スーパーGT・Yogibo Drago CORSE監督芳賀美里インタビュー前編2000年代半ば、F1にエントリー申請をした日本のレーシングチームがあった。そのチーム「ディレクシブ」の代表を務めていたのが当時20代だった芳賀美里。しかし、突然…

スーパーGT・Yogibo Drago CORSE監督
芳賀美里インタビュー前編

2000年代半ば、F1にエントリー申請をした日本のレーシングチームがあった。そのチーム「ディレクシブ」の代表を務めていたのが当時20代だった芳賀美里。しかし、突然のチームの解散により、芳賀も08年シーズンを最後にサーキットから姿を消していた。
10年以上の月日が流れた21年、芳賀は国内最高峰レースのスーパーGTの舞台に帰ってきた。監督としてモータースポーツ界に復帰した彼女がインタビューに応じ、謎に包まれていた自身のキャリアやF1参戦計画について語った。



13年ぶりにモータースポーツ界に復帰した芳賀美里

ーーもともとタレントとして芸能活動をしていたそうですが、どういう経緯でレースの世界に携わることになったのですか? 

芳賀美里(以下、芳賀) 私は小さい頃からお人形で遊ぶより、車のおもちゃで遊んでいるような女の子だったんです。出身は岩手県で、高校時代に家族で初めて宮城県の「スポーツランドSUGO」に行き、生でレースを見たんです。そこでエンジン音の迫力に驚き、ピットウォークで鈴木亜久里さんや近藤真彦さんらの横で写真を撮ってもらったりして、すごく感動しました。それからエンターテイメントとしてのレースの魅力に取りつかれました。

 芸能の世界に入ってレースクイーンになったのは、憧れていたモータースポーツに関わることができると思ったからです。つまり、私にとってモータースポーツに触れ合える最短の道がレースクイーンだったんです。

ーーレースクイーン時代から将来的にはチームを運営するマネジメントをしてみたいと考えていたのですか?

芳賀 最初、雇われでスーパーGTのレースクイーンをしたのですが、すぐに「モータースポーツを動かしているのはスポンサーなんだ」という現実に気がつきました。その後、自分で会社を起こし、まずはレースクイーンを派遣する芸能事務所を作りました。23歳の時です。小さい会社ではありましたが、自分でスポンサーを集めるようになったんです。

ーーそうしてチーム運営に入っていったのですね。代表を務めたチーム「ディレクシブ」は05年に発足しています。結成のきっかけは?

芳賀 国内外のレースへの参戦を目標にスポンサーを集める中で、主に海外で活動する多くの投資家との出会いがありました。その中に、ジャン・アレジによるフランス人ドライバー育成プログラムのスポンサーをしている方がいました。そして、「F1を目指すヨーロッパと日本の若手ドライバーたちを育成するプロジェクトができないか」と相談がありました。

 そこで私はフランスのジャンの自宅を訪ね、話をするうちに、日本とヨーロッパで協力しながらやっていこうということになりました。それがチーム設立のきっかけです。ヨーロッパはアレジが、日本は私がそれぞれリーダーになってプロジェクトがスタートしました。日本では、まずお客さんがもっとも入っているスーパーGTに参戦することになったんです。

ーーそれが初めてのレースチームのマネジメントでしたが、不安はありませんでしたか?

芳賀 その時はもう勢いと若さだけでした。怖いもの知らずで突っ走っていきましたね。

ーーその後、チームはさまざまなカテゴリーに参戦を拡大していきます。05年のスーパーGTを皮切りに、06年に国内はスーパーGTとフォーミュラ・ニッポン(現・スーパーフォーミュラ)、ヨーロッパではイギリスF3、GP2(現・FIA-F2)に参戦。F1のマクラーレンにもスポンサードをしています。

芳賀 スーパーGTとフォーミュラ・ニッポンだけだったら、まだコントロールできたんでしょうけど、F1やGP2という世界規模の大きなレースになってくると、多くの人がいろいろなことを言い出すようになった。ヨーロッパのほうをコントロールすることが難しくなり、自分の力のなさを感じていました。

ーー06年にF1参戦のエントリー申請をしました。イギリスのチーム「ディビット・プライス・レーシング(DPR)」とパートナーシップを組んで、08年からのF1参戦を目指します。当時の心境は?

