ルートインBCリーグ・福島ホープスの岩村明憲選手兼監督兼球団代表が10日、都内で会見を行い、今季限りでの現役引退を発表した。ヤクルト、MLBレイズ、楽天などでプレーし、日本代表として2度のWBC制覇にも貢献した岩村は、NPB通算1194試合…

ルートインBCリーグ・福島ホープスの岩村明憲選手兼監督兼球団代表が10日、都内で会見を行い、今季限りでの現役引退を発表した。ヤクルト、MLBレイズ、楽天などでプレーし、日本代表として2度のWBC制覇にも貢献した岩村は、NPB通算1194試合出場で1172安打、打率.290、193本塁打、615打点をマーク。3球団に所属したメジャーでは通算408試合出場で打率.267、16本塁打、117打点の成績だった。

■現役生活のピリオド「トータル的に考えて引退した方がいいのかなと」

 ルートインBCリーグ・福島ホープスの岩村明憲選手兼監督兼球団代表が10日、都内で会見を行い、今季限りでの現役引退を発表した。ヤクルト、MLBレイズ、楽天などでプレーし、日本代表として2度のWBC制覇にも貢献した岩村は、NPB通算1194試合出場で1172安打、打率.290、193本塁打、615打点をマーク。3球団に所属したメジャーでは通算408試合出場で打率.267、16本塁打、117打点の成績だった。

 2015年からBCリーグ福島の選手兼監督に就任し、同年11月からは球団代表も務めて“三刀流”の活動を続けていた岩村氏は会見で、引退決断の理由などを説明。さらに、第2の人生も座右の銘である「何苦楚魂(なにくそだましい)で進んでいきたい」と誓った。

 以下は引退会見の主な一問一答。

――冒頭挨拶。

「今季をもちまして現役生活にピリオドを打ちたいと思います。21年間のプロ生活、いろいろな思い出があります。振り返るのは難しいですけど、1試合1試合、全力で駆け抜けてきました。まず両親に感謝し、家族に感謝しながら、ここまで野球生活を続けてこられたことを誇りに思っています。これからは今まで経験させてたいただいたことを軸に、野球界に携わっていきたいなと。またこれからも自分の経験したことを、後輩たちに伝えていかないといけないなという覚悟で、精進していきたいと思っております」

――引退を決意した一番大きな理由は?

「今、BCリーグ・福島ホープスというチームに在籍させていただいていますけども、プロ野球から離れて今年で3年目になります。自分の中で、どこでどう引き際を決めればいいのかなっていう思いは、正直1年目からありました。ただ、体が動く以上は野球をしたいなっていう気持ちもありました。1度アメリカにも行かせていただいた中で、どういう舞台であっても野球ができることに喜びを感じながら、また自分自身が福島ホープスに来た理由も、僕自体が楽天さんに御世話になっていた時に東日本大震災がありまして、東北の方々になんとか自分ができることをしてあげたいなっていう思いの中で、ただただ空回りする2年間だった。本当に悔しい2年間の後、またチャンスをくれた福島ホープスに非常に感謝しています。

ただ1年でユニフォームを脱ぐのはどうかなと。まだまだ体が動くうちは、というところで、若い選手たちと共にここまでやってきました。BCリーグはいろいろなルールがあります。そういう中で、自分が今、監督という立場もありまして、選手たちを育てていく中で、自分の名前が足かせになっている部分も正直ありました。そういう部分をいろいろ加味しながら、ただこうして自分がけじめをつけながら一線を引けるチャンスをいただけたことに感謝しています。そういうことをトータル的に考えて今年いっぱいで引退した方がいいのかな、と、自分の中で結論を出しました」

■印象に残るシーン「母親が亡くなった日の試合でホームランを2本打てた」

――現役生活の中で印象に残るシーンは?

