藤波辰爾デビュー50周年ドラゴンが語る名レスラーたち(4)前田日明 第3回:「邪魔だった」長州力>> 今年の5月9日にデビュー50周年を迎え、現在も自らが主宰する「ドラディション」を中心にメインイベンターとして戦い続ける藤波辰爾。プロレス人…

藤波辰爾デビュー50周年
ドラゴンが語る名レスラーたち(4)前田日明 第3回:「邪魔だった」長州力>>

 今年の5月9日にデビュー50周年を迎え、現在も自らが主宰する「ドラディション」を中心にメインイベンターとして戦い続ける藤波辰爾。プロレス人生で忘れ得ぬレスラーたちとの秘話を明かす連載の第4回は、「格闘王」前田日明との歴史に残る死闘と、新日本プロレスとUWFの対立を振り返る。

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前田(右)との試合で顔面に蹴りを受ける藤波(左)

 その死闘は、1986年6月12日に大阪城ホールで行なわれた。

 容赦ない前田の蹴りを顔面で受け続ける藤波。サソリ固めなどで逆襲したが、クライマックスはコーナーに押し込まれ、顔面に前田の大車輪キックが直撃した。

 直後に右目尻から大量の血が流れた。試合は続いたが、結果は両者KOの引き分け。昭和末期に実現した激闘の傷跡は、今も右目尻に残っている。藤波はそれを見せながら当時を振り返った。

「試合後に病院で治療したんですけど、医師から『あと数ミリずれていたら、失明の危険がありました』と言われました(苦笑)。今も右のほうは見づらいですね。特に、夜に車を運転すると右の視界が遮られるような感じがあるので、夜間の運転は控えています」

 体を張って前田に立ちはだかった藤波には、死力を尽くして戦わなければならない「歴史」と「覚悟」があったのだ。

 前田は、藤波が海外武者修行中だった1977年に新日本プロレスに入門した。藤波が初めて顔を合わせたのは、1978年1月にWWWF世界ジュニアヘビー級のベルトを奪取し、凱旋帰国した時のことだった。

「ニューヨークから帰ってきて久しぶりに道場に行ったら、知らない若手選手が酔っ払って大暴れしていて、先輩レスラーに押さえつけられていたんです。それが前田でした。3、4人かかりで押さえていましたから、『威勢のいい若手が入ってきたな』と思いましたよ(笑)」

 当時の前田はデビュー前の練習生。仰天の初対面だったが、デビュー後の