芳賀 F1参戦プロジェクトは、ジャンがメインで進めていたのですが、当時はF1が最終目的。あまり考える暇もなく、目標実現に向けて全力で突っ走っていました。今思うと恐ろしいですけどね。

ーーどういうチーム体制でF1にチャレンジする予定だったのですか?

芳賀 マクラーレンのセカンドチームという形で参戦する予定でした。マクラーレンの旧ファクトリーの権利を購入し、マシンはマクラーレンの型落ちを使用。エンジンはメルセデスから供給を受ける計画でした。

ーー現在のレッドブルとアルファタウリのような関係ですか?

芳賀 そうですね。トップチームのマクラーレンから技術を提供してもらってマシンを開発し、ドライバーはルイス・ハミルトン(現・メルセデスAMG)を起用する計画でした。ハミルトンは当時、マクラーレンの育成選手で、05年までF3に参戦していました。彼がGP2からF1にステップアップするまでサポートをするというプロジェクトでした。

ーーハミルトンは今では7度の世界王者に輝く、史上最強のF1ドライバーに成長しています。

芳賀 当時は一緒にご飯を食べたりもしましたが、今はもう世界のスーパーヒーローですね。

ーー08年からのF1の新規参戦枠に10チーム以上がエントリーしていました。FIA(国際自動車連盟)はイギリスのプロドライブの参戦を承認し、06年4月にディレクシブのエントリーを却下しました。

芳賀 エントリー却下の理由はFIAから明らかにされませんでした。F1参戦を目指すのが目的のプロジェクトだったので、申請が却下されてから急速に目標を失っていき、モータースポーツ活動を全部やめようという流れになっていきました。スーパーGTから始まったプロジェクトだったので、日本の活動だけはどうにか続けようと努めたのですが、日本も完全に撤退という最終的な判断が下りました。今でも覚えていますが、当時参戦していたGP2が併催されていた06年5月末のモナコGPのことでした。



かつてのF1参戦計画の挫折を涙ながらに語った芳賀

ーーその時の心情は? 

芳賀 どうしよう......というのが、正直な気持ちです。味方がいなかった。予算を出してくれているスポンサーにダメと言われたら、それ以上何も発言できませんでした。そんな中でもジャンは本当に助けてくれましたね。海外の契約解除など、最後まで誠実に責任を持ってしてくれました。

ーー撤退の流れを変えることはできなかったのですか? 

芳賀 私は日本のレース活動だけは何が何でも死守したかった。特にスーパーGTはその時、ポイントリーダーでしたから。それで、マシンからディレクシブのロゴを外して、ドライバーポイントは残る形で参戦を続けられるようにするのが精一杯でした。

 当時お世話になっていたチーム関係者がチームを引き継いでくれたのですが、本当に感謝しています。とても辛かったですし、シーズン半ばで撤退することになった時は、スタッフやドライバー、関係者の皆さんには申し訳ない気持ちでいっぱいでした......。

 あらためて当時を振り返ると、監督として力不足でした。20代の頃は若く、言葉にも説得力なかったと思います。今では周りのスタッフも言うことを聞いてくれますが、当時は自分の力だけではなかった。周囲に助けられて、監督を務められたと感じています。

(後編へつづく) 

【プロフィール】 
芳賀美里 はが・みさと 
1979年、岩手県生まれ。10代から芸能活動をスタートし、レースクイーンとしても活躍。23歳で起業したのち、ディレクシブの代表兼監督を務め、スーパーGTをはじめ国内外のさまざまなカテゴリーに参戦。チームはF1へのエントリーも行ない注目を集めたが、チームは06年にモータースポーツ活動を全面撤退。翌07年からレース監督として復帰。08年のチャンピオン獲得後、一時レース界を離れる。美容業界に進み、ビューティースキンコンサルタントとして活動。21年シーズンから13年ぶりにモータースポーツ界に復帰し、スーパーGTのYogibo Drago CORSE監督を務める。