3月16日、都内でアジア女子大学第8回ファンドレイジングイベントが開催され、カーレーサーの井原慶子氏がゲストとして登壇した。アジア女子大学とはバングラデシュ・チッタゴンにあるリベラルアーツ教育機関であり、アジア各地の15カ国から、大卒者が家…

3月16日、都内でアジア女子大学第8回ファンドレイジングイベントが開催され、カーレーサーの井原慶子氏がゲストとして登壇した。

アジア女子大学とはバングラデシュ・チッタゴンにあるリベラルアーツ教育機関であり、アジア各地の15カ国から、大卒者が家族にいない家庭出身の女子を優先的に受け入れること等に特徴を有する。

なぜ、レーサーの井原氏が、アジアの女性に “教育機会”を与える活動イベントに登壇するのか。意外なエピソードを含む井原氏のスピーチをレポートする。

◆「ネジ一本に、人の命を懸ける」レースに魅せられた

まず、井原氏はレーサーとしての、自身の原点を語りはじめた。

「生まれてはじめてサーキットに行ったときに、すごく驚いたのです。なぜなら、そこで働いている人たちは命がけだからです。運転する人は自分の生死を懸けており、メカニックにおいても、一本“ネジ”を締め間違えたら死んでしまう、という緊張感を持って仕事をしている。それを知って、私も生まれたからには自分の頭と体、全部の能力を一度くらい発揮して仕事をしてみたいと思いました」。

◆誰にも負けない“覚悟”を持って臨んだレースデビュー

当時まだ女子大生だった井原氏。まずは免許を取りにいくところからスタートした。「危険な仕事をしてほしくない」という父親の反対にあいながらも、その後アルバイトをたくさんして、4年間で1000万円を貯めた。

また、このとき井原氏は、出逢う人々に対して「どうやったらレーサーになれるか」を尋ねて回ったという。

「100人中99人は私をバカにしてきました。いまから免許をとっていて、レーサーになれるわけがない、と。女性だからなれるわけがない。アジアの女性は体力が無いからなれるわけがない。日本人の女性がレーサーになれるとしたら、愛人になることだ、とね。ただ、そのなかで私の夢に真剣に向き合ってくれる方が、わずかですが、いたのです。その方のお陰で、私はレーサーへの道を歩み続けることができました」。

当時レーサーの養成学校は無く、全て独学だったという井原氏は、その後悲願のデビューに漕ぎつけた時をこう振り返る。

「このときすべての、世界中のレースデビューする人のなかで、絶対に負けていないと思ったことがありました。それは何かというと、“覚悟”です。私はデビュー時の車にフェラーリを選びました。なぜなら、ここで誰もがあっと驚くような結果を出さない限り、私はレーサーとして生き残っていけないからです。車の運転で最も難しいフェラーリで、女性がレースデビューして優勝したら、レーサーとして生き残れるかもしれないと考えました」。

キズモノのフェラーリを、正価よりはるかに安い750万円で購入し、すべてを懸けてレースに出場。結果は日本で優勝、さらにイタリアの世界戦では120人中2位になり、ミハエル・シューマッハ氏による祝杯をあげられたのだという。

◆シューマッハに教わった“世界一になる方法”

世界一の選手、シューマッハ氏に勝利を祝された際、井原氏は「世界一になる方法」を尋ねたという。そして熱を込めて、同氏のセリフを再現した。

「どんなに嫌いな上司や、どんなに嫌いなチームメイトとも、自分からコミュニケーションをとって、そして結果を出す方法を自分で考えろ。どんなに苦手な、不安で未知なサーキットに出場しても、そこでいかにして勝利を獲得することができるかを、チームメイトと考え、方策を共有して、勝ち取れ」。

「もう一つ、どんなにオンボロで、ライバルよりも劣っている車だとしても、絶対に自分が不利だと思わずに、その車で勝てる方法を考えろ。勝てる方法に、自分の意識を、0.1秒でも長く向けているうちに、絶対に君は、自分の嫌いな人とでも、どんな車に乗ってでも、どんな場所でも絶対に成果を残せるようになる。それを続けていけば、絶対世界一になれる。最後に君に言うよ。この言葉を絶対に忘れるな」。

どんな環境をも、自分のものにする覚悟を与えられたという井原氏は、「シューマッハとの面会から16年もかかりましたが、ついに世界一になることができました」と述べた。

◆「恩返しできなかった」自己嫌悪に苛まれながらの帰国と復活まで

レースというのは、お金もかかるが、体力も必要だ。「朝は20kmのジョギング、その後100kmのサイクリング、そして2時間半筋トレをして、最後25mプールを100回くらい泳ぐ」という過酷な訓練を継続しているうちに身体を壊してしまった井原氏。7年前に一度引退した過去を明かした。

