ドバイ2019世界パラ陸上競技選手権大会の女子走り幅跳び(T63)で4位に入り、東京2020パラリンピック出場を決めたパラ陸上・前川楓。リオ大会以降、本格的に競技力の向上を目指してトレーニングを重ねる一方で、プライベートでは、得意のイラスト…

ドバイ2019世界パラ陸上競技選手権大会の女子走り幅跳び(T63)で4位に入り、東京2020パラリンピック出場を決めたパラ陸上・前川楓。リオ大会以降、本格的に競技力の向上を目指してトレーニングを重ねる一方で、プライベートでは、得意のイラストをベースとしたクリエイティブな活動も展開している。「やりたいことがいっぱい」とキラキラした瞳で語る前川の挑戦とは――。

運動嫌いの幼少期から、パラ陸上に出会うまで

小1から空手を習っていたのですが、苦手でした。親から「黒帯をとるまでがんばりなさい」と言われて、しぶしぶ続けていた感じです。そもそも運動が苦手で、体育の授業も苦痛でしたし、球技も大っ嫌いでした。

三重出身で現在は大阪を拠点とする前川楓。生き生きとした表情が印象的だ

加藤先生は、義足で世界一周をしている人やスノーボードをしたり走ったりしている人の記事を手に「多分、できないことはないよ」と言ってくれて、かなり不安が解消されたのを覚えています。その際パラリンピックのことも教えてもらい、初めは障がいのある人たちががんばっているのかなぐらいのイメージしか抱かなくて。でもその年に開催されたロンドンパラリンピックをテレビで観たら、面白かった! いろいろな義肢を使って、迫力があって。むちゃくちゃ感動しましたし、義足に対する先入観が一切なくなりました。

とはいえ、当時は私も競技をやってみようとまでは思わなかったです。でも、義足で思いっきり走れることはわかったので、またみんなと一緒にバスケしたいなとか、体育の授業で走りたいな、と気持ちが前向きになりました。

右脚の断端部分の骨がなかなかうまくくっつかなくて、義足を作れるようになるまでに1年ぐらいかかりました。義足の採型をしたのは高校入学後です。その頃は腰にベルトを巻いて履くタイプだったのですが、できあがったのは、足部がスポンジで、ソケット部分の色は私の肌に近いペールオレンジ。私が想像していたのは当時から活躍していた義足モデルのGIMICOさんが作品で着けているようなメカメカしい義足だったので、本当にがっかりしました。義肢装具士さんに「私、嫌なんですけど。替えてください」って言ったら、えーっみたいな反応が返ってきましたね。

リハビリは本当に苦手でした。うまく歩けないし、こけるし、怖いし。義足ができるまでの約1年間で松葉杖で過ごすのに慣れていたので、義足がなくても生きていけるっしょと思って、めっちゃさぼりました。

ところがその頃、SEKAI NO OWARI(セカオワ)というバンドの野外ライブが開催されることが決まったんです。野外ライブは移動のために結構歩くし、ライブ中は両脚でジャンプしたい。やっぱり義足は必要だと思い直し、夏休みに2週間ほどリハビリ入院して歩けるようになりました。その頃には右脚もかなり回復していたので、ライナー(切断部に装着し皮膚を保護するパーツ)の上にソケットを着けるカーボンの義足を新調したんですよ。ソケット部分は、一面、黒地に目玉模様、足部はメカっぽいものにして。その義足でライブに行って、もう最高でした! 歩き過ぎて断端が血だらけになったんですけど、それさえも楽しかったと思えるぐらい楽しかったです。

「パラリンピックは、もうずっと天の存在だった」という前川

メダルを獲る気満々でリオに乗り込んだので、悔しかったです。次こそはメダルを獲らなくては、そのためにはもっとがんばらなくては、という気持ちが湧きました。

強い気持ちが、やがて自分を苦しめる呪いに

一番きつかったのは、2019年です。11月に、ドバイで東京パラリンピック出場をかけた世界パラ陸上競技選手権を控えていました。「もっと速くならなくちゃ」、「もっとがんばらなくちゃ」という気持ちが強くなり過ぎて、3月にドイツで義足を作り帰国した後、ぱたりと記録が伸びなくなってしまいました。

