「THE ANSWER的 オリンピックのミカタ」#79「THE ANSWER」は東京五輪の大会期間中「THE ANSWER的 オリンピックのミカタ」と題し、競技の新たな知識・視点のほか、スポーツから学べる多様な価値観を随時発信する。今回は、…

「THE ANSWER的 オリンピックのミカタ」#79

「THE ANSWER」は東京五輪の大会期間中「THE ANSWER的 オリンピックのミカタ」と題し、競技の新たな知識・視点のほか、スポーツから学べる多様な価値観を随時発信する。今回は、2004年アテネ五輪女子マラソン金メダリストの野口みずきさんが東京五輪女子1万メートル代表・新谷仁美(積水化学)の魅力を解説。毎月掲載している連載「THE ANSWER スペシャリスト論」を五輪バージョンとしてお届けする。

 新谷は7日午後7時45分に大舞台に立つ。昨年12月に異次元の走りで日本記録を叩き出した33歳。競技者として残してきた結果はもちろん、歯に衣着せぬ発言でも注目を浴びてきた。有言実行をモットーとするランナーはどんな姿を見せてくれるのか。マラソンを専門種目とした傍ら、中長距離の経験もある野口さんに新谷の人間的な魅力などを語ってもらった。(文=THE ANSWER編集部・浜田 洋平)

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 言葉でも、背中でも想いを表現するランナーだ。新谷は12年ロンドン五輪以来2大会ぶり2度目の出場。昨年12月の日本選手権では、18年前の日本記録を28秒45も更新する30分20秒44で優勝を飾り、五輪切符を手にした。走りはさることながら、女性アスリートの生理の実情や東京五輪開催に向けたメッセージなども発信。言葉にも魅力を持つアスリートの一人だ。

 逸材として期待された高校時代から今に至るまで新谷に注目していた野口さんは、東京五輪を通じて他のアスリートや一般のファンに見てほしい姿があるという。

「新谷選手はプロ意識が本当に素晴らしい。自分の進むべき道をしっかりと確立していて、それに沿って行動できる人。ハングリー精神など気持ちの部分も見てほしいと思います。自分が走るということはどれだけのものなのかを知っている選手。走りで結果を出してくれますし、記者の質問に批判も覚悟で真摯に答えています。そういうところも、他の選手にはもっともっと見習ってほしい。しっかりと自分の言葉で発信すること。競技者としての新谷選手だけではなく、もっといろんな面の記事も読んでほしいですね」

 歯に衣着せぬ発言が話題になるが、新谷は「間違ったことは言っていない。間違ったことがあれば、しっかり指摘してくれるコーチがいる」と批判を恐れない。新型コロナウイルスのワクチン接種など答えづらい話題にも、明確な私見を述べてきた。アスリートでも批判の対象にされてしまう可能性のあるネット全盛の時代。「真似できないですよね。本当に素晴らしい」と野口さんは、類まれな発信力に目を見張った。

「私が現役だったら少し守りに入ってしまって、本音を言えなかったかもしれません。現役選手が何かを言って批判を受けて、競技にもネガティブな影響を与えるんじゃないかと考えることもあります。新谷選手は自分のため、他の選手のために発言しますが、それは周りのことを考えられているからこそしっかりと発言できるのかなと。自信があるのでしょうし、頭がいいのだと思います。

 自分がそういうキャラクターだから、自分の発言によって他の人からもいろいろな発言が出てくるといいなって考えているのかもしれない。本当に興味深いですし、こういう選手がどんどん出てきてほしい。でも、普段の取材では凄くかっこいいのですが、レース後のコメントでは少し昔の名残りみたいなものが……(笑)。そのギャップが凄くいい。レース後は“ハイ”になって疲れている時ですから」

 5月9日の五輪テスト大会。会場の国立競技場近くでは、五輪開催への反対デモが行われていた。新谷は「反対する人にも寄り添うべき」「国民の意見を無視してまで競技をするようじゃ、それはもうアスリートじゃない」という姿勢を示した。この姿が印象に残っているという野口さんは「中心選手として、覚悟を持って言葉を発していると思います。アスリートだけが特別ではない。ズバッと言えるのは素晴らしいですね」とした。

「ズバッと言える」背景に社会人経験「どれだけのお金をもらって陸上をできるのか」

 周囲に配慮しながら意見を述べられる背景として、野口さんは社会人経験を挙げた。新谷は14年1月に故障や健康上の理由で一度引退。4年間のOL生活を経て18年6月のレースで現役復帰した。「応援してくれる人のために」という想いは、復帰した時からずっと持ち続けてきた。

 トラックから離れた4年間が、競技者としての成長を後押ししたと野口さんは感じている。

「一度競技を辞めたら戻ってくる時に少し恥ずかしさがあると思うんです。プライドを捨てないと戻ってこられない。いろんなものを捨てて戻ってきたのだと思います。朝9時から夕方5時までしっかりと働いて、自分がどれだけのお金をいただきながら好きな陸上競技をやらせてもらえていたのか、いろいろ経験した中でわかったと思うんですよね。復帰してからそういうものを爆発的に出せたのではないでしょうか」

 野口さんも高校卒業後に強豪・ワコールに入社したが、1年半で退社。4か月間、ハローワークに通って雇用保険の求職者給付を受け、“無職”のまま競技を続けた。至れり尽くせりだった実業団の寮生活から、食事、洗濯など全てを自分でこなす生活。「私は4か月で(4年の新谷と)全く規模が違いますが、プロ意識が芽生えた。自分の中の甘えた気持ちを捨てられたいい機会」と貴重な時間だった。

