大ヒット中のスマホゲーム「ウマ娘 プリティダービー」は、かつて実在した競走馬の生い立ちやキャリアを、"ウマ娘"というキャラクターで再現しているのが特徴だ。ただし、設定の都合上、現実とは少し中身を変えている要素もある。ダービーで2冠を達成し…

 大ヒット中のスマホゲーム「ウマ娘 プリティダービー」は、かつて実在した競走馬の生い立ちやキャリアを、"ウマ娘"というキャラクターで再現しているのが特徴だ。ただし、設定の都合上、現実とは少し中身を変えている要素もある。



ダービーで2冠を達成したトウカイテイオー

 そのひとつが「血統」だ。たとえば、ウマ娘のトウカイテイオーは、"皇帝"と呼ばれる先輩的存在のシンボリルドルフに憧れを抱いている。しかし、現実の2頭関係は「父子」であり、絶対的な強さを誇った"皇帝"シンボリルドルフの遺した最高傑作こそが、トウカイテイオーだったのだ。

 皇帝から帝王へ――。トウカイテイオーに宿った血のストーリーは、ぜひ競馬を見始めた人に知ってもらいたいものと言える。そしてそのストーリーを語るうえで、大きな分岐点となったのが日本ダービーだった。

"皇帝"と呼ばれた名馬、シンボリルドルフ。完璧無比のレースぶりで頂点に君臨し、1984年の3歳時(旧表記は4歳)には、史上初めて無敗のクラシック三冠馬(※皐月賞・日本ダービー・菊花賞を全て制する)になった。引退までに積み重ねた芝レースのGⅠタイトルは7個。これは、2020年にアーモンドアイが塗り替えるまで最多記録だった。いまだに「史上最強馬」として挙げる人も少なくない。

 そのシンボリルドルフが引退し、種牡馬として子を送り出す立場になると、初年度産駒から最高傑作が登場した。トウカイテイオーである。"皇帝"ルドルフを父に持つことから"帝王"と名付けられた。

 そうして実際にデビューすると、父の偉業に並びかける活躍を見せたのである。初戦から無傷の4連勝。次第に周囲は、父と同じ「無敗の三冠」を期待するようになる。5戦目となった一冠目のGⅠ皐月賞(1991年4月14日/中山・芝2000m)では、先行して早めに抜け出し、ライバルが外から来ても譲らず横綱相撲で勝利。父を彷彿とさせる完璧無比のレースぶりだった。

 レース後の表彰式で、鞍上の安田隆行騎手は手を挙げ、指を一本立てた。これは、シンボリルドルフが三冠を取った際、鞍上の岡部幸雄騎手が見せたパフォーマンス。一冠、二冠、三冠と取るごとに、指を一本、二本、三本と立てていったのである。

 父と同じ無敗の三冠制覇へ。迎えた二冠目、1991年5月26日のGⅠ日本ダービー(東京・芝2400m)は、全国のファンの視線がテイオーに注がれた。戦いの前にはこの人馬を特集する番組が多数組まれるほどの人気だった。

 そんな中、大外20番枠からスタートしたトウカイテイオーは、道中6番手をキープ。直線入口で早くも外から先頭に立つ構えを見せる。大歓声に湧く東京競馬場の直線。"帝王"の強さは圧巻だった。先頭に立ったトウカイテイオーは堂々と抜け出し、他馬を引き離す。何度やっても、この馬には勝てない。多少レース展開が変わっても、この馬の前に出ることはできない。ダービーを見ていた多くの人が思ったはずだ。3馬身差の完勝劇。6戦無敗で二冠となり、表彰式では安田騎手が二本指を掲げた。

 同じ無敗での勝利だが、ダービーに関しては、父以上に盤石の内容だった。もしかしたら、テイオーはルドルフを超えるかもしれない。本気でそう信じた人は多い。

 皇帝から帝王へ――。ダービーの歴史に残る、美しいストーリーが結実した瞬間だった。

 だがこの日を境に、父と子の運命は大きく異なっていく。ダービー直後、トウカイテイオーは左後脚を骨折。長期休養を強いられてしまった。無論、父と同じ無敗の三冠という夢は途絶えた。

 復帰したのはダービーから約10カ月後、4歳となった1992年4月。今度は、父ルドルフの相棒だった岡部幸雄騎手とコンビを結成する。その初戦はムチさえ使わず楽勝するが、続くGⅠ天皇賞・春で5着に敗れると、なんと今度は右前脚を骨折してしまった。

