「THE ANSWER スペシャリスト論」フィギュアスケート・中野友加里 スポーツ界を代表する元アスリートらを「スペシャリスト」とし、競技の第一線を知るからこその独自の視点でスポーツにまつわるさまざまなテーマで語る「THE ANSWER」の…

「THE ANSWER スペシャリスト論」フィギュアスケート・中野友加里

 スポーツ界を代表する元アスリートらを「スペシャリスト」とし、競技の第一線を知るからこその独自の視点でスポーツにまつわるさまざまなテーマで語る「THE ANSWER」の連載「THE ANSWER スペシャリスト論」。フィギュアスケートの中野友加里さんがスペシャリストの一人を務め、自身のキャリア、フィギュアスケート界などの話題を定期連載で発信する。

 今回は「中野友加里とオリンピック」前編。2022年北京五輪が控えるフィギュアスケート界は10月からグランプリ(GP)シリーズが始まり、本格的にシーズンに突入した。現役時代、バンクーバー五輪代表選考を兼ねた全日本選手権で「0.17点差」で五輪切符を逃した経験を持つ中野さん。当時の舞台裏を明かし、アスリートにとっての五輪挑戦の価値を語る。(取材・文=THE ANSWER編集部・神原 英彰)

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 中野友加里というスケーターのキャリアで語り継がれる大会の一つは、あの冬の大阪だろう。

 2009年12月、全日本選手権。翌年2月に迫ったバンクーバー五輪の代表選考を兼ねた大舞台は、スポーツ界の注目の的になっていた。GPファイナル2位に入っていた安藤美姫がすでに代表当確。3枠あるうちの残り2枠を浅田真央、鈴木明子らと争う構図だった。

 フジテレビに就職が内定し、このシーズン限りで引退することが決まっていた中野さん。しかし、フリーの後に行われた表彰台で立っていたのは「3」と書かれた場所だった。1位の浅田、2位の鈴木が代表内定し、3位の中野さんは落選。2位との差はわずか「0.17」――。

「0.17点差でも0.01点差でも(2位が)上。状況を考えても『ああ、これで終わったな』と。どうやって親に顔を見せよう、なんて話せばいいんだろう、謝った方がいいのかな、辞めると伝えた方がいいのかな……。いろんなことが頭の中を駆け巡り、ずっと泣いていました」

 五輪を「人生の目標だった」と表現する。

「その時、私にはスケートしかなかったので。『スケート人生』から『スケート』という文字を取ってしまってもいいくらい“人生そのものとしての目標”でした」。憧れが芽吹いたのは小学生時代。同じリンクで練習していた同郷の伊藤みどりの姿を見て、無垢に信じた。

「大きくなったら、私もきっとオリンピックに出られるんだ」。憧れはキャリアを重ねるごとに、夢としてくっきりと輪郭を帯びた。競技人生でチャンスがあったのは2度。1度目は2006年トリノ五輪。20歳で2005年のGPシリーズNHK杯優勝。GPファイナル3位に入り、スポットライトを浴びた。

「当時は五輪代表候補という立ち位置でもありませんでした。周りの選手からすれば『あら、あなたいたの?』くらい。でも、とんとん拍子に結果を残せたし、自分にとっての目標は五輪だったので、出られるものなら出たいと思い、近い存在になってきたシーズンでした」

 全日本選手権は5位に終わり、五輪代表を逃したものの、トリノ五輪直後の世界選手権代表に選出された。この年から3年連続で代表を掴み、5位、5位、4位とトップ5に入ったほか、冬季アジア大会優勝、全日本選手権2年連続表彰台など着実に実績を積み、トップ選手の仲間入り。そして、24歳となったバンクーバー五輪シーズン。GPシリーズ2戦(3、4位)を経て迎えたのが、全日本選手権だった。

 大阪・門真、なみはやドーム。五輪切符を巡る日本フィギュアスケート史上屈指の激戦は、この舞台で繰り広げられた。

0.17点差で逃した代表切符「私は、最後の最後で気持ちで負けてしまった」

 12月26日に行われたSPは、すでに内定している安藤を除く、上位2人に代表切符が与えられる構図。

「オペラ座の怪人」を演じたショートプログラム(SP)は納得の出来だった。68.90点をマークし、首位の浅田と0.22点差の2位発進。「持っている力を最大限に出せた」。翌27日に行われるフリーで五輪切符獲得へ、絶好の位置につけたが、しかし――。

 最終グループ、プレッシャーがかかる1番滑走で登場した。プログラムは「火の鳥」。冒頭の3回転ルッツ―2回転トウループ―2回転ループ、最初のルッツでバランスを崩し、単発に。咄嗟に思考を巡らせ、3本目の3回転ルッツに取りこぼした分のコンビネーションをつけようと試みた。しかし、スピードが足りず、2回転トウループ―2回転トウループに変更。演技構成点は8.8点から8.6点になった。この0.2点が運命を分けた。

 さらに最後のスピン要素でレベル4を取りこぼし、加点を引き出せず。「ジャンプはその日の調子によって変わるけど、スピンは裏切らない。なのに……」。得点は126.83点。祈るような気持ちで残り5人の演技を待った。そして、決まった総合順位。

1位 浅田真央 204.62点(69.12点+135.50点)
2位 鈴木明子 195.90点(67.84点+128.06点)
3位 中野友加里 195.73点(68.90点+126.83点)

