藤波辰爾デビュー50周年ドラゴンが語る名レスラーたち(5)武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也 第4回:前田日明との死闘>> 今年の5月9日にデビュー50周年を迎え、現在も自らが主宰する「ドラディション」を中心にメインイベンターとして戦い続ける藤波…

藤波辰爾デビュー50周年
ドラゴンが語る名レスラーたち(5)武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也 第4回:前田日明との死闘>>

 今年の5月9日にデビュー50周年を迎え、現在も自らが主宰する「ドラディション」を中心にメインイベンターとして戦い続ける藤波辰爾。プロレス人生で忘れ得ぬレスラーたちとの秘話を明かす連載の第5回は、武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の「闘魂三銃士」。特に「もっとも思い入れがある」という橋本との、引退と復帰、新団体などを巡るやりとりを中心に振り返る。

***



闘魂三銃士と呼ばれた(左から)蝶野、橋本、武藤

 新日本プロレスは、藤波や長州力などアントニオ猪木の弟子たちによって、1980年代に活性化した。その流れを受け継ぎ、1990年代に入ってリング上の主役になったのが「闘魂三銃士」だった。

 武藤、蝶野、橋本の3人は1984年4月に入門し、同年の秋にそれぞれデビューした。当時は、長州など多くの選手が新日本を離脱して全日本プロレスに移った直後。危機的状況で「闘魂三銃士」ら若手選手の台頭が待たれたが、3人がデビューした当時の印象はあまり鮮明ではないという。

「入門した頃は、『粒がそろった若い選手が入ったな』と思ったくらいですかね。強烈なインパクトはありませんでした」

 もっとも早く出世したのは武藤だった。デビュー翌年の秋にはアメリカに初めての海外武者修行。1986年10月に凱旋帰国してすぐにメインイベンターに抜擢され、藤波と帰国初戦を戦った。

 さらに武藤は、1988年1月からの2度目の海外遠征で、化身の「グレート・ムタ」としても活躍する。もともとのプロレスのセンスに加え、顔面への毒霧などのヒールぶりが話題を呼び、1990年4月の帰国後に新日本のリングでも人気が爆発した。

「武藤は、あの3人の中で一番好奇心が旺盛というか、何でも実践してみる意欲がありました。ムタとしてもアメリカで認められたように、武藤は"プロレス視野"が広いというか、感性が豊かで、器用で、懐が深かった。相手に応じて、どんな形でも自分の力を出せるレスラーでした」

 三銃士の中で初めて、藤波が持つIWGP王座に挑戦したのは蝶野だった。デビューから海外武者修行を経て、1991年5月31日に大阪城ホールで激突する。蝶野は敗れ、タイトル獲得はならなかったが、同年8月のG1クライマックスの決勝で武藤を破り、トップレスラーの仲間入りを果たした。

 翌年のG1も制して「夏男」と呼ばれるようになったが、1994年にヒールターンしてさらに飛躍。1998年には8回目の挑戦にして悲願のIWGPヘビー級王座を手にした。その時の王者も、やはり藤波だった。

「蝶野は三銃士ではマイペースな性格ですね。武藤とは逆に、自分の世界を崩さないところがあった。それは試合でも共通で、どんな相手でもスタイルを曲げない頑固な部分がありました」

 そして、「もっとも思い入れがある」と語りだしたのが、2005年7月11日、脳幹出血により40歳の若さで急逝した橋本だ。

武藤や蝶野に比べるとやや遅咲きだったが、「破壊王」と呼ばれ、1994年5月1日に藤波を破ってIWGPヘビー級王座を奪還。そこから9度連続防衛するなど、新日本の強さの象徴として君臨した。

 しかし、1999年1月4日の東京ドームで、3度目の対戦となった小川直也に"セメントマッチ"を仕掛けられて事実上のKO負け(結果は無効試合)を喫し、長期欠場に追い込まれた。橋本がどん底に落ちたままの同年6月、藤波は新日本の社長に就任するが、「団体トップとして最初の大仕事は橋本をリングに戻すことだ」と考えたという。

「社長になることが決まった時、とにかく橋本を復帰させることを最優先にしました。だけど、彼は何度連絡しても会おうとしない。それでも粘り強く説得を続けることで、ようやく会って話をすることができました」

