伝説のインディー団体FMWの功績を選手や関係者の証言によって後世に語り継ぐ連載「俺達のFMW」。 初回はプロレスリングFREEDOMSのマンモス佐々木が登場し、貴重な証言の数々が飛び出した。2回目となる今回は、エンタメプロレス時代のFMW…
伝説のインディー団体FMWの功績を選手や関係者の証言によって後世に語り継ぐ連載「俺達のFMW」。
初回はプロレスリングFREEDOMSのマンモス佐々木が登場し、貴重な証言の数々が飛び出した。2回目となる今回は、エンタメプロレス時代のFMWに現れたボクシンググローブとトランクスを見に纏った"空飛ぶボクサー"新宿鮫さんが登場。
新宿鮫(しんじゅくざめ)本名 大角比呂詩
1964年5月6日東京都新宿区出身 185cm 78kg
1994年2月18日新格闘プロレス・後楽園ホール大会VS田尻茂一
タイトル歴 WEW6人タッグ王座
得意技:ギャラクティカマグナム、新宿アッパー、ムーンサルト・プレス
※エンターテインメントプロレス時代のFMWに現れた空飛ぶボクサー。長年、ボクシンググローブとトランクスを着用してプロレス活動を行ったハードパンチャー。
元々プロボクサーだった新宿鮫さんがどのような経緯でプロレスのリングに参戦することになったのか。流転のプロレスボクサーの運命を変えた分かれ道に迫ることにしよう。
――新宿鮫さん、この企画にご協力いただきありがとうございます。さまざまな団体に参戦し、ボクシングスタイルで闘ってきた新宿鮫さんは、エンターテインメントプロレスFMWに参戦するとジゴロ・キャラで活躍されました。今回は、FMWを中心に色々と語っていただければと思います。よろしくお願いいたします。
新宿鮫:よろしくお願いいたします。
――まずは新宿鮫さんの近況についてお聞かせいただいてもよろしいですか?
新宿鮫:プロレスは全然やっていないです。引退…と言えるほどのレスラーじゃないので、フェードアウトという感じですよ。
――現在はどのような職業をされているのですか?
新宿鮫:大工をしています。もう20代からこの仕事をやっているんですよ。
――そうなんですね。今回は20代の新宿鮫さんについてもお聞きしますので、よろしくお願いいたします。新宿鮫さんといえば、ボクシンググローブとトランクスを着用したボクサースタイルでプロレスをされていましたが、ボクシングを始めたきっかけについてお聞かせください。
新宿鮫:実は小学校4年生で将来プロレスラーになると決めていたんです。中学卒業の進路指導でも「プロレスラー」って出してたんですけど、親にバレて高校に行くことになって…。その頃に映画「ロッキー3」(1982年製作のアメリカ映画)を観たんです。あの映画にハルク・ホーガンが出ているじゃないですか。
――ホーガンはサンダー・リップスというプロレスラー役でシルベスター・スタローンが演じる主人公のロッキー・バルボアと闘っています。
新宿鮫:あれを観るとロッキーの方がカッコいいでしょ。それでプロレスラーになるために箔をつけようとスポーツ歴はなかったんですけど、ボクシングを始めることにしたんです。その頃は「俺は強い」という根拠のない自信があって、シャドーばっかりやらされていたので、「こんなんじゃない」と思ってトレーナーとスパーリングしたんです。それでボコボコにされたんですよ。死ぬかと思うほど。トレーナーがここまで強いのなら他の人はどれだけ強いのだろうと思うようになって、そこからプロレスを忘れてチャンピオンを目指してボクシングの道に走りました。
――ボクシング時代の経歴について教えていただいてもよろしいですか?
新宿鮫:高校卒業した18歳から22歳まで有名なジムにいまして、ジュニアウェルター級(現・スーパーライト級/63.50kg以下)のプロボクサーとしてやってました。プロレスでの経歴では5勝1敗と盛ったのですが、本当は3勝1敗なんですよ(笑)。
――3勝されているということは、東日本新人王トーナメントとか出場されましたか?
新宿鮫:出ましたよ。戦歴は3勝1敗なんですけど、結果は勝っても負けても1R決着なんですよ。とにかくスタミナに自信がなくて(笑)。
――プロボクサー時代の得意技とかあったんですか?
新宿鮫:そんなのあるわけないじゃないですか(笑)。ボクシング、自信がないですから。ただ当時、所属していたジムには日本王者がたくさんいたので、スパーリングを重ねて徐々に強くなっていったと思います。
――185cmの新宿鮫さんはジュニアウェルター級では巨人だったんじゃないですか。180cmでも相当高い部類に入りますから。
新宿鮫:そうなんですよ。とにかくガリガリだったんですよ(笑)。
――ちなみにプロボクサーを引退された理由は?
