藤波辰爾デビュー50周年ドラゴンが語る名レスラーたち(6)ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田 第5回:闘魂三銃士のブームと混乱>> 今年の5月9日にデビュー50周年を迎え、現在も自らが主宰する「ドラディション」を中心にメインイベンターとして戦い…

藤波辰爾デビュー50周年
ドラゴンが語る名レスラーたち(6)ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田 

第5回:闘魂三銃士のブームと混乱>>

 今年の5月9日にデビュー50周年を迎え、現在も自らが主宰する「ドラディション」を中心にメインイベンターとして戦い続ける藤波辰爾。プロレス人生で忘れ得ぬレスラーたちとの秘話を明かす連載の第6回は、新日本プロレスとライバル関係にあった全日本プロレスの、ジャイアント馬場とジャンボ鶴田とのエピソードを語る。

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1979年8月の

「夢のオールスター戦」でトリオを組んだ(左から)藤波、マスカラス、鶴田

 昭和のプロレス界は、1973年4月に力道山が設立した日本プロレス崩壊後、アントニオ猪木が創設した新日本プロレスと、ジャイアント馬場が率いる全日本プロレスが激しい興行合戦を繰り広げた。当時は、プロレスがゴールデンタイムで生中継されていた時代。新日本はテレビ朝日、全日本は日本テレビの強力なバックアップを受け、それぞれが独自のアイディアを競い合っていた。

「猪木さんは選手だけでなく、フロントや営業の社員などにも、常に『全日本に負けるな』とハッパをかけていました」

 藤波は猪木の指令に応えるように飛躍していったが、個人的にはジャイアント馬場に対するマイナスな感情はなかった。藤波が日本プロレスに入門した当時の絶対的なエースは、猪木ではなく馬場。それでも馬場は、新弟子の藤波にも穏やかに対応してくれたという。

「猪木さんと初めて会った時と同じように、馬場さんにも凄まじいオーラがあって、眩しかったですよ。体はもちろん、心も大きかったからそれだけのオーラを感じたんだと思います」

 日本プロレス時代は、巡業で宿泊する旅館の大浴場で、馬場の背中を流したこともあった。

「猪木さんと馬場さんが一緒に風呂に入る時は、猪木さんの付け人だった僕と、馬場さんの付け人だった佐藤昭雄さんも一緒に入りました。もちろん僕は猪木さんの背中を流すんですけど、ある日、馬場さんの背中を流したくなって、佐藤さんと入れ替わったことがあるんです。とにかく背中が大きすぎて、びっくりしましたよ(笑)」

 猪木と馬場が袂を分かってから接点はなくなったが、藤波は独断で馬場に会いに行ったことがある。1990年4月に天龍源一郎が全日本を退団し、大手メガネ販売チェーン「メガネスーパー」が親会社になった団体「SWS」に移籍した直後の、全日本の東京体育館大会(5月14日)の試合前だった。

「あの時は、選手が離脱した馬場さんが心配になってどうしても顔が見たくなり、独断で試合前の控室を訪ねたんです。アポなしだったにもかかわらず、馬場さんは笑顔で迎え入れてくれました。僕は椎間板ヘルニアで長期欠場中だったので、逆に心配していただいたことを覚えています」

 馬場はそれから9年後の1月31日に、61歳でこの世を去った。憧れだった馬場との対戦は叶わなかったが、藤波の胸には今でも穏やかな笑顔が刻まれている。

 全日本にはもうひとり、ファンに待望されながら試合が実現しなかった相手がいた。ジャンボ鶴田だ。

 鶴田は中央大時代、レスリングでミュンヘン五輪に出場し、それを見た馬場から全日本にスカウトされて1972年10月に入団した。翌年3月にアメリカでデビューを果たすと、凱旋帰国後の10月6日に国内デビュー。3日後には馬場とタッグを組み、ドリー、テリー兄弟の"ザ・ファンクス"が持っていたインターナショナルタッグ王座に挑戦するなど、すぐにメインイベンターに抜擢される破格の待遇を受けていた。

 WWWFジュニアヘビー王座を獲得した藤波が1978年に帰国して以降、2人はプロレス界の"次世代エース"として専門誌などで比較されるようになった。

 接点が生まれたのは、1979年8月26日に日本武道館で行なわれた「夢のオールスター戦」でのこと。同大会は東京スポーツ新聞社が主催し、新日本、全日本、国際プロレスの3団体が参加する画期的な大会で、藤波は鶴田、ミル・マスカラスとトリオを結成し、マサ斎藤、タイガー戸口、高千穂明久と戦った。当時25歳の藤波と28歳の鶴田は、マスカラスとの"トリプルドロップキック"を披露するなど、ファンを大いに沸かせた。

「全日本はライバル団体でしたし、鶴田さんとはほとんど顔を合わせたこともなかったと思います。トリオを組んだこの試合は、やっぱり緊張感がありました。試合前もそんなに話はしなくて、ごく普通の日常会話くらいでしたね」

 その後、藤波は猪木、鶴田は馬場の後継者として団体の屋台骨を支えた。ただ、2人がリング上で邂逅したのは、この夢のオールスター戦の1度きりだった。

 鶴田は天龍源一郎との"鶴龍対決"で多くの熱戦を演じ、さらには三沢光晴ら「超世代軍」の選手たちの壁となって、馬場が第一線を退いたあとの全日本を活性化させた。しかし、1992年11月にB型肝炎を発症したことを公表してメインイベンターの座を降り、1999年3月に47歳で現役を引退した。

 病気を公表したあとの鶴田は、筑波大大学院に合格。非常勤講師として教壇に立った。引退時のセレモニーでは米国オレゴン州のポートランド州立大学に赴任することを明かし、教育者として第2の人生を送ることになった。

 引退した翌2000年の年明け、藤波の自宅に、アメリカにいる鶴田から突然電話がかかってきたという。

「ほとんど会ったことがなくて電話番号も教えていなかったから、本当に驚きましたね。その電話で鶴田さんは、『どうしても話がしたくて。今度、日本に帰った時にご飯でも行きましょう』と提案してくれました」

 藤波は快諾し、再会の時を心待ちにしていたが......電話からわずか4カ月後の5月13日、鶴田はフィリピンのマニラで行なっていた肝臓の移植手術中に急逝した。49歳だった。

「亡くなったことを聞いた時はショックで言葉が出ませんでした。電話で話をしたばかりだったから、なおさら......。今も、『鶴田さんは、自分と会って何を話したかったんだろう』と、時々思い出すことがありますよ」

(第7回:名勝負を演じた外国人レスラーたち>>)