ホンダF1参戦2015−2021第4期の歩み(1) フルワークス体制で再び挑んだ第3期(2000年〜2008年)から7年----。ホンダはパワーユニットのサプライヤーとしてF1サーカスに復帰した。2015年にマクラーレンとともに歩み始め、2…

ホンダF1参戦2015−2021第4期の歩み(1)

 フルワークス体制で再び挑んだ第3期(2000年〜2008年)から7年----。ホンダはパワーユニットのサプライヤーとしてF1サーカスに復帰した。2015年にマクラーレンとともに歩み始め、2018年からトロロッソ(現アルファタウリ)と強力タッグを組み、そして2019年からはレッドブルも加わってチャンピオン争いを演じるまでに成長した。2021年に活動終了するホンダF1の6年間に及ぶ第4期を振り返る。



ホンダのロゴの入ったマシンがF1サーカスに帰ってきた

 2014年11月25日。今からちょうど7年前のアブダビ、ヤスマリーナ・サーキットのピットレーンは合同テストに参加するマシンが行き交うなか、マクラーレンのピットガレージだけが衝立で囲われ、静けさに包まれていた。

 2015年からのF1への復帰を決めたホンダがパワーユニットの試作品を完成させ、マクラーレンとともにテスト専用車両MP4-29/1X1を持ち込んできた。1980年代後半から黄金時代を築き上げたタッグの再来とあって大きな注目を集め、テスト開始の午前9時にはガレージ前に大勢のメディアが集まった。「マクラーレン・ホンダ」という言葉が、甘美な響きと畏れにも似た未知なる可能性を感じさせた。

 しかし、ガレージ内からはエンジン音ひとつ聞こえず、そのマシンは一向に姿を現わさない。徐々にメディアの数は減り、ごくわずかな日本人メディアだけがガレージ前で延々と待ち続け、時間だけが過ぎていった。

 ガレージが開いてついにマシンがコースへと走り出したのは、午後3時10分。ゆっくりとしたスピードで確認走行を行なってピットへと戻り、午後4時に再びコースへと出て、本格的な走行を開始した直後にストップ。マシン回収を経て午後5時29分にもう一度コースインを果たしたものの、1周の確認走行を行なっただけで再びガレージへ。明らかに順調な滑り出しとは言えなかった。

 翌テスト2日目は、午前9時からの走行に向けて必死の準備が進められて暖機運転のエンジン音が響いていたものの、セッション開始直前になって問題が見つかり、コースインを果たせたのは午後4時28分になってから。インストレーションチェックのあと、走行を開始したところで再びコース上に止まってしまった。

 マクラーレンとホンダの初めてのテストは、2日間でわずか5周。それも、一度たりともコントロールラインを通過することはできず、ラップタイムを記録することはできなかった。

「システムが起動していくプロセスが不安定で、エンジン始動までいけないという感じでした。電源が入らないから、回せないという状態です。パワーユニットがダメとかいう以前の問題で、それぞれのコントローラーが起動する途中で引っかかってしまうという電気系統の問題です」

 当時の指揮を執っていた新井康久総責任者は、なかなかエンジン始動にまで至ることができない理由をそう説明していた。

 シルバーストンで事前にシェイクダウンを済ませていたとはいえ、その後に配線の取り回しなどを変更しており、極めて複雑なパワーユニットに付随する無数のコントローラーユニットをスムーズに起動させるのは至難の業だった。

 結局のところ、あらゆるERS(ハイブリッド)部分を無効化して切り離し、V6ターボエンジンのみで走らせることでコースへと送り出さざるを得なかった。それでも、たったの5周しか走ることができなかったのだ。

 そのわずか3カ月後には、メルボルンで2015年シーズンが開幕する。テストまでは2カ月しかない。本当に間に合わないのではないか。スタッフたちの間からそんな声が出るほど、事態は深刻だった。

 このテストのためにアブダビへとやって来たホンダのスタッフたちは、テスト前日からテスト2日目の朝まで徹夜で次々と見つかる問題の対処に当たり続けた。予約していたホテルにチェックインしないまま、3日間が過ぎてしまったほどだった。

 一般的なF1チームは、テストには夜専属スタッフを投入して二交代制で運営する。だが、ホンダには夜チームがいなかった。2008年限りでF1から撤退し、6年間この世界から離れていたホンダは、そのF1界の常識を知らなかったからだ。

