量に対して足りないと思えば、自分で食材を買い足し、部屋のキッチンで調理。やっぱり、自分のことをわかっていないとコンディション管理は出来ません。ですから、とことん、自分の身体や食事を研究していました」

 ベスト体重=軽い体重、ではない。ベスト体重=状態のいい体重。体重ではなく、「状態はどうか」という視点で身体を見るようになった。

「食事は『食べるな』ではなく、『しっかり食べてしっかり走れる身体を作る』ことが大事。こう認識するようになってからは、人任せにせず、自分で考えるようになりました。食事の献立を自分で考えるようになってから、体重も、陸上の記録も安定しましたね」

 この考えに至ったのは、実業団で指導を仰いだ、故・小出義雄氏のおかげだと話す。

小出監督に常に言われた「しっかり食べて、しっかり走れ」

「小出監督からは常に『しっかり食べて、しっかり走れ』と指導されました。

 当時の所属選手は私を除き、高卒の選手でしたが、彼女たちは高校までそういった指導をされていないため、体重ばかり気にしていました。食事のコントロールができず、(体重管理のストレスから)お給料を食べたいだけ食べ物につぎ込んだ結果、まったく身体は出来ない。だから故障をするし、走りの状態も糸が切れたようでした。

 私は食事をコントロールできなかったら実業団ではやっていけないとわかっていた。それと、大学を経て、『走り』を『仕事』として、ビシッと取り組めたことが、よかったのだと思います」

 大学まで、全国区の目立った成績のなかった有森さんは、ダメもとで自分を売り込み、それを小出監督が了承するという形でリクルートに入団した経緯がある。半ば押しかけで入団した有森さんだが、入団からわずか3年後、92年バルセロナ五輪に初出場。女子マラソンで銀メダルを獲得し、瞬く間に日本の女子陸上界の歴史に名を刻む存在となった。

「小出監督は大学の寮長だった私を、いずれ、チームのマネージャーにするつもりで獲ったらしいんですけどね。まぁ、ちょっと化けました(笑)」

(16日掲載の後編へ続く)

■有森裕子 / Yuko Arimori

 1966年、岡山県生まれ。元プロマラソンランナー。就実高、日体大を卒業し、リクルート入社。女子マラソンで92年バルセロナ五輪では銀メダルを、96年アトランタ五輪でも銅メダルを獲得。故障やメダル獲得の重圧を背負い臨んだアトランタ五輪のレース後に残した「自分で自分を褒めたい」という言葉は、その年の流行語大賞となる。07年2月、「東京マラソン2007」でプロマラソンランナーを引退。10年6月、国際オリンピック委員会(IOC)女性スポーツ賞を日本人として初めて受賞した。これまで、国際オリンピック委員会(IOC)と活動的社会委員会委員、スペシャルオリンピックス日本理事長、国際陸連(IAAF)女性委員会委員、国連人口基金親善大使等の要職を歴任。(長島 恭子 / Kyoko Nagashima)

長島 恭子
編集・ライター。サッカー専門誌を経てフリーランスに。インタビュー記事、健康・ダイエット・トレーニング記事を軸に雑誌、書籍、会員誌で編集・執筆を行う。担当書籍に『世界一やせる走り方』『世界一伸びるストレッチ』(中野ジェームズ修一著)、『つけたいところに最速で筋肉をつける技術』(岡田隆著、以上サンマーク出版)、『走りがグンと軽くなる 金哲彦のランニング・メソッド完全版』(金哲彦著、高橋書店)など。