文武両道の裏側 第5回 スピードスケート 小平奈緒選手(相澤病院)前編 2018年に開催された平昌オリンピックで、小平奈緒は日本代表チームの主将を務めた。記者会見でチームのスローガンを「百花繚乱」とし、一人ひとりが持ち味を発揮できるよう、チ…

文武両道の裏側 第5回 
スピードスケート 小平奈緒選手(相澤病院)
前編

 2018年に開催された平昌オリンピックで、小平奈緒は日本代表チームの主将を務めた。記者会見でチームのスローガンを「百花繚乱」とし、一人ひとりが持ち味を発揮できるよう、チームを鼓舞した。自身も金メダルを獲得し、大輪の花を咲かせた。競技での成績もさることながら、競技後の振る舞いが世界から賞賛を浴び、IOCの公式HPを大きく飾った。

 文武両道の企画に接し、勉強については秀でていないと謙遜する小平だが、いわゆる受験勉強だけが学びではない。学び続け、時分の花で終わることなく、真(まこと)の花として生き続けることこそが小平の信条だ。



2018年平昌五輪、スピードスケート女子500mで優勝した小平奈緒(右)は、敗れたイ・サンファ(左)を抱擁して称えた

 平昌でスピードスケート女子500mのレースを制した後、小平はホームで敗れ3連覇を逃した地元韓国のイ・サンファを待ち受け抱擁した。ジュニア時代から切磋琢磨しあった友への労(ねぎら)いは、勝者への喝采を超えた記憶に残る時間だった。

 五輪が掲げる理念がある。共に高みを目指す「エクセレンス」、互いを称え合う「リスペクト」、そして喜びも悲しみもわかち合える「フレンドシップ」だ。レース後に小平がとった振る舞いによって、世界中の人々がオリンピックの掲げる理念を共有した瞬間だった。

 今回は、競技者としての実績のみならず、スポーツを通じて人びとの心を揺さぶる小平の学びの裏側に迫ってみたい。

* * *

──平昌での、あのような振る舞いが自然にできるのは、どうしてなのでしょう。どういう家庭でどのような育ち方をしたのか、とても気になります。

「母はいつもニコニコしていましたね。父も私が宿題をやっているところに、怖いお面をかぶって邪魔をしてきたりして和やかな家庭でした。ただ、そうは言っても、父が電話をしているときにうるさくしたり、場をわきまえずにいると厳しく叱られました」

──越えちゃいけない一線を越えると、怒られたんですね。お姉さんが二人いらっしゃいますが。

「はい。4歳上と5歳上の姉がいて、姉たちは、父の怒りをかわす術(すべ)を知っていたようですが、私にはそれがなく、すべてを真正面から受け入れていた感じです」

──末っ子のほうが、そのあたりの要領はよさそうな気がしますが。

「私は末っ子で引っ込み思案なところがあったので、流せずに受けてしまった。躾(しつけ)という点では、細かく躾けられたということはありませんでした。ただ、なんでも自分でするようには仕向けられていたかもしれないです」

──と言いますと?

「親が送り迎えできない時に、両親は私が人見知りだと知っているのに、車掌さんに声をかけないと乗り換えが難しい駅にひとりでとりあえず行ってごらんと言う。『口があるから大丈夫』って(笑)。幼い頃から、そうやって一つひとつ、小さなことから自分の自信にしていけた。『あっ、私にもできたな』と感じる機会を与えてくれました」

──小平さんはスケートへの好奇心、探究心にあふれていると感じます。子どもの頃、引っ込み思案だった少女に、どのようにして旺盛な探究心が芽生えたのでしょうか。

「これは、父親の影響が大きかったかなと思っています。両親ともにスケートをやっていたわけではなく、何も知らない状態でした。当時はスケートの教科書が手近になく、近くのリンクで大会があるたびに、連れて行ってと頼んでいました。父もトレーニングの知識を持っていなかったし、小学校まではコーチにも教わっていなかったので、とにかくトップ選手の滑りを観に行くというのが一番の学びの現場でした。メモ帳を片手に、リンクサイドでかぶりつくように見ていましたね」

──情報に飢えていた様子がうかがえます。

「そこまでしても、どういった滑りがいいのかわからなくて、例えば堀井学さん(元スピードスケート日本代表)の滑りを見て、『手は大きく振ったほうがいい』と父とふたりでその場でやってみたり。そうして父とディスカッションしながら、練習の意識づけをしていくっていうのは、よくやっていました。

 父には特別、こうしたほうがいいんじゃないっていうものはなかったんですよね。だからたぶん、私の中で生まれてきた発見を聞いてくれたというのが、すごくよかった。なんかこう、選手のナマの雰囲気を父と観るのが楽しくて、本当に生きた学びでした」
 
──先日は東京オリンピックの聖火ランナーとして、所属する相澤病院のある松本城下を走りました。3大会出場を果たしてなお北京冬季五輪を視野に、その火は灯り続けているようです。小平さんにとってオリンピックとはどのようなものですか。
 
「オリンピックの最初の記憶は長野(1998年)です。そのテレビを観た時に、それまでなかったくらいに鳥肌が立ちました。言葉にできない感動を覚えて、『こういう舞台で自分を表現できたらすごい気持ちいいんだろうな』って思ったんですよね。小学校5年生のときでした」