 会った場所は、2人の自宅に近い東京・稲城市内のファミリーレストランだった。

「真夜中に会ったから、店にはほとんどお客さんがいなかったんじゃないかな。最初は復帰の話はせず、いろいろ雑談をしながら彼の気持ちをほぐしていった。その後も何度かファミレスで会って、頃合いを見計らって復帰の話を切り出しました。

 確か、『いつまでもリングから離れていても仕方ないじゃないか』と言ったと思います。リングに上がらない限り、小川にやられた汚名をすすぐことはできないですし、何よりも早く戻ることが大切だと思っていたので。時間が長くなればなるほど、周りの視線は厳しくなりますからね」

 藤波の説得に応じた橋本は、6月8日、日本武道館での天龍源一郎戦で5カ月ぶりに復帰する。

「その時、橋本に『他の選手と顔を合わせたくないから、控室を別にして、ひとりにしてほしい』と言われたことをよく覚えています。心情はよくわかったので、そのとおりにしました」

 第一線に「破壊王」が戻ってきた......と思われた矢先、橋本は10月11日の小川との再戦に敗れ、翌2000年4月7日のリベンジ戦でも負けてしまう。この試合は、テレビ朝日がゴールデンタイムで「橋本真也34歳 負けたら即引退!スペシャル」と銘打って中継したため、橋本の進退が窮まる事態となった。

 橋本は新日本に辞表を提出。再び復帰の説得をすることになった藤波は、「俺が相手をするから」と再起初戦の相手を務めることを条件に出した。

 そして2000年10月9日、東京ドームで対戦する。結果はチキンウイングアームロックで橋本の勝利。当時は社長業に力を入れている時期で、試合もスポット参戦にしていたが、それでも迷わず体を張った。

「練習も満足にできず、体調は最悪でした。ただ、自分としては『橋本をリングに戻せただけでもよし』という心境でした」

 試合から間もなく、橋本は「他の選手と別行動で動きたい」と要望する。それを聞いた藤波にはあるアイディアが浮かんだ。

「かつての自分と長州のように、新日本の伝統としてハプニングを興行に生かすところがあった。だから橋本の思いも受け入れて、かつて長州が率いた『維新軍』のように別動隊を結成して、新日本の本隊と対決させることを考えたんです」

 そうして橋本は、独立組織「ZERO」を発足させ、専用の道場も用意させた。しかし、橋本は藤波の考えから逸脱し、新日本の許可なく三沢光晴が率いる「プロレスリング・ノア」との対抗戦に動くなど規律を破ったことによって、同年11月に解雇になった。

 新日本は橋本を解雇した2カ月後の2001年1月4日、解雇に至る過程で遺恨が露わになった長州との一騎打ちを組んだ。藤波は実況席でゲスト解説を務めたが、両者はまったく譲らずに激しい打撃戦になったため、途中でリングに上がって「我々は殺し合いをしているんじゃない!わかってください!」とファンに訴えて試合を止めた。のちにこの行動は「ドラゴンストップ」と呼ばれた。

「ファンは不満だったでしょうけど、あれ以上やらせると、どちらかが重いケガをする危険がありました。橋本も長州も大切な選手ですから、僕は止めるしかありませんでした」

 橋本は、自らの団体を「ZERO-ONE」と改称し、2001年3月2日に両国国技館で旗揚げ戦を行なう。しかし団体の運営は厳しく、3年後の2004年に活動を停止。橋本はフリーになり、古傷だった右肩の手術とリハビリを行なっていたが、翌2005年7月11日に突然この世を去った。プロレス界は、あまりに惜しい巨星を失った。

「本当にショックでした。本来はもっと活躍できたし、プロレス界全体にさまざまな影響を与えることができる選手だった。レスラーであれば誰もが、自分の団体を持つ野望があるもの。ただ、実際に経営するとなると、見えない部分の苦労は大きいんです。橋本も、そこに苦しんだのかもしれませんね」

 橋本を失った「闘魂三銃士」。現在、蝶野は長くリングから離れているが、藤波が主宰する「ドラディション」にレフェリーとして登場するなど、プロレスに関わりながら芸能界などで活躍中だ。一方の武藤は、今年2月12日にノアのGHCヘビー級王座を奪取。58歳になった今もトップレスラーとして輝き続けている。

「三銃士はそれぞれ性格が違うし、プロレスのスタイルも同じじゃなかったことがよかった。だからこそ個性が光って、大きな波を作ることができたんでしょう」

(第6回:ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田への思い>>)