引退を余儀なくされ帰国した井原氏は、日本への帰路の心境をこう吐露した。「私は自分にすごく失望しました。なぜなら、私は多くの日本企業や日本人に助けられながら、世界を遠征していたのに、最後に病気になって何も恩返しせずに終わってしまったから。なんという人間なんだろう。ものすごくショックを受けていました」。

安定的に長時間働くことができなくなった井原氏は、やがて帰国後英会話教室を開いたという。「何ができるかな、とおもって、自宅の小さな6畳間で、英語を教えることくらいはできると考えて、子どもたちに英語を教え始めたのです」。

それから、子どもたちにパワーをもらい、4年後には健康を取り戻せたという。「そうすると、心がもとのように元気になる。心が元気になると、また世界一を目指したくなったのです」と、井原氏は復帰への軌跡を顧みた。

◆世界最高峰、ルマン24時間レースに出場できた理由

再起を懸けた井原氏が着目したのは、仏スポーツ科学研究所での実験だったという。その研究所では、女性が男性に比肩するには、潜在能力を開花させられるかどうかが肝であり、その成否は、食事をはじめとする日常的な取り組みによるコントロールに左右されると言われていたという。

「科学的に、長く集中力をもたせたり、疲れなくなったり、心拍数を落としたりすることができるということを知ったのです。“みんながパスタを食べているときに、赤飯を食べる”等日常的な選択を変えることで、長く集中力を維持させ、ミスを減らし、モチベーションも運動によってコントロールする。こうして、未だに開発されきれていない人間の能力を最大限に伸ばす試みを続けたのです。そして、ついに世界選手権に到達しました」。

3人のドライバーで24時間を走るルマンのレースには、150人が結集するが、このなかに女性は井原氏一人しかいなかったという。「なぜなら、それくらい体力が要るからです。でも、その体力をカバーできる程の能力は、自身で開花させられるのです。そうして、当時“39歳の”アジア人の女性が、世界最高峰の地に立つことができました」。

◆年収20億の女性エンジニアから考える、教育の価値

続けて、あるエンジニアを切り口に、自身のイベント登壇の背景を明かした。

「たとえば、世界最高峰レースで用いられる車を開発するこの女性エンジニアは、いくら稼ぐと思いますか。年収20億円です。なぜこんな天才的な女性が生まれたか。それは教育からだと考えられます。

ドイツでは、15年から20年前に、ある大胆な教育政策が実施されました。その政策とは “まだあまり活躍していない女性”と、“技術を複合・融合できるエンジニア”、そしてもう一つ、“手先の器用なメカニックに長けた人々”を充分に教育することで、次世代の新しい産業を生む、というストーリーに基づくものでした。そうして同国では第四次産業革命が起きました。私は高等教育を受ける女性の層が厚くなれば、ここで挙げたような、20億をも稼ぐ天才が現れる可能性も高まると考えています」。

また、井原氏は、女性には「可視化しづらくて測定しづらいものの、コミュニケーション能力や変化への順応性、実直さ」において特に秀でた能力があると述べた。

特に2点目の順応性については「大雨が降ったときは、監督はよく女性を出場させます。なぜなら女性は環境が激変したときにも、結果を出すことができることが、スポーツ科学でも証明されているからです」と補足した。

◆紅一点のセブリング、目標は3年後に後進と共に世界一へ

スピーチの終盤では、ドライバー育成においては、昨年参戦した米国最高峰シリーズ「セブリング12時間レース」で外国人の男性のなかに、女性が自分ひとりであったエピソードを語りながら「それでも、3年後には、今育成しているドライバーと一緒に、最高峰に登りたい」と目標を明かした。「女性も必ずできる、ということを、信じられるようにすること」が、自分がリーダーとしてできることだと述べ、今後の女性の後進育成にむけた意気込みを語った。

最後には、同日の主催であるアジア女子大学への餞として「先ほどの女性エンジニアの例等が物語るように、女性への高等教育は産業の発展につながり、産業が発展すれば、アジアの情勢の安定にも繋がりうる。そのために、私達アジア人が、アジア女子大学のような教育機関に投資することには、非常に重要だと思っています」と述べ、講演を終えた。

アジア女子大学第8回ファンドレイジングイベントでスピーチする、レーサーの井原慶子氏《撮影 Martin Hladik》

アジア女子大学第8回ファンドレイジングイベントでスピーチする、レーサーの井原慶子氏《撮影 Martin Hladik》

アジア女子大学第8回ファンドレイジングイベントでスピーチする、レーサーの井原慶子氏《撮影 Martin Hladik》

アジア女子大学第8回ファンドレイジングイベントでスピーチする、レーサーの井原慶子氏《撮影 Martin Hladik》