新宿鮫:ボクシングはジムに行かないと終わりなんですよ。よっぽど上の人間だったら呼ばれるかもしれないけど、やる気がないとダメなんです。1Rで負けた後に「来週、頑張ろう」「来月、ジム行こう」と思って、ジムの前に行くけど帰ったりとかしてましたね。でも28歳くらいになっても「今度ジムに行こう」と思っていて、ボクシングを離れたという感覚はなかったんです。
――ではプロボクサーを正式に引退したというわけじゃなかったんですね。
新宿鮫:そんな時に辰吉丈一郎(「浪速のジョー」という異名を持ち、1990年代に活躍した天才と称された伝説のプロボクサー。元WBC世界バンタム級王者)が活躍している試合を観ると泣けてくるんです。「俺は何をやってるんだ!まだボロボロになってないだろ!」と葛藤が生まれて、それが辛かったですね。
――ボクシング界をフェードアウトされてから、大工をされていたのですか?
新宿鮫:そうですね。24歳の時に「手に職をつけよう」と大工になりました。
俺達のFMW マンモス佐々木編 「第1回 猛獣の原点」
――ここからプロレスの方に行かれるじゃないですか。そのきっかけは何だったんですか?
新宿鮫:ボクシングをやっていた頃はすっかりプロレスを観ていなかったんですけど、友達がプロレス観戦に誘ってくれて、W★INGの戸田スポーツセンター大会(1992年12月20日)を観に行って、メインイベントが松永光弘VSレザーフェイスの釘板デスマッチが面白かったんです。その再戦が小田原(1993年5月5日 神奈川・小田原駅前市営球場)であって、俺が友達を誘って観に行ったんです。その前座でジ・ウィンガーと異種格闘技戦で対戦していたのがボクサーの木川田(潤)君だったんです。
――懐かしい名前ですね。元IBF日本ライト級1位という実績を持つボクサー・木川田潤さんですね。
新宿鮫:その試合を観ていて、「何だ、中途半端なパンチを打ってるんだ」と。試合後に客席の後ろの方で立って別の試合を観ている木川田君に「ボクシング、やってたの?ボクサーならあんなパンチの打ち方はないでしょ」と言っちゃったんです。彼はIBF日本ライト級1位かもしれないけど、俺は日本王者達とスパーリングしてきたのだから、あれはないなと思ったんです。
――IBFは当時、JBC(日本ボクシングコミッション)では認可されていない組織で、新宿鮫さんにはJBCが認可する日本王者達に揉まれてきたという自負もあったわけですね。
新宿鮫:ただこれは後でわかるんですけど。ボクサーとしてプロレスをやるのはずいぶん苦労しました。そもそもボクシングの場合フェイントで隙をついて打つものなので初期は結構相手に怪我させてしまいましたので、段々打ち方変えてるうちネコパンチなんて言われてこのヤローとか思いましたが、プロレスに使える打ち方を色々考えました。ロープに振って殴るなんて最初はこんなことあり得ないとか思いながらやりました。
――プロレスにおけるボクサーとしてのパンチの打ち方をされるのにかなり苦労があったんですね。
新宿鮫:俺の得意技で、ロープに振ってボディー、前屈みになった所にアッパー、ムーンサルトなんか誰もやってないし、今後誰もやらないいと思います(笑)。話は脱線しましたが、俺と木川田君は同い年で、木川田君から「あれは色々とあるんだよ。俺、四谷でスナックやっているからうちの店に来てよ」と言われて、そこから木川田君の店によく飲みに行くようになって。その店にW★ING代表の茨城(清志)さんが来ていて、カウンターに座って新しいデスマッチの画を書いていたり、マッチメイクとか考えていたりするんですよ。
――おお!!木川田さんの店でW★INGのマッチメイクやデスマッチが決まっていた時期があったんですね(笑)。
新宿鮫:それである日、木川田君から「新格闘プロレスという団体が旗揚げするんだけど、出てみないか」と言われて、一回限りやってみようと思って、プロレスのリングに上がることになったんです。ボクサーVSプロレスラーという形で。
ジャスト日本のプロレス考察日誌
――デビュー戦が、1994年2月18日新格闘プロレス・後楽園ホール大会。本名の大角比呂詩でリングに上がりました。相手は新日本プロレスとの異種格闘技戦にも参戦した誠心会館の空手家・田尻茂一さんでした。実際にプロレスのリングで闘ってみて如何でしたか?