ただ陸上競技場に行くだけ、走っているだけで涙が止まらなくなったり、練習中に吐き気がしたり。練習に行きたくないと思うのに、絶対に行かなくちゃとも思う。そのうち、起きているのか寝ているのか、朝か夜かも分からないような状態になってしまいました。東京パラリンピックも、早く終わってほしい、終わったら絶対に陸上競技をやめたいと思う一方で、そう考えること自体、応援してくれる人たちを裏切ることになるのでは、と思うとまた苦しくなって。陸上競技だけではなく、生きること自体も嫌になっちゃうところまで落ち込みました。

さすがにこのままじゃいけないと思ったとき、ぱっと頭に思い浮かんだのが、リハビリの加藤先生の顔です。その頃、加藤先生とは1年間ぐらいお会いしていなかったのですが、なぜか会って相談したいなと思ったんです。それですぐに電話しました、「生きるのがつらくなっています」と。以降、加藤先生にメンタルトレーニングをしていただくようになりました。

アスリートとしての重圧と戦いながら、大舞台で力を発揮した前川

マイナスな感情ももちろん描きます。ですが、「そればかりだと悲しくなるから、うれしかったことやよかったこともいっぱい描くといいよ。そうして自分の中でプラスを作っていくと、気持ちを盛り上げるきっかけになるよ」とアドバイスをいただいて。自分の感情を全部、絵にして、キャラクター化して、名前をつけて。キャラクターにすることで、別の日に似たような感情が表れると、またあいつが来たとか、今度は別のやつが来たとかわかるようになったんです。こうして、少しずつですが、感情は全部自分の中にあるものだから自分でなんとかできそうだな、と思えるようになっていきました。

実はその頃、期待に応えられていない心苦しさから、人と会うのが怖くて避けていたのですが、加藤先生にお会いする中で、次第にマイナスなことを言わない人になら会えるかも、と思えるようになっていました。そこでまず、すごく仲のいい友だちから始めて、大丈夫ならまた違う友だちに、さらにまた……と、だんだんと会う人を増やしていったんです。

そうこうするうちに、大切なことに気づきました。私を応援してくれる人たちは、私が結果を出すこと以上に私が思い切り試合を楽しむことを望んでくれていたんです。それが分かったことも、気持ちも整理できるようになった理由の一つです。

マイナスな気持ちに「殺人鬼さん」って名前をつけていたんですけど、殺人鬼さんはドバイでも現れました。そのたびに加藤先生に電話して、「殺人鬼さんが降臨してます。殺人鬼さんのせいで調子が狂ってます」と訴えて。

試合当日もマイナスの感情はやってきました。でもキャラクターとして想像すると、マイナスな感情もなんだかかわいいものです。気持ちに少し余裕ができたので、まずは自分のパフォーマンスを最大限に出すことだけ考えよう、と気持ちを整え、試合に臨みました。

試合では自分自身に集中するため、3本跳び終わるまでは記録は一切見ませんでした。4本目以降はベスト8に入らないと跳べないので、そこで初めて記録を見たところ、4位に入っていることがわかって。うれしかったですね。しかも、1回目の跳躍で自己ベストを更新していたんです。そこから後は、ただただ楽しみながら記録の更新にチャレンジできました。

ドバイ2019世界パラ陸上競技選手権大会の走り幅跳びで4位になり、東京パラリンピック日本代表に内定 photo by Getty Images Sport
アスリートのみならず、表現者としてもチャレンジ

もともと絵を描いたり何かを作ったりということが好きでしたし、友だちにリクエストされてキャラクターを描くと、めっちゃ喜んでもらえるのもうれしかったです。自分が最高だと思うものができたときは多くの人に見てほしいですし、それでだれかが喜んでくれたら、これほど幸せなことはありません。

ファッションショーでもカレンダー撮影でも、私をキャンバスにして、すばらしい人たちが作品を作り上げてくれました。こんなすごい人たちがこんなすごい作品を作ってくれて、その一部になれたということがうれしかったです。なので、本番では「見て―!」という気持ちを全身で表したつもりです。

かっこいい義足が大好きなので、これからも義足を魅せるファッションを発信していきたいですし、オリジナルグッズも販売したいし、絵本も出版してみたい。もちろん、東京パラリンピックでメダルも獲りたい! やりたいことをリストアップしたら、多分、なん百個にもなると思いますが、やりたいことを全部やりたい! それが生涯の目標です。

自粛期間もブローチづくりや再現レシピの料理にハマったと言う前川。「没頭できる趣味があるから、陸上もがんばれる」

text by TEAM A

photo by Hiroaki Yoda