藤波辰爾デビュー50周年ドラゴンが語る名レスラーたち(8)ヘビー級の外国人レスラーたち第7回:ジュニアヘビー時代に戦ったチャボとキッド>> 今年の5月9日にデビュー50周年を迎え、現在も自らが主宰する「ドラディション」を中心にメインイベンタ…

藤波辰爾デビュー50周年
ドラゴンが語る名レスラーたち(8)ヘビー級の外国人レスラーたち

第7回:ジュニアヘビー時代に戦ったチャボとキッド>>

 今年の5月9日にデビュー50周年を迎え、現在も自らが主宰する「ドラディション」を中心にメインイベンターとして戦い続ける藤波辰爾。プロレス人生で忘れ得ぬレスラーたちとの秘話を明かす連載の最終回となる第8回は、ヘビー級で激突した世界のトップレスラーたちとの戦いと、"最高の外国人レスラー"について語った。

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日本のリングを大いに沸かせたアンドレ(左)とホーガン(右)photo by Moritsuna Kimura/AFLO

 ヘビー級で、印象に残る外国人レスラー。藤波はしばらく考えたあと、当時の記憶を辿るように名前を挙げていった。

 1981年10月、藤波は約3年に及んだジュニアヘビー級での戦いを卒業し、ヘビー級に転向した。当時の新日本プロレスは、体格が大きいスーパーヘビー級の選手が揃っていたが、中でも破格だったのは身長223cm、体重236kgのアンドレ・ザ・ジャイアントだった。

「アンドレは自分と対戦する時、どういうわけかリング上で手をもみながら喜んで試合をやっていました。小さな僕(183cm)を相手にすると、それまでやっていなかったいろんな動きが出せたりするから、楽しかったのかもしれませんね」

 しかし藤波は、逆にボディスラムでアンドレを投げたことがあるという。

「彼が突っ込んできた時にとっさに投げたんです。あのデカイ体を持ち上げた時は、自分でも『まさか』と驚きましたね。投げる時に、先に頭がマットにつきそうになりましたけど、思い切って投げ切りましたよ。アンドレは滅多に投げられなかったんですが、気に入っている選手には『投げられてもいいよ』という雰囲気を出していました。猪木さん、長州も投げたことがありましたね」

 アンドレはヒールのイメージを守るため、日本のファンに対して冷たい態度を取るなどしていたことから、「日本が嫌いなのでは?」というイメージを持っていた人もいるかもしれない。しかし実際は日本が好きで、来日するたびに外国人レスラーのボスとして選手をまとめていたという。

「いつも楽しそうに巡業を回っていましたよ。アンドレはアメリカでトップの選手ですから、他の外国人レスラーたちも彼を慕っていた。試合前の控室で、アンドレを囲んでカードゲームをやっていたのを思い出します(笑)」

 アンドレに続いて藤波が名を挙げたのは、全米でトップを取ったハルク・ホーガン。

 1977年にデビューし、1979年にWWF(現WWE)に初登場。身長201cm、体重は130kgを超える恵まれた体を持ち、のちに王座も獲得してスーパースターになった。だが、初来日した1980年当時は不器用な選手だったという。

「光るものはあったのかな、と思えなくもないんですが、将来スーパースターになることは想像もつきませんでした。でも、新日本で猪木さんとタッグを組んだり、我々と戦うことによって、試合運びを覚えていった。日本に来るたびに洗練されていった感じですね」

 ホーガンの歴史に残る名勝負といえば、1983年6月2日に蔵前国技館で行なわれたIWGP優勝戦。アントニオ猪木にアックス・ボンバーを見舞ってKOし、病院送りにしたとして世間を大いに賑わせた。

「ホーガンは、最初から自分がスターになることを疑わなかったというか、高いプライドを持っていました。信念やスタイルを変えず、実際にそのとおりになったのはすばらしいです」

 そんなホーガンとは対照的に、ビッグバン・ベイダーは常に葛藤していたという。ベイダーは元NFL選手で、ケガによる引退後、1985年にプロレスラーとしてデビュー。1987年12月に初来日し、以後、藤波とはIWGP王座を巡って幾度となく名勝負を繰り広げた。

