元女子バレー日本代表セッター佐藤美弥インタビュー 後編  佐藤美弥が初めて日本代表に選ばれたのは嘉悦大学時代の2010年。しかし、この時はBチームとしてAVCカップに参加したのみで、本格的に代表でプレーしたのは2014年のこと。同年のモント…

元女子バレー日本代表セッター
佐藤美弥インタビュー 後編 

 佐藤美弥が初めて日本代表に選ばれたのは嘉悦大学時代の2010年。しかし、この時はBチームとしてAVCカップに参加したのみで、本格的に代表でプレーしたのは2014年のこと。同年のモントルーバレーマスターズにも出場したが、佐藤は「まったく自信がなかった」と話す。

「前年にチーム(日立リヴァーレ)がプレミアに昇格したばかりで、リーグで全然勝てない時期でしたから、『なんで自分が』という思いもありました。最初にモントルーでコートに立った時は、足が震える感覚というか、すごく緊張した記憶があります」



中田久美体制の日本代表のセッターとして活躍した佐藤

 その後、2016年のリオデジャネイロ五輪出場を目指したが、事前合宿には呼ばれたものの最後はメンバー落ちした。2015-16シーズンはリーグを準優勝するなど結果も出せていたが、当時26歳。次の東京五輪を考えた時に「30歳で代表を狙えるのかな。そもそも、それまでバレーができるかな」とさまざまなことを考えた。

 そんななか、翌年に中田久美が代表監督に就任。かつて日本代表で活躍した"天才セッター"が指揮官になって1年目の代表メンバーに、佐藤も選出された。

「リオ五輪に出られなかった時点で、東京五輪のことはあまり考えられませんでしたが、(その時の選出によって)曖昧だった覚悟が『東京五輪を目指す』とはっきり決まりました。だからか、世界と戦うのは2014年の時に比べると楽しみでしたね」

 中田監督からは、どんなことを期待されていたのだろうか。

「直接ではないですが、『トスの質がいい』と言ってくださったのを聞いたことがあります。ミドルの攻撃に自信を持っていたので、そのあたりを買われたのかもしれません。日本代表でも、ミドルを中心としたコンビを展開できたらというビジョンはありました」

 中田監督の戦術といえば「ワンフレームバレー」。サーブレシーブなどセッターへの1本目のパスから、トス、スパイクまでの速さを重視した。佐藤は日立でも、松田明彦監督のもとで"速いバレー"を実践していたが、それとはまた別のバレーだった。

「松田さんのもとでやっていたのは、1本目をゆっくりにしてもらって、セッターの私のところから速く捌くものでした。対してワンフレームバレーは、相手だけじゃなく自分たちの準備の時間も短くなって、間の作り方も違う。『本当にこれでいいのかな』と少し疑問に思いながらプレーしてしまっていた時期もありました。

 戦術自体に疑問があったわけではありませんし、久美さんともすごく戦術の話もしていました。ただ、それを完成させるのに必死で、疑問を残したままにしてしまって『突き詰められなかったな』と思います」

 中田ジャパンでは正セッターがなかなか固定されなかった。佐藤も、ケガの影響もあってその座を掴めずにいたが、2019年のW杯では大会を通して正セッターとして活躍した。

「(中田久美体制になって)代表に呼ばれた2017年から、日立では松田さんから甲斐祐之さんに監督が変わって、私は大きいケガを繰り返すようになるなど、さまざまな変化がありました。W杯でチャンスをいただけたことは感謝しかありませんが、同時に不安もすごくありました。

 オリンピックの前年の大会では、結果を出さないと最終メンバーに残れない。そういう自覚を持ってプレーしないといけないのに、大会前の練習ではあまり納得がいくプレーができないなど、『自分がやりたいバレーができない』と葛藤していました。W杯期間中も苦しかったですが、久美さんは一緒になって考えてくれました。映像を見ながら意見を交換するなどして、精神的に背中を押してもらっていたような感じです」