新宿鮫:一番驚いたのは、ロープがビヨーンと伸びると思ったらガチガチに固くてね(笑)。あとは別に何も思わなかったですね。お客さんの前で試合ができて嬉しいとかもなくて、とにかく相手を倒すことしか考えてなくて、お客さんを楽しませようという考えはなかったです。
――新格闘プロレスは1994年1月に、新日本プロレスで活躍した誠心会館館長・青柳政司さんが設立。「勝負論の追求」をテーマにして従来のプロレスとは違う「真剣勝負」を謳い文句にして興行を展開しましたが、経営難により10月に自然消滅という形で活動停止に追い込まれます。新格闘プロレスはどんな団体でしたか?
新宿鮫:途中で木村浩一郎(リングス参戦歴やヒクソン・グレイシーと対戦経験があるプロレスラー兼総合格闘家。後にDDTプロレスで強さの象徴として君臨した実力者)が参戦するようになって変わりましたね。浩一郎と青柳館長が闘った試合とか観ていると「なんか楽しくなくなっちゃったな」と。
――確かに新格闘プロレスは青柳さんが早々に退団して、木村浩一郎さんの団体のようになりますね。ちなみに新格闘プロレスは修斗と業務提携を結び、公式戦として修斗と対抗戦を行ってますよね。1994年3月11日後楽園ホール大会で木川田潤さんが当時修斗ウェルター級王者の中井祐樹さんに27秒、ヒールホールドで秒殺された時はプロレス雑誌や格闘技雑誌で「プロレスが負けた」「プロレス最強論崩壊」とセンセーショナルに取り上げられましたよね。新宿鮫さんは修斗の存在についてはどのように捉えていましたか?
新宿鮫:修斗はプロレスを利用して恥を掻かせてやろうという感じがひしひしと伝わってきて、なんか違うなと。朝日昇なんかバックヤードで片っぱしからメンチ切りまくってましたから。まだプロレスやるようになって日は浅かったけど、わかるようになってから余計にそう思いました。
――確かに朝日昇さんが後に雑誌のインタビューで「この試合で自分がそれまで抱いていたプロレスに対する憧れが無くなってしまった」と発言されているんですよ。
新宿鮫:そうですか。修斗もそれだけ強さに自信があったんだろうし。
――自分が修斗とやってやろうという気持ちはありましたか?
新宿鮫:いやぁ、あのね。プロレス入ってから腕をひねられたりするのが嫌だったんです。ガチのスパーリングみたいな。あれが嫌であり、怖かった。別に殴り合いだけだったらやってもいいけど、寝技の経験がなかったので。
――確かに彼らと闘うのなら寝技や関節技に対応しないといけないですよね…。ちなみに新格闘プロレスでは1994年11月に松阪市総合体育館で全試合を「有刺鉄線金網デスマッチ」で行う特別興行を開催しています。新宿鮫さんも参加されたのですか?
新宿鮫:出ましたね。最初から有刺鉄線の金網が組んでいて、しかも相手が非道(当時、は本名の高山秀男で参戦していた)だったんですよ。あれはあれで初めてやったけど面白かったですよ(笑)。元々、非道と仲が良かったのですよ。新格闘プロレスでは巡業があって、二人でよく酒を飲んでましたね。他の選手はあまり酒を飲まないんですよ。あと大工の仕事もあいつは手伝ってくれました。
――非道さんといえば、2021年10月17日に51歳の若さで病気(どのような病気なのかは公表されていない)で逝去されました。非道さんとはどんな方でしたか?
新宿鮫:あいつは酒は好きだけどそんなに強くなくて、よく吐いていたんですよ。いいヤツだったし、頭がいいなと思いましたね。喋ってて「こいつ本とか読んでるな」とか分かったので。
――天国の非道さんにメッセージありますか?
新宿鮫:何年か前にあいつの家に行く約束もしてたんだけど結局行けなかった。ずいぶん痩せたとか聞いてたから心配してたけど…もう一度しみじみ飲みたかった。死因とかわからないけど、多分飲み過ぎも一因だろうから、もう何も気にせず好きなだけ飲んで下さい。と言いたいですね。
<第2回はこちら>
写真/本人提供
取材・文/ジャスト日本
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【ジャスト日本】 プロレスやエンタメを中心にさまざまなジャンルの記事を執筆。2019年からなんば紅鶴にて「プロレストーキング・ブルース」を開催するほか、ブログやnoteなどで情報発信を続ける。著書に『俺達が愛するプロレスラー劇場Vol.1』『俺達が愛するプロレスラー劇場Vol.2』『インディペンデント・ブルース』