「18歳で愛媛県からヤクルト・スワローズにドラフト指名していただきまして、多くの試合を、本当に数え切れないくらいの試合を経験させていただいたので、本当に振り返るのは難しい言葉を使ったんですけど。昨日、自分たちの試合が長野県であって、帰りの新幹線の中で、1人でいろんなことを考えながら帰ってきました。多分『思い出の試合を…』っていうことを言われるだろうって想定しながらいろいろ考えていたんですけど、これを1試合に絞るのは非常に難しいなっていうのはあります。その中で数試合を挙げさせていただきたいなと。

 まず1試合目は、何よりも2001年にヤクルト・スワローズで優勝した時のあの瞬間っていうのは、やっぱり忘れられないものになりました。また、自分の母親が亡くなった日の試合に出て、ホームランを2本打てたというのも、非常に自分の中では気持ちがない中で、本当に母親が打たせてくれた部分だったと思います。あとは、WBCの世界一になった瞬間というものも非常に大きかったですし、最後にアメリカでボストン・レッドソックスとのア・リーグ・チャンピオンズシップの第7戦っていうのは非常に心に残っております。

 この中でどれが一番っていうのは正直、順番を付けがたいんですが、非常にいろんな経験を野球の試合を通して重ねさせていただいた。先のWBCでも、本当に今戦っている若い選手たちの姿を見ていると、非常に頼もしくて、日本人でよかったなっていう誇りというのも非常に感じました。共に戦って、自分がその中に入ってっていうものがないのであれば、もちろんバットは置かなければいけないのかなと」

――現役引退にあたり、一番最初に伝えた人物は?

「正直、この独立リーグに行く時に、自分の家族には『いつどうなるか分からない』ということは話してはいましたけど、正式に引退すると伝えたのは、やはり父親であったり兄であったり、ということです。ただ、本当に多くの方に支えていただいたので、まだまだ会見を開くのが早すぎて、連絡が届いていない方もいるんですけど、ただ今日明日引退するわけではないので、今シーズン最終戦を持って引退するので、1年間通して選手を語る以上、グラウンド上、フィールド上に出れば120パーセントの力が出せるように、しっかり準備をして戦っていきたいと思います」

――引退にあたって、印象深い言葉を掛けられたか?

「いろいろな方々から声を掛けていただいたんですけど、僕を福島に引っ張ってくれた小野剛GMがですね、一番最初に引退すると言った時に、自分のことのように涙を流してくれました。僕自身はもちろん、寂しい辛いこともあるかもしれませんが、なんかここでけじめというか、一線を引けることに対して、なんか清々しい部分もあるんで、そうやって親身になって考えてくれたことに感謝しています」

――楽天在籍中に震災を経験して東北地方との関わりも根強くなった。今後の東北復興への関わりについて。

「福島県の郡山と(東京の)自宅を行き来している中で、今年で3年目になるこの東北生活、プラス仙台に住んだ2年間の生活の中で現状を見た時に、まだまだ復興が進んでいない部分はありますし、風評被害ももちろんあります。もちろん、政治の方々が考えられるべき部分で、僕たちが首を突っ込むのはどうかと思うんですけど、僕たち一人一人ができることを、これからもやっていきたいし、野球選手がそういうものに携われる、一役買えるものであれば、逆にどんどん教えていただきたいなと。

 福島県は、特に原発という非常に大きな問題を抱えています。(福島に)いてニュースで目にするのは、避難されている方々、また子供たちに対してのいじめの問題っていうのは非常にシビアな問題であって、それが現実に起きている問題だと思います。それを、やっぱり周りの大人がどうに考えるかは非常に大事な問題ですし、これは野球人というより、一人の大人として勉強させられるなと。対応の仕方もそうだと思いますし。そういうところで一役買えるのであれば、何でも強力させていただきたいと思います。

 ただ、現在福島県内で生活されている方は非常に元気に生活されていますし、自分も交歓試合として子供たちの試合をやっているんですけど、非常に明るく笑顔で白球を追う姿っていうのは、東北のみならず全国変わらないなっていうのを、僕は感じています。今回、2020年の東京オリンピックの野球・ソフトボールの試合が、福島県の東球場でも行われるというのが決定して、福島県はそれに対していろいろな課題をクリアしていかなければならないと思うんですけど、世界が注目してくれること、世界の方々が福島県に足を運んでいただいて、今の福島の良さを口コミで広げてくれること、それをどう考えていかなければならないかが、僕は非常に大事だと思っていますので、野球を通して僕たちが伝えていけることは、これからも伝えていきたいと思います」

■地元・愛媛、震災を経験した東北への思い、プロとして誇れるもの

――震災を経験したり、楽天をはじめ東北でプレーしたことが、野球人としても人間としてもキーポイントになった部分はあるか?

「あります。特に楽天に入った2年間というのは、非常に自分でも苦しくてですね、言葉では正直言い表せないくらいだったんですけど、あの2年間があったから今があると、僕は正直思っています。もちろん、いろんなことを言われましたけど、それも自分に対する期待の部分ということで僕は受け取って、今後の野球人生に励みにさせていただきました。なので、楽天イーグルスでの、たった2年間かもしれないですけど、非常に内容のある、野球人生の中では重みのある2年間になりました」

――現役生活を振り返って、誇れる部分は?

「僕自身、プロとしてという自覚の部分で、さっきの母親が亡くなった日の試合に残ったという部分は誇れるのかな、と。ただ正直悔いは残っています。今後そういう場面に遭う選手もいるかもしれない。その時に掛けられるアドバイスがあるとすれば、僕自身、当時の若松(勉)監督から『いいから、すぐ帰れ』という言葉をかけていただいたんですけど、やっぱり自分の中で『目の前の試合を…』ということしか言えなくてですね、試合に残していただいた。

(同じ状況の選手に)今敢えてかけられる言葉は、悔いが残らないようにしてほしいなという部分ではあります。(自分の場合)どちらが正しかったのか分からないんですけど、本当に試合に残って試合に出たことで、ホームラン2本が出たんじゃないかと。また、それは本当に自分自身ではなくて、周りから見ていた、天国から見ていた母親が打たせてくれたんじゃないかなと感じておりますんで、プロとしての部分では誇れます。

 ただ自分が欠かさなかったのは、一塁までの全力疾走というのは、打ったら走るということは、常々言われていまして。自分の人生を大きく成長させていただいた方々っていうのはいっぱいいるんですけど、その中でも高校時代の上甲正典監督から教えていただいた、打ったら走る、という野球の基本中の基本をやり通せたっていうのはあります。今シーズンも、まだまだ打席に立って凡打しても一塁への全力疾走っていうのは欠かさないようにしたいと思います」

――お父さんとお兄さんには、具体的にどうに引退を伝えたのか? 地元・愛媛で応援する方々にメッセージを。

「まず父親と兄はですね、『そろそろ今年でけじめを付けようかなと思っている』ということを伝えさせていただきました。父親からは『お前の野球人生だから』ということを言われたのと、兄は2年間ですけど、同じプロ野球にいた人間なので『これからが大変だから、これからを頑張りなさい』というメッセージをもらいました。

 あらためて、今、球団代表も兼務させてもらっていますので、営業に回ったり、という部分もあります。そういうことを一から社会人として勉強しながら、第2の人生、後継者を育っていくということも力を入れていきたいと思います。

 本当にいい時も悪い時も、温かく愛媛県民の方には迎えていただきました。本当に長い間、岩村明憲を応援していただき、本当にありがとうございます。ただこれからも愛媛県の子供たちのために自分ができることは微力ではありますけど、120パーセント力を注いでいきたいなと。野球王国・愛媛が生んだメジャーリーガーがですね、必ず愛媛県の子供たちには恩返しをしたいなと思っていますので、引き続きそういう活動をさせていただきます。これからもいろんなところで顔を合わせることがあると思いますけど、気軽にお声掛け下さい。ということが、自分の愛媛県民のみなさんに対するメッセージとさせて下さい」

――「何苦礎魂」の言葉の意味をどのように捉えているか?

「この言葉との出会いは、僕の師匠でもあります中西太さんからいただいた『何苦礎』という言葉から始まった言葉なんですけど、『何事にも苦しむことが礎となる』というところで、もちろん多くの喜び、美味しいお酒を味わってきましたけど、その中でも苦汁をなめたシーズンがありましたし、大きな怪我もしてきました。そのことすべてが僕は礎となった、今後の第2の人生も『何苦礎魂』で進んでいきたいと思っています」