 サラブレッドの中には、生まれつき脚が弱く、ケガを繰り返す馬も少なくない。トウカイテイオーは間違いなくそのタイプだった。輝かしいキャリアを積んだ父と違い、子は一転して苦しみの連続となっていく。

 ちなみに、この天皇賞・春では、長距離で圧倒的な強さを誇ったメジロマックイーンとの対決が話題になった。「世紀の対決」と呼ばれ、異常な盛り上がりに。結果はマックイーンの勝利だったが、このレースもトウカイテイオーを語るうえで欠かせない。

 2度目の骨折から復帰したのは、この年の11月。しかし初戦のGⅠ天皇賞・秋では、1番人気ながら7着に敗退。このあたりから「トウカイテイオーは終わったのか」と疑う声も出てくる。

 そもそも、骨折を経験するとパフォーマンスを取り戻せないケースも多い。痛みの記憶が残り、目一杯走らなくなる馬もいると言われるからだ。トウカイテイオーもその不安が現実になる可能性はあった。

 だが、帝王は復活を遂げた。2度目の骨折から復帰して2戦目、1992年11月29日のGⅠジャパンカップ(東京・芝2400m)だった。

 国際招待レースとして、各国の馬が集うジャパンカップ。競馬の母国イギリスのダービー馬が2頭も参戦するなど、ジャパンカップの中でもかつてないメンバーが揃った。トウカイテイオーは、海外の強豪に次ぐ5番人気。前走の敗戦を見ると仕方がないだろう。スタート直前、「去年のダービーを思い出して欲しい」という実況の声が聞こえた。

 そしてこの舞台で、"帝王"はその走りを思い出したのである。中団から外を上がると直線では外国馬のナチュラリズムとの壮絶な叩き合いに。最後はクビ差でライバルを押さえ込んだ。この勝利は、父ルドルフとの「父子制覇」でもあった。

 2度の骨折を乗り越えてのGⅠ勝利。それでも十分だが、まだこの馬の苦難は終わらない。ジャパンカップの後に出た年末のGⅠ有馬記念(中山・芝2500m)で11着に敗れると、その際に腰を痛め休養。そして夏には、左前脚を骨折してしまう。

 致命的とも言える3度目の骨折。テイオーが次に競馬場に姿を見せたのは、1993年の有馬記念。そう、丸1年間の休養を強いられたのである。

 繰り返すが、競走馬の骨折は致命的であり、3度も骨折した馬が復活したケースはほとんど聞かない。しかも骨折はすべて違う脚。そんな馬が1年ぶりのレースに挑み、しかも舞台はスターホースが集う有馬記念。いくら二冠馬でも、ここで勝つのは奇跡に近かった。

 ただ、そんな奇跡が起きるからこそ、人は競馬に魅せられる。ゲートが開くと同時にすばらしいダッシュを見せたテイオーは、1年ぶりとは思えない集中力、前進気勢で進む。そして4コーナーの勝負どころ、1番人気のビワハヤヒデが先頭に立つと、その後ろを追いかけ、ついに直線で外から並びかけた。多くのファンが「まさかそんなことが......」と思い始めたのがこのあたり。テイオーは力強く伸びて、ゴール前でビワハヤヒデをかわした。

 当時放送していたテレビのレース映像を見ると、アナウンサーは最初、戸惑うように「トウカイテイオーが来ている」と言っている。そしてその後、ビワハヤヒデを捉えにかかると「トウカイテイオーが来た、トウカイテイオーが来た!」と、まるで今起こっていることを確かめるかのように連呼。最後に「トウカイテイオー、奇跡の復活!」と絶叫した。それほど、この結果は信じられないことだった。前走から中364日でのGⅠ勝利は最長記録であり、いまだに破られていない。

 おそらく馬は、人間のようにレースの価値を理解していない。走りたくなければやめることもできる。それを誰も責められない。それなのにトウカイテイオーは、なぜ骨折を3度も繰り返しながら、ここまで頑張れるのか。無敗で父の背中を追っていた当時、こんなに何度も倒れながら、そのたびに立ち上がる姿を誰が想像しただろうか。

 希代のグッドルッキングホースと言われ、完璧だった父のキャリアを追いかけた若き頃。ダービーを境に、その夢からは遠のいたかもしれない。しかし、骨折と戦い続けた"帝王"がファンに遺した記憶は、父と同じかそれ以上に大きい。

 今年も日本ダービーがやってくる。この日までに、あるいはこの日を皮切りに、また1頭1頭のドラマが織り成されていく。トウカイテイオーの生涯は、そんな競馬のロマンを教えてくれる。