 苦しくも前進していた矢先、2020年の夏に開催されるはずだった東京五輪の延期が決まる。代表のなかでもベテランになっていた佐藤は、その時に「引退も考えた」と言う。

「若い選手にとって1年の延期は、"成長するための時間"とプラスにできる要素が大きいと思います。だからこそ、下からの突き上げに1年間も耐えられるのか、若い選手たちの成長を上回る努力ができるのか、その努力をしても出られなかったら......とマイナスに考えるようになりました。

 それまでも、あまり手応えがないなかで、東京五輪に向けて必死にアピールしていました。プレッシャーはとてつもなく大きかったですから、1年の延期が長く感じられて、簡単に『じゃあ来年』という気持ちにはなれませんでした」

 昨年6月に引退を発表した新鍋理沙のように、早い段階で引退を決めた選手もいたが、佐藤は現役を続行。国際大会が組めないなか、なんとか気持ちを保って代表合宿で練習に打ち込んだ。

だが、8月に行なわれた代表の紅白戦でアキレス腱をケガ。復帰できたと思った10月のVリーグ開幕戦で再び同じところをケガした。

「その時は『オリンピックに間に合うように、復帰に向けて頑張ろう』と思っていたんですが、リハビリ中にもともと持っていた腰痛も悪化して......。『なんで今なんだろう』『リハビリしても無駄なんだ』と気持ちがどん底まで落ちてしまい、リーグの途中でしたが(日立の監督の多治見)麻子さんにも『もう辞めたいです』と相談しました。

 麻子さんは自分の代表時代の話もしながら、『まだいける。ちょっとでも可能性があるうちは頑張ろう』と励ましてくれました。中途半端な状態ではコートに立ちたくなくなかったですし、目標のオリンピックまでに状態が戻るとも思えなかったので意思はなかなか変わらなかったんですけどね。それでも、私のトスを打ちたいっていう仲間もいて、だんだんと『それに応えることだけでも意味があるんじゃないか。やれることだけでもやろう』という気持ちになっていきました」

 体の状態は思うように戻らず、2020-21シーズンの出場はわずか3試合のみ。2021年度の日本代表メンバーには登録こそされたものの、東京五輪出場は叶わなかった。

「2021年度の代表に登録していただいたことを聞いた時は、やっとジョギングができるようになったくらい。難しいとはわかっていても、オリンピックに出られないという現実を目の前にすると、受け入れるまでは時間がかかりましたね。ですが、リハビリを含めて自分と格闘して、そこを乗り越えたことが私のなかでゴールになりました。

 アキレス腱のケガをした昨年の代表合宿から、久美さんには体の状態について連絡を取っていました。すごく心配もしていただいていたので、さらに腰を痛めてどんどん体が動かせなくなるうちに申し訳なさを感じるようになって......私から連絡をしづらくなっていました。そんななかでも、代表に名前を残していただけたことは本当に嬉しかったです」



2012年から日立リヴァーレひと筋で9年間プレーした

 5月21日、日立リヴァーレは紅白戦形式で、佐藤を含む4選手の引退試合を実施した。試合は佐藤が入ったチームが勝ったが、決勝点は佐藤のスパイクだった。そして試合後には、チームメイトひとりひとりに最後のトスを上げ、一度引退を決めた時に思った「『私のトスを打ちたいという仲間』の気持ちに応える」という目標を果たした。
 
 今の佐藤は、日立アステモ株式会社で平日に仕事をする日々を送っている。

「引退しても仕事を続けられる環境に感謝しています。休日は、日立と主人(東レアローズの藤井直伸)の応援で忙しいですね」

 数々の苦悩や試練と戦ったバレー人生。それを乗り越えて満面の笑みを見せた佐藤は、幸せいっぱいの第二の人生を歩み出した。

◆佐藤美弥(さとう・みや)
1990年3月7日生まれ、秋田県出身。小学校4年生からバレーを始め、セッターとして聖霊女子短大付属高校、嘉悦大で活躍。卒業後の2012年に日立に加入して成長し、2017年からは中田久美監督体制の日本代表で多くの試合に出場。スピードのあるトスワークで攻撃陣をけん引した。2021年5月に現役を引退。男子日本代表セッターである藤井直伸との結婚を発表した。