「ベイダーには、『どんな手段を使ってでもプロレスの世界で生きていくんだ』という貪欲さがありました。それはホーガンにはなかったもの。ハングリーさが試合でも出て魅力的な試合が多くなり、日本でトップの外国人レスラーになれたんだと思います」

 時を越え、藤波がWWE殿堂入りを果たし、2015年3月28日に米国カリフォルニア州サンノゼで表彰式が行なわれた際には、ベイダーが祝福に駆けつけた。

「予告なしで来てくれたので、本当にうれしかったですね。『今の俺があるのは、藤波のおかげだ』と言ってくれたんですが、逆に僕は彼との試合があったから、ファンの記憶に残る戦いができたと思っています。彼には感謝していますよ」

 ベイダーは2017年4月に、藤波が主宰する「ドラディション」にも参戦したが、それが最後の来日になった。それから1年2カ月後の2018年6月18日に、肺炎のため63歳で急逝した。

「最後に日本に来たのが、僕が主宰する団体のツアーというのも、深い縁を感じます。アメリカに帰る時に成田空港まで見送りに行ったら、『必ずまた日本に来るから』と言ったのが最後になってしまいました。寂しい、残念な思いでいっぱいです」

 アンドレ、ホーガン、ベイダーの他にも、タイガー・ジェット・シン、ボブ・バックランド、ブルーザー・ブロディら多くのレジェンドと戦ってきた。

「アンドレの時にも言いましたが、外国人レスラーたちは僕と試合をするのを喜んでいました。その理由のひとつは、僕が相手を選ぶことなく、ただ『自分ができることをやろう』と思っていたからかもしれませんね。その考えが、いろんな技を試したい外国人レスラーと"スイング"したんじゃないかと」


藤波が最高のレスラーに挙げたマードック

 photo by Yukio Hiraku/AFLO

 数ある名勝負を演じてきた藤波が"最高の外国人レスラー"を選ぶとしたら――。そんな問いに、藤波は「ディック・マードックです」と即答した。

 父親もプロレスラーで、子供の頃から指導を受けていたマードックは、19歳でドリー&テリーの"ファンク一家"に師事。1965年にデビューし、1968年に初来日する。以降は国際プロレス、全日本プロレス、そして1980年代には新日本でもトップ選手として活躍した。

 藤波はマードックのことを、「寝てよし、立ってよし。レスリングもうまいオールラウンドなレスラー」と絶賛する。実力はありながら、タイトルなどにこだわらないマイペースな性格で、時には猪木など周囲をイラつかせることも。だが、滞空時間が長い垂直落下式ブレーンバスターなどで観衆を魅了した。

 マードックが多くのファンに愛されたのは、高い技術があったからだけではない。藤波との試合では、場外乱闘から戻る際に互いのパンツをつかんで尻を出すなど、パフォーマンスでも会場を沸かせた。1996年6月15日に、心臓麻痺のため49歳の若さで急逝したが、その姿は多くのプロレスファンの記憶に刻まれている。

「プロレスは、どんな戦いやパフォーマンスをすればいい試合なのか、という決まりはありません。常に会場に来るファンも違いますし、どんなことで盛り上がるか読めない、イロハがない世界なんです。そのリングで、自分がどう動いたらいいかを的確につかまないといけないんですが、その点、マードックはファンをくぎづけにする感性が抜群でした。彼は本当に"最高"のレスラーでしたよ」

 ここまで、連載の中で多くのレスラーを語ってきた藤波は、多くの栄光を手にしながら、67歳になった現在も選手としてメインを張る。そんなレスラーは、世界を見渡しても極めて稀だ。なぜ、藤波はリングに上がり続けるのか。

「僕が現役でやれているのは、今でも『プロレスで僕の人生が救われた』という思いがあるからだと思います。プロレスが自分の人生を切り開いてくれ、プロレスがあったからこそ、今も健康で生き続けているんだと。67歳になりましたが、入門する前のプロレスへの憧れや『好きだ』という気持ちは、まったく変わらないんです。

 いつまでリングに上がれるかはわかりません。でも、プロレスへの思い、ファンへの感謝を忘れずに、自分のプロレスを追求し続けたいと思います」

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