元女子バレー日本代表セッター佐藤美弥インタビュー 前編 今年の5月に現役を引退した、女子バレーボール元日本代表の佐藤美弥。日立リヴァーレで日本を代表するセッターに成長し、東京五輪でも活躍が期待されたが、ケガの影響もあって出場は叶わずユニフォ…

元女子バレー日本代表セッター
佐藤美弥インタビュー 前編

 今年の5月に現役を引退した、女子バレーボール元日本代表の佐藤美弥。日立リヴァーレで日本を代表するセッターに成長し、東京五輪でも活躍が期待されたが、ケガの影響もあって出場は叶わずユニフォームを脱ぐことを決めた。

 引退後、男子日本代表セッターである藤井直伸との結婚を発表。新たな生活を送る佐藤が、自身のバレーボール人生を振り返った。



今年5月の引退試合後のあいさつで、栗原恵(右)から花束を渡された佐藤(写真/本人提供)

 母がママさんバレーをしていたという佐藤は、小学校4年の時に友人に誘われて自身も競技を始め、6年生になるタイミングでセッターに転向。チームに所属する同学年のメンバーは佐藤も含めて2人しかおらず、監督はそのもうひとりをアタッカーとしてコンビを組ませた。

 当時の佐藤の身長は、女子としては大きい160cm。それでセッターに指名されたら不満も出てきそうだが、佐藤は「もうひとりの子が私より大きかったですからね。ポジションはセッターだけどスパイクも練習していましたし、特別こだわりもなかったので嫌ではありませんでした」と語る。

 学区が違う近隣の小学校には、ロンドン五輪銅メダリストの江畑幸子がいた。幼稚園は一緒で友達だったが、再びつき合いが始まったのは、共に地元・秋田県の聖霊女子短期大学付属高校に入学してからだ。

「バレーを始めたのはエバ(江畑の愛称)が先で、小学校の時はよく練習試合をして顔を合わせていましたが、そこまで話をするわけではなかったです。そのあとに高校で一緒になるんですけど、中学校3年生の時、聖霊女子の関係者の方に『国体に一緒に出よう』とお誘いいただいたのが進学のきっかけでした。

 私が高校3年生になる2007年に秋田で国体があり、それに合わせて聖霊女子も強化を進めていたんです。私は背の高いセッターとして期待されていたんですが......中学時代は聖霊女子の付属中学が"ライバル校"で、『聖霊女子を倒したい』という気持ちがあったので少し迷いましたね。ただ、バレーに真剣に向き合うようにもなって、(強豪校から声をかけられることは)めったにない機会ということで決断しました」

 高校では1年生を主体に起用され、「その分、出場機会が減ってしまった先輩たちに対する責任も感じていました」というなかで佐藤も江畑も経験を積んでいく。

「エバは、チームメイトとして本当に頼もしかったです。当時もセッターとして頼っていたというか、任せきっていた部分もありました。バレー以外の部分でも一緒にいることが多くなって、映画を見に行ったり買い物をしたり遊んでいましたね」

 ともに成長し、3年生で迎えた国体は3位決定戦をフルセットで勝利。3位という輝かしい成績を収めた。

「それまでの全国大会では結果を残せていなかったので、まったく期待をされていなかったでしょうけど、なぜか勝ち進んで(笑)。この国体は、大会が終わるまですごく楽しかったです」


のちに日本代表で活躍する佐藤と江畑

 photo by Sakamoto Kiyoshi

 バレーは高校で終わり。そう考えていた佐藤は「Vリーガーになれるとはまったく思っていなかったですし、バレーとは関係ない進路を自分のなかで決めていた」が、秋田国体による出会いが人生を変える。

 秋田県は国体に向けた強化のため、日立佐和リヴァーレの総監督を務めていた菅原貞敬(現・日立リヴァーレのシニアアドバイザー)を国体強化アドバイザーとして招いていた。その菅原に、東京の名門である嘉悦大学を紹介されたのだ。

「菅原さんに紹介していただいたことで、『挑戦してみよう』と思うことができました。『セッターはとにかく経験を積むことが大切だ』という話もしましたね。それで嘉悦大を卒業したあとに日立に入るのは自然の流れかもしれませんが......その時点でもVリーグで活躍できる自信があったわけではありません。

 高校、大学の時も、日立には合宿に行っていたのでどんなチームかはなんとなくわかっていました。ただ、日立に入った当初は『エバがいる縁があるからで、自分の実力じゃないのかな』ということが頭をよぎったこともあります」