 第3期のF1活動を終えてから、いかに完全にF1とのつながりが断たれていたかを物語る事実だった。無限を介して最新のF1とつながり続けていた第2期のあととは違い、日進月歩のF1において完全に断絶した6年間のブランクは、あまりに大きかったことを痛感させられた。

 ホンダは2013年5月に、マクラーレンとのタッグでF1に復帰することを発表した。実際にはその前年末からF1復帰に向けた動きが始まっていたというが、それでも当時、何年も前から研究開発を進めてきたフェラーリやルノーでさえ苦しみ抜いていたほど複雑なパワーユニットだ。2015年からの参戦さえ「無謀だ」という声は、社内のエンジニアたちの間で強かったという。

 しかし、マクラーレンの財政事情もあって言われるままに当時のホンダ本社側が契約を交わしてしまっており、パワーユニットを開発する新井総責任者ら本田技術研究所のエンジニアたちは、たった2年という短期間で開発するという極めて厳しい難題に挑まなければならなかった。エンジンやターボといった部品開発の脚の長さを知る者ならば、それがいかに無謀なことであるかはわかるはずだ。

 それでも、2013年の秋口にはベンチ上で1世代目のエンジンに火が入り、2014年の9月には2世代目の試作機としてERSも含めた全コンポーネントを接続してのテストを開始。これをマクラーレンの2014年型マシンに詰め込んだのが、アブダビに持ち込まれたテスト専用車両MP4-29/1X1だった。

 マクラーレンとホンダがともに支え合い、1チームとして高め合っていく。そんな思いを込めて命名されたのが、「1X1(ワン・バイ・ワン)」という名前だった。

 そして彼らがそんな姿勢で作り上げたのが、"サイズゼロ"コンセプトの2015年型マシンMP4-30だった。

「もちろん、出力やドライバビリティでトップを狙うのを目標としています。だけどそれだけではなくて、今のパワーユニットにはエアロダイナミクスとの協調という、もうひとつの要素が強く求められているわけです。MP4-30は"サイズゼロ・カー"というコンセプトの下にデザインしてきましたから、それを実現するためにかなり工夫をしています。

 妥協点を探す工夫ではなく、お互いに相当高いレベルで譲り合わないことをずっとやってきました。せめぎ合って、せめぎ合って、お互いに『そんなにやりたいんだったら、こっちもやってやるよ!』というくらい技術的には相当やり合いました。その結果がすばらしい形になったと思うし、グリッド上で最もコンパクトなクルマになったんじゃないかと思います」(新井総責任者)

 開幕前テストは決して順調と言えなかったが、それなりの連続周回もこなした。エースのフェルナンド・アロンソがバルセロナテストのクラッシュで開幕戦に出場できなくなってしまったとはいえ、11月末のアブダビでは開幕に間に合わないのではと思われたパワーユニットを3月のメルボルンに間に合わせ、ハイブリッドシステムも稼働させた。

 しかし、ギリギリで間に合わせたパワーユニットは、3月のメルボルンの暑さに合ったマッピングが整えられてなかった。絶対に安全と言えるマージンを残して施したセットアップで走り、予選はトップから3秒落ち。

 アロンソの代役で出場したケビン・マグヌッセンは、グリッドに向かう途中でMGU-K(※)が破損してスタートをきることができなかった。長時間にわたるアイドリング時の振動でモーターのシャフトベアリングが壊れるという初歩的なトラブルだったが、ジェンソン・バトンは2周遅れながら11位でマシンをゴールへと持ち帰った。

※MGU-K=Motor Generator Unit-Kineticの略。運動エネルギーを回生する装置。

 コンパクトさゆえのパワー不足、タイトなパッケージングゆえの熱問題と信頼性の問題、トークン制による制限で思うように進められない開発、経験不足、そしてコンパクトなパワーユニットで得られるはずだった空力性能......。

 マクラーレン・ホンダの復活に、課題はあまりにも多かった。

 しかし、不可能と思われるほど絶望的だった開幕に間に合った。あの失意のアブダビからわずか3カ月の間に、外からは計り知れないほど高く険しい壁を、ホンダのスタッフたちは乗り越えてきた。

 マクラーレンとの「ワン・バイ・ワンの戦い」はようやくスタートラインに立ち、これから我々の想像を超える感動を与えてくれるものと誰もが信じていた。

(第2回につづく)