──オリンピックを目指すとなると、その頃はまだ女子選手の場合、実業団に進む流れが強かったと思います。国立の信州大学に進学したいと思ったきっかけは何だったのでしょう。

「それは、長野で金メダル(スピードスケート男子500m)を獲った清水宏保さんの特集をテレビで観てですね。何やらスケートに知識のある人が信州大学にいそうだってことを知って。その人が、大学に入ってからずっとコーチをしてくれている結城匡啓(まさひろ)先生です」

──テレビを観て、どのようなところに惹かれましたか。

「当時は、とにかくスケートのことを知りたくて、将来この人にスケートを教われたらいいなって。それまでコーチから教わったことがなかったので、『スケートのことを知っている人のそばに行きたい』っていう気持ちがあふれてきました」

──子どもの頃に心を揺さぶられたことが動機だとしても、信州大学に入るまでに道を逸れたりせず、ずっと最初の感動を持ち続けられたのはすごいですね。
 
「たぶん、その気持ちを持ち続けられたのは、目的がスケートだけじゃなかったからだと思うんです。学校の先生になって、学ぶことの面白さを子どもたちに教えたいという思いがありました。信州大学には教育学部もあるし、結城先生もいるし、というのがあって目指してこられたのかなと」

──決心は揺らがなかったんですか。

「やっぱり、全中で優勝したりインターハイで勝った頃、実業団の選手を見ると、キラキラしていて格好いいなと思う瞬間もありました。実業団は環境にも恵まれていて、競技を続けるにあたって基本的に不安がないと思っていたので、ちらっと魅力を感じるところもありました」

──けれど、そちらの道は選ばなかった。

「人生を考えた時、学び続けられる環境って、やっぱり私にとって最高のものじゃないかなって考えたんです。それからはもう揺らぐことなく、信州大学に決めました」
 
──伊那西高校時代は大学受験に向けどのような準備をしましたか。
 
「受験した学部は教育学部だったのですが、推薦があって、試験は集団討論と実技でした。高校での勉強は、推薦入試の条件にある評定平均(内申点)をとって入試を突破できるようにやっていました。評定をいい位置に保つことに徹していたんですが、圧倒的に数学が苦手でした(笑)」

──入試本番に向けては、どのような課題がありましたか。

「実技はともかく、私にとって集団討論は難題でした。それまで、小学生や中学生の時はとくに、自分が何をしたいのかすら主張できなかった。いつも父や母の背中に隠れていましたから。まず、人見知りを突破しないとならない。

 対策として、集団討論で論理的に話せるように小論文の勉強をしました。高校の先生からは、まず自分の意見を述べて、さらにその反対意見も考えて述べることで議論を盛り上げていくという手ほどきも受けました。気負わずに、日頃から考えていることを丁寧に話すことができればいいとのアドバイスもあって、ひとチーム7〜8人での受験本番では初めて人見知りを突破できたと思います」

──受験勉強をするにあたって、普段の生活、練習、勉強の配分は?

「高校1年生のときはコーチの家に下宿していて、食事はコーチのお母さんに作っていただきました。2年生からは、6畳の1Kにひとり暮らしです。高校時代は3部練(朝、放課後、夜)だったので、もう、自炊をしている暇はなかったですね。学んだことといえば、電子レンジをどう使うかっていうくらいです(笑)。
 
 そういう状況だったので、勉強は学校の中で終わらせていました。特に生活の時間を削ったり、練習の時間を削ったりして何かを勉強することはなかった。学校の授業はしっかりやっていて、わりと友達からノートを見せてと言われるほうでした」
 
──トレーニングはどのようなスケジュールでしたか。

「高校時代、学校以外の時間のほとんどはトレーニングに割きました。夏は、朝練習して、夕方は高校で6時くらいまで練習して、帰って夜7時半から9時くらいまでウェイトをやったり、エルゴをやったり。冬は、車で1時間ほどの岡谷市のリンクまで滑りに行っていました。途中まで電車で行って、コーチの勤めている学校の近くの駅でピックアップしてもらってリンクまで車で」

──寝落ちするようなことはなかったですか。

「夜遅くまで練習して、帰って、寝る、という感じですね。毎日じゃないですけれど、疲れている時には、ご飯を食べず、電気も消さず、寝てしまうこともありました。まぁ、そんなふうに生活リズムが崩れたこともあったけれど、一応、がんばってやってました(笑)」
 
──スケート漬けだった高校生活でインターハイ2冠を果たし、小学生の頃から志していた信州大学に見事合格を果たします。
 
「大学入ってからは、時間管理を心がけるようになりました。高校時代のひとり暮らしで失敗した経験が生きたのかなというところはあります。大学でいきなりひとり暮らしを始めていたら、ちょっと、またリズムが崩れていたかもしれません(笑)」

(後編につづく)

Profile
小平奈緒(こだいら・なお)
1986年5月26日、長野県生まれ。相澤病院所属。3歳からスケートを始め、信州大学在籍時代より結城匡啓コーチに師事する。卒業後、2009年に相澤病院に就職。同年の全日本スピードスケート距離別選手権500、1000、1500mで三冠。2010年バンクーバーオリンピックの団体パシュートで銀メダルを獲得。2018年平昌オリンピックでは500mで金メダル、1000mで銀メダルを獲得した。