 そうして不安を抱えながら日立に入団した2012年、チームメイトになった江畑はロンドン五輪に出場。準々決勝の中国戦では木村沙織と並ぶチーム最多タイの33得点を記録するなど、銅メダル獲得に大きく貢献した。

「当時の私にとっては日本代表が身近じゃなくて、"テレビのなかのもの"でした。そこで活躍するエバを、単純に『すごいな』と思ってプレーを見ていました」

 そこから、佐藤も代表の中心選手になるまで成長を遂げるわけだが、能力を大きく伸ばしたひとりが、2014年に日立の監督に就任した松田明彦だ。松田は男子日本代表のセッターとしてバルセロナ五輪に出場し、引退後は男子Vリーグの豊田合成トレフェルサ(現・ウルフドッグス名古屋)の監督に就任。初めてチームをプレーオフに導いた。

 日立でも男子の戦術を取り入れるなどして強化。Vリーグ1部(プレミア)に昇格したばかりで、下位に沈んでいたチームを準優勝(2015-16シーズン)にまで引き上げた。自身が現役時代にプレーしていたセッターの育成もうまく、佐藤はその恩恵を受けた形になる。

「松田さんは、その時にチームにいるメンバーにとってベストなバレーを教えてくれる方でした。私も松田さんに指導していただくようになってから、いろんな方にプレーを評価していただけるようになりましたし、本当に大きな出会いでしたね。チームメイトも、すごく精度が高いパスを返してくれて、トスをことごとく得点にしてくれる選手たちが揃っていて、『恵まれていたな』と思います」

 松田の指導ではどんな戦術で、セッターについての教えはどうだったのだろう。

「戦術的には"速いバレー"で、私自身にも、チームにもマッチしていたと思います。ただ、練習での指導は『ピュッてやったらいいんだよ』『こういう感じやで』といった"感覚の人"な印象です。

 でも、試合中はトスでミスをすると『違う!』と一喝されたり、大事な1点を巡る場面の時には『次はこれで』というサインをくれたりします。それがほぼ100%決まるんですよ。そういったなかで、試合の流れを読む力が培われたように思います。

 何より私にとっては、すごく信頼してくれているのを感じられたのが大きかったです。うまくいかないプレーがあって考え込んでしまっている時などに、『お前なら、こんくらいできるやろ』と簡単に言ってくれることで前に進むことができた。それが、選手としての自信につながりました」

 もうひとり、佐藤の支えになったのが栗原恵だった。長らく日本女子バレー界をけん引した栗原は、パイオニアレッドウィングスや岡山シーガルズなどを経て、松田と同じ2014年に日立に加入。ケガに苦しむこともありながら、豊富な経験をチームに還元した。

 チームメイト時代、栗原は常に「ミヤは十分頑張っているよ」という言葉をかけてくれた。それで気持ちがラクになったことに加え、プレー面でも「『すごくアタッカーに対して遠慮している』というアドバイスは印象に残っています。アタッカーに合わせるんじゃなくて、『セッターがもっと操っていい』と。それでトス回しも向上させることができた」と語る。

 さらに別の"すごさ"を実感したのは、栗原が2018年に日立を退団し、JTマーヴェラスに移籍したあとだ。

「めぐさんがチームから離れたあとは、自分が年齢的にも経験的にも上の立場になり、その難しさをものすごく感じました。自分の欲や思いもあるけど、最年長としての振る舞いもしないといけない。そういうことで悩んだ時に、JT時代や引退されてからも、めぐさんは何度も相談に乗ってくれました。

 私が日本代表で結果がなかなか出ない時も心配してくれて、東京五輪に出場できないことが決まった時には自分の気持ちを包み隠さずに伝えました。めぐさんは、顔を見ただけでわーっと感情が溢れてしまうような存在。一緒にプレーできたこともそうですが、出会えたこと自体が『よかったなぁ』と思います」

 今年5月に行なわれた佐藤の引退試合には、栗原が花束を持って"サプライズ登場"した。

「びっくりしましたよ(笑)。ずっと支えてもらっていた方に、引退のタイミングで花をいただけた。『本当に幸せだな』と感じました」

(後編:今も悔やむ中田ジャパンで「疑問を残したまま」のこと>>)

◆佐藤美弥(さとう・みや)
1990年3月7日生まれ、秋田県出身。小学校4年生からバレーを始め、セッターとして聖霊女子短大付属高校、嘉悦大で活躍。卒業後の2012年に日立に加入して成長し、2017年からは中田久美監督体制の日本代表で多くの試合に出場。スピードのあるトスワークで攻撃陣をけん引した。2021年5月に現役を引退。男子日本代表セッターである藤井直伸との結婚を発表した。