東京パラリンピックの日本代表選手254人のうち、初出場選手が半数以上を占めるなかでも、鮮烈なデビューを飾ったのは全盲のランナーの唐澤剣也(群馬県社会福祉事業団)だろう。初出場ながら、戦略的な走りを見せ、5000mでは銀メダルを獲得した唐澤剣…

東京パラリンピックの日本代表選手254人のうち、初出場選手が半数以上を占めるなかでも、鮮烈なデビューを飾ったのは全盲のランナーの唐澤剣也(群馬県社会福祉事業団)だろう。

初出場ながら、戦略的な走りを見せ、5000mでは銀メダルを獲得した唐澤剣也

大会4日目の8月27日から始まった陸上競技で、最初の表彰種目となった男子5000mT11(視覚障害・全盲)に出場し、15分18秒12で銀メダルを獲得。スタートから集団の中で体力を温存し、残り1000mから切り替えて前を追い、残り1周でトップに立つと、最終コーナー手前で優勝したブラジル選手に抜き返されたものの、2位を保持した。

日本の全盲ランナーが獲得したパラリンピックのメダルはこれまで、2012年ロンドン大会で和田伸也が5000mで獲得した銅メダルのみ。唐澤の銀メダルは9年ぶりで、輝きも増した。

「金メダルを目標にやってきたので悔しい気持ちはありますが、今出せる力を出し切っての2位なので、うれしいです」

快挙には唐澤本人はもちろん、彼の挑戦を支えた多くの人の熱意と努力に根ざした周到な準備と緻密な戦略があった。

唐澤が競技として本格的に走り始めたのは2016年の秋。リオパラリンピックで活躍していた、視覚障害選手の活躍に、「僕も世界を舞台に走りたい!」とスタートさせた。その存在が、今も目標とする大先輩で、同じレースで競うライバルでもある和田伸也(今回5000mT11で銅メダルを獲得)だった。

だが、陸上は盲学校時代の部活動で経験した程度で、何より伴走者探しから始めなければならなかった。先天性の目の病気により小学4年生で失明した唐澤は、1人では走れない。「目の代わり」となる伴走者とロープを握り合い、路面状況やタイムなど視覚的な情報を伝えてもらいながら、走る。

最初に、盲学校時代の先輩で、鍼灸院を営み治療を通して地元の学生や市民ランナーとの交流が広い清野衣里子さんを頼った。だが、世界まで目指すとなれば、伴走者の人生をも巻き込むことになる。清野さんが気持ちを尋ねると、「本気で、目指したい」と唐澤は言い切った。彼の覚悟を受け止めた清野さんが最初に相談したのが当時、会社員ながら大学陸上部のコーチ経験があった、星野和昭氏だった。その星野氏は現在、唐澤のコーチを務めている。清野さんは今も、マネージャー的な立場で、毎日の食事の世話など、唐澤を後方から支えている。

その後、清野さんや星野コーチの努力もあり、伴走者は少しずつ増え、支援グループの「からけん会」も発足。点字図書館職員としてフルタイムで勤務する唐澤の朝晩の練習や週末の練習から、合宿や大会の遠征まで、十数人の伴走者が交代でサポートするようになった。

星野コーチによれば、「最初は週2日程度の練習」が、ほぼ毎日できるようになり、距離走やスピード練習、筋トレなどを織り交ぜた練習サイクルも整った。盲学校時代にはゴールボール選手として活躍するなど、持ち前の運動能力も手伝って、真面目な努力家は着実に力をつけた。礼儀正しく人懐こい唐澤は多くの支援者を惹きつけた。大勢の伴走者ともチームワークを磨き、絆を深めた。

パラリンピックなど国際大会では5000m以上の種目で伴走者を2人まで交代できるルールになっている。レースでは星野コーチと、2017年末から加わった、茂木洋晃ガイドとの伴走者2名体制で、トラック種目からマラソンまでタイムを順調に伸ばしていった。

18年には自身初の国際大会となったアジアパラ競技大会で金(5000m)・銅メダル(1500m)を獲得。19年世界選手権では5000mで3位に入り、夢だった東京パラリンピックの切符を手にした。

コロナ禍で大会が1年延期されたときは、「成長できる期間が増えて、メダルの確率が高まった。できる練習をやり切って、悔いなく来年を迎えたい」と、前向きにとらえた。

そして、この1年の延期中に唐澤を取り巻く環境に大きな変化があった。唐澤の進化に応じて、より走力の高い伴走者が必要となり、地元群馬を拠点とする実業団のSUBARU陸上競技部に支援を依頼。同部のコーチを務める小林光二さんが協力してくれることになった。今年4月から、週1回は同部の練習会に加わるなど、高いレベルのなかに身を置くことになり、競技者としての意識も高まっていった。

レース伴走の体制は、持ち味の異なる小林光二ガイドと茂木洋晃ガイドが担うようになった。マラソンも含めレース経験が豊富でペース作りも得意な小林ガイドが前半を担い、後半からよりスプリント力のある茂木ガイドに交代する形で、「4000mまでは集団の中で力をため、残り1000mからギアを切り替える」というレースプランを練り上げた。

今年5月の国内大会ではこの伴走者リレーが奏功し、国内の大会で、T11クラス男子のケニア人選手が持つ世界記録を越えるタイム(15分09秒94)をマークしている。東京パラリンピックの舞台でも、「もう一度同じレースをすれば勝てる」というプランで攻め切った。

「小林さんがいい位置の3、4番手をずっと維持してくれて、走りやすいところで走れた」と振り返り、茂木ガイドに交代してからは、「茂木くんが、『行ける、行ける』と声かけをしてくれて、強気な気持ちで攻められた」と、唐澤は2人に感謝した。

「たくさんの方の応援のおかげで、この舞台に立てました。心から感謝しています」

5000m決勝から4日後の1500m決勝では果敢にチャレンジしたが、4位に終わった。「最後にメダルを獲って、茂木くんと表彰式にあがりたかったなという気持ちでいっぱいです」と悔しそうな表情を見せた。

また、「5000mは金メダルを目標にしていたし、1500mもメダルを逃してしまったので、両種目ともまだ課題があるなと感じた。もっと持ちタイムをあげ、スピード持久力もつけたい」と、さらなる成長を誓った。

唐澤の挑戦を間近で見守ってきた星野コーチは、「今回は『上出来』と思っている。練習すらしていなかった選手が5年でメダルを獲得するなんて、当時は思ってもいなかった。だが、5000m決勝、1500m予選、決勝と3本のレースをきっちり走りきったことに感動している。人間、やればできるんだなと思った」と愛弟子を称えた。

このすばらしい結果をもたらしたのは、彼自身の努力はもちろんのこと、前述のとおり周りの協力も大きかったと星野コーチは振り返った。

「今では1カ月間、日替わりでもできるくらいの人数」となった伴走者たちに加え、道路など練習環境の整備などで群馬県や前橋市の協力もあった。「地域が、唐澤のために動いてくれた。数百人のチームメートがいるのではと思っている」

初挑戦の夢舞台を終え、唐澤は改めて多くの人の支えに対し、感謝を述べた。

「一般に陸上は個人競技のイメージがありますが、視覚障害の選手はガイドランナーと走る。陸上競技を初めて競技歴も浅い僕が1人で走ったら、全然、力のない選手だが、ガイド2人の経験や力も含めて、チームとして戦える。心強い存在と一緒に臨めるのが、この競技の強みと思っています」

唐澤はこれからも、大勢の二人三脚で世界の舞台を駆けていく。

*本記事はweb Sportivaの掲載記事バックナンバーを配信したものです。