 0.17点。そのわずかな差によって、中野さんは夢舞台を逃した。今も残る表彰式の写真に涙はない。しかし、セレモニーが終わり、舞台裏に下がると自然と涙がこぼれたという。コーチらに何か言葉をかけられたが、平静さを失い、よく覚えていない。

 唯一、表彰式の前に佐藤久美子コーチに「立派な3位だから表彰台に堂々と立ちなさい」と言われたことだけは記憶にある。

「五輪シーズンに代表に選ばれる一つのポイントがGPシリーズ。ファイナルに進めれば、五輪切符が近いものになります。なので、とにかくGPファイナルに出ておかないといけないと思いました、シーズン中に怪我も増えて思うように調整もできず、体力もどんどん落ちていって……。気持ちも弱くなってしまったと思うんです。もちろん、練習量は積んでいましたが、その気持ちの弱さがどこかで本番に出てしまいました」

 12月上旬。同門だった小塚崇彦と2人だけで中京大のリンクで合宿を張った。佐藤信夫コーチの下で「何かに憑りつかれたかのよう」(中野さん)に練習し、本番1週前には一つのミスもないほど、完璧に仕上げた。しかし、夜になると寝られないほどに緊張していた。

「不安ばかり抱えていたシーズンで『五輪に出られなかったらどうしよう』とずっと怯えていました」。SPを終えた夜、夢を見た。実際より大きな失敗をして5位で終わるというもの。ステップアウトもレベルの取りこぼしも「こうなったら嫌だ」と胸を巣食う不安が具現化したものだった。

「普段なら出ないことが出てしまった。レベルの取りこぼしがなければ、ジャンプの変更をしなければ、と。あれから何度も何度も思ったし、後悔もありました。(佐藤信夫)先生からも『あそこがなければ……』と。でも、それが大会の本番の怖さであり、気持ちの弱さでした」

 フィギュアスケートとは1人で1万人の観衆の前に立ち、演技をする採点競技。氷の上は、いつだって独りだ。五輪という4年に一度しかないチャンスをかけ、SPとフリーを合わせた7分間で雌雄を決することの重み。中野さんの経験は、それを教えてくれる。

「私は、最後の最後で気持ちで負けてしまった、ということです」

今に生きるあの日の経験「五輪に行けなかったことによって…」

 心に負った傷は、なかなか癒えなかった。前を向くまでに要した時間は「3年くらいですかね」と中野さん。「直後はいろんなことを引きずっていたし、バンクーバー五輪も映像で見られたのは1か月経ってからでした」と振り返る。

「姉が全日本選手権のプロトコル(採点の詳細)を見てくれて、演技構成点が(2位と)同点だったと聞いたんです。だとしたら(勝敗を分けたのは)技術点しかない。技術点でのミスは私のミス。スピンで取りこぼしたり、ジャンプを自分で変えてしまったりをずっと引きずって……。自分でプロトコルを見られたのは1年後。分かっていたから、見たくなかった。現実を直視したくなかったんです」

 転機になったのは2014年ソチ五輪。フジテレビに入社し、スポーツ局に勤務した中野さんは記者として大会を取材することに。本当は最初はまともに見られるか不安だったが、仕事の使命があると不思議と受け入れることができた。

 これほどまでに、五輪とはアスリートにとって重いものである。

 今年もGPシリーズが始まり、男女とも3枠を争う戦いが始まる。男子は五輪3連覇の偉業がかかる羽生結弦、平昌五輪銀メダルの宇野昌磨を中心に2大会連続代表を目指す田中刑事、若手の鍵山優真、佐藤駿らに期待が集まる。女子は全日本選手権2連覇中の紀平梨花、前回の平昌五輪代表である宮原知子、坂本花織に、世界選手権銀メダルの経験を持つ樋口新葉ら実力者も揃う。

 あれから11年の時が経ち、36歳になった中野さん。2児の母になり、フジテレビを2019年に退社し、現在は競技の解説から審判員まで幅広い活動で銀盤に携わっている。「0.17」で人生が変わったあの冬の経験は、今にどう生きているのか。

「すごく長いスパンですが、今、私は主人と出会って、結婚して、子供を授かって……。もしかしたら五輪に行くことによって、そういう人生が歩めなかったかもしれないと思うことがあるんです。何かのオファーを頂いて、他の道が生まれたかもしれない。でも、五輪に行けなかったことによって、主人と出会って結婚ができて子供に恵まれたっていうのがあるかもしれない。そこで今、自分が幸せだなと思うようになりました」

 その声色は、明るい。決して、負け惜しみのような類ではない。

「もちろん、五輪に出て喜べるに越したことはないですが、『私、五輪代表です!』なんて言って、もっとわがままになったかもしれない。いろんなものがそぎ落とされた状態で、会社にも入り、いろんなことを学び、今の自分につながっているので。人生をトータルで長い目で見てみると、五輪代表になれなかったことを受け入れることができた。だから、あの経験が必要じゃなかったとは、今になっても言い切れないものです」

 幼き日に夢見て、憧れ、追いかけながら、たった「0.17点差」で逃した五輪。そんな経験をしたスケーターはそういないだろう。だから、中野さんは今、五輪を目指して戦う選手たちに伝えたいことがある。

(27日掲載の後編へ続く)(THE ANSWER編集部・神原 英彰 / Hideaki Kanbara)