 新谷と言えば、レース直前の不安を抱えまくった表情も見逃せない。ファンにはお馴染みのシーン。スタートラインに立つ時、見る側も胸を締め付けられそうなほど表情に不安を滲ませる。野口さんは「凄く緊張していますよね」と苦笑いし、一緒に過ごした現役時代を思い返した。

 13年世界陸上では新谷が1万メートルで、野口さんはマラソンで代表入りした。レースに臨む当時25歳の新谷を見た時、「大丈夫かなぁ」と心配になるほど「過度に緊張するタイプ」だったという。

「大きく明確な目標に向かってやっていくことに関してはしっかりしているのですが、レースになると『強い気持ちはどこに行ってしまったんだ?』というぐらい緊張していました。福士加代子選手もいて『どうしよう、どうしよう』と、いろんな人に泣きそうな顔を見せていた。でも、スタートラインに立つと切り替わっている。結果的には5位入賞。『あれ?』ってこっちが心配して損しちゃうくらい(笑)。彼女の中ではいい緊張なのだと思います。自分自身をよく知っているからできることですね」

 野口さん自身は「レース当日の朝はある程度緊張する。逃げ出したいと思う時はあった」と不安もあったが「どちらかといえば楽しむタイプ。レースの1週間ぐらい前から早く走りたくて仕方がない。スタートラインに立ったら『このメンバーで私が一番練習してきた』という気持ちでした」と本番に臨んでいたという。

野口さんが説く記者会見の大切さ「『笑顔でゴール』は誰でも言える」

 新谷は大会前日の会見から「結果を出せなかったでは済まされない」「どんな大会でもミスは一切許されない」と、目標に対して徹底的に厳しく向かい合う。野口さんは選手として記者会見に堂々と臨む大切さを説いた。

「トラックもマラソンも、低迷していた時期の選手は安定した実業団で確実にお給料をいただいて、自分の好きな陸上をやらせてもらっていることにどっぷり浸かってしまっていたと思います。大きな目標を抱けず、勇気を出せない。曖昧な言葉の方が多かったような気がします。『笑顔でゴールできるように頑張ります』とか、それは誰でも言えるようなこと。何をやってきたのか。『この練習をやったから自信を持って、いま私はここにいます』とかではなく、目標タイムを言えない人もいました。

 もちろん笑顔でゴールできたらいいですが、楽しむだけではないんじゃないかなって。『楽』と『楽しい』は違うし、苦しさの中に楽しさがある。きつさを乗り越えた後に楽しさがあると思うんですね。みんながみんな中途半端な気持ちでやっていたわけではないですが、レースは記者会見の時から始まっていると私は思っています。

 でも、新谷選手が再び現れてくれた。それからMGC(東京五輪選考会のマラソングランドチャンピオンシップ)が行われて、マラソン界にとっても転機になった。ハングリー精神が備わり、しっかりとした目標を記者会見の時からズバッと言えるような選手が多くなったのでよかったと思っています」

 新谷のランナーとしての魅力については「心肺機能も含めて、もともと素質が備わっている選手」と評し、こう続けた。

「あとは腰高の体形ですね。アフリカ勢に似ている。長い手足が大きな走りを生み、驚異的なスピードの切り替え、爆発力に繋がります。ぱっと見では筋肉が大きくない。でも、ふくらはぎの下辺りが細くて、しっかりとコブラみたいな筋肉をしています。横田真人コーチが中距離出身(ロンドン五輪男子800メートル日本代表)ですし、筋肉をつけすぎない絶妙なトレーニング方法をわかっているはず。その結果、良い筋肉がついて、引退から復帰しても凄い記録を出せたのだと思います」

 7日午後7時45分に号砲が鳴る女子1万メートル。今、新谷はどんな心境なのだろうか。「日本人でもこの種目で世界と戦えることを証明したい」と常々口にしてきた。種目は違えど頂点に立った先輩オリンピアンとして、野口さんは願いを込めた。

「また遥か上に行けるようなトレーニングをしてきたと思います。表彰台に上がる新谷選手を見てみたいですね。満足しないところがまた素敵な魅力。まだまだだと思っているでしょうし、これからもっとビックリする記録を出してくれるんじゃないかと期待しています。お手本で鑑のような選手。やっとああいう選手が現れてくれたと思います。他の実業団選手も、彼女の背中をずっと見続けてほしいですね」

(5月にリモート取材)

■野口みずき/THE ANSWERスペシャリスト

 1978年7月3日生まれ、三重・伊勢市出身。中学から陸上を始め、三重・宇治山田商高卒業後にワコールに入社。2年目の98年10月から無所属になるも、99年2月以降はグローバリー、シスメックスに在籍。2001年世界選手権で1万メートル13位。初マラソンとなった02年名古屋国際女子マラソンで優勝。03年世界選手権で銀メダル、04年アテネ五輪で金メダルを獲得。05年ベルリンマラソンでは、2時間19分12秒の日本記録で優勝。08年北京五輪は直前に左太ももを痛めて出場辞退。16年4月に現役引退を表明し、同7月に一般男性との結婚を発表。19年1月から岩谷産業陸上競技部アドバイザーを務める。(THE ANSWER編集部・浜田 洋平 / Yohei Hamada)