廣中璃梨佳(日本郵政グループ)にとって、シニア初の世界大会となった東京五輪では5000mと1万mに出場。予選を含め計3レースともに自己記録を更新し、世界にその姿を印象づけた。東京五輪の大舞台で存在感を示した廣中璃梨佳 5000mは決勝で9…

 廣中璃梨佳(日本郵政グループ)にとって、シニア初の世界大会となった東京五輪では5000mと1万mに出場。予選を含め計3レースともに自己記録を更新し、世界にその姿を印象づけた。



東京五輪の大舞台で存在感を示した廣中璃梨佳

 5000mは決勝で9位ながらも、14分52秒84で16年ぶりに日本記録更新し、1万mは1996年アトランタ大会以来25年ぶりの日本人入賞となる7位。初出場で入賞を果たした女子1500mの田中希実(豊田自動織機T C)や男子3000m障害の三浦龍司(順天堂大)、男子走り幅跳びの橋岡優輝(富士通)らとともに、次世代を担う力を見せた。

「五輪期間中は1レース1レースが次につながっているとすごく感じました。5000mは昨年9月の全日本実業団で、新谷仁美選手(積水化学)と一緒に14分台を出せたのが自信になっていて。今年6月の日本選手権では、その記録を更新できなかったけど、五輪では必ず14分台を出すんだという気持ちで臨み、最初から自分のペースで走った結果、決勝につなぐことができました。予選で日本記録まであと3秒だったので、決勝ではそれを目指して走りましたが、入賞にはあと一歩届かず9位でした。

 ただ、その悔しさを晴らそうと思って走った1万mでは入賞も果たせましたし、一つひとつが学びであって『こういう走りをしたい』という目標にもつながりました」

 5000m決勝のラスト1000mを2分54秒2まで上げたが、周りはさらに速かった。

「世界は2分40秒ぎりが当たり前なので、今後を見据えてスピード強化にも取り組んでいかなければいけないと思う」

 一方、入賞を果たした1万mは、5000mの強化のためということで今年4月から取り組み始め、五輪のレースが3レース目だった。

「5000mから8000mまでの一番きつくなるところでもっと粘らなければいけないし、後半の5000mが遅くなったので、そこがカギになる。5000mとは楽しみ方が違うと思えたのですが、もっと経験を積んで走り方の引き出しを増やし、自分の専門種目と言えるようにしていかなければいけないと思っています」

 ただ、5000m、1万mともに序盤は先頭に出て集団を引っ張る走りをしていた。

「悔いなく走るというのが(今後の)自分の走りにつながると思ったので、初めての五輪であっても怖がらずにいってよかったです」

 廣中と言えば、駅伝では最初からガンガン行くスタイルが特徴的。しかし、トラックではなかなかそういう走りができなかったと振り返る。

「駅伝はタスキをつけるだけで『1人で走っているんじゃない』という感覚になり、1秒でも早くタスキを渡したいという思いから、最後にきつくなってきても気持ちで押して、『突っ走るしかない』という気持ちになれるんです。でも、トラックだと構えてしまう部分があって、目立った結果を出せていませんでした。インターハイでも4位が最高で『暑さに弱い』と言われたり、『駅伝は強いけどトラックはそうでもない』と言われていたのが、ずっと悔しくて、いつか見返したいと思っていました」

 トラックの走りが変わったきっかけのひとつが、昨年12月の日本選手権5000mでの苦い経験だった。なかなか思いきっていけないなか、ラストで田中に突き放されて2位になり、その時点での東京五輪代表内定を逃してしまった。

「自分はまだまだ弱い」と実感し、最初から積極的にいくことができれば、最後に抜かれて敗れても、悔いが残らないレースになるのではないかと考えた。それが今年5月の1万m日本選手権優勝や、6月の日本選手権5000m優勝での五輪代表内定につながったのだ。

 ただ、駅伝に関しても最初から積極的に走れていたわけではないという。

「きっかけは、中学3年の中学駅伝の県大会でした。優勝して全国大会出場を狙っていたけど、競り合っていた学校に13秒差で負けて全国大会を逃してしまったんです。1区でライバル校の全国中学やジュニアオリンピックに一緒に出ていた子と走って、4秒差で勝ったけれど、チームは負けてしまい、悔しさが残りました。その3週間後の九州大会では、その学校に勝ちたいという思いから、1区で攻めの走りができて、最終的にはチームが1秒差で勝ちました。あの時の悔しさが今の自分につながっていると思います」

 高校は長崎の強豪校・諫早高校を選ぶのではなく、いつも2位だった長崎商業高校を選んだのは、自分の力で打倒・諫早を果たしたいと思ったからだ。

「負けず嫌いというのがあるかもしれないけれど、いつも2位の高校に行って『全国大会へ行けたんだ』という達成感を味わいたかったというのが大きいですね。それに中学からライバルであり親友だった子と『諫早高校以外の学校に行って自分たちの力で倒してみたいね』と約束もしていたので。その子は別の高校に行ったのですが、駅伝の県大会ではいつも1区で一緒に走って切磋琢磨していました。

 私の高校は中学の時に陸上をやっていなかった子たちもいて、そのなかでたくさんミーティングをして少しずつ『全国大会へ行きたいね』という気持ちになり、それを3年の時に達成できたので、本当に感謝だったし、長崎商業でやっていてよかったなと思えました」

 高校時代は陸上に打ち込んではいたものの、それだけではなく、陸上を通して多くのことを知りたいという思いもあり、楽しんでやることも大切だと考えていた。

 だが、高校卒業後は強いチームに入り、先輩たちの胸を借りて強くなりたいと考えて日本郵政グループに入った。そして全日本実業団対抗駅伝で1区を突っ走り、2年連続の区間賞を獲得してチームの優勝の立役者になっている。

「きつくても最後の一歩まで諦めないという気持ちを強く持って、終わったあとの笑顔を想像して走っています。これまで力を出しきれずに終わるレースを何度か経験しているので、そうなりたくはないという思いもあります。きつさを味わえるのは自分の限界に挑戦できている証でもあるので、嫌だと思ったことはありません」

 陸上競技以外はおおざっぱで、こだわりも強くないという廣中。高橋昌彦監督は、「オフの日はショッピングなどにも出かけている。オンオフの切り替えがうまく、リフレッシュ法も自分で考えてうまくやっている」と評価する。

「2022年からパリ五輪までは2年続けて世界選手権があるので、大舞台を経験してもっと自分の可能性を広げたい。今回東京五輪で感じたのは、世界と対等に戦えるようになりたいということでした。5000mは14分40秒や30秒を目標にしていきながら、決勝でもしっかり戦えるようになること。そのためには1500mのようなスピード対応力や切り替えも必要になります。それをベースに5000mの自己記録も伸ばしたいし、それが1万mのスタミナ強化にもつながるので、距離を踏んで脚づくりをして、スピードを生かして30分台前半から29分台にいけるようにと段階的に上げていきたいと思います。

 これまでは駅伝のほうが好きという気持ちが強かったのですが、シニアの世界大会でも戦えるというのが少しずつわかってきたので、もっとトラックを極めて自分の走りを確立して上を目指したいと思うようになりました」

 そんな廣中が目指すのは、過去には97年世界選手権1万mで千葉真子が銅メダルを獲得した以来となる世界大会でのトラック長距離種目でのメダル獲得。彼女の眼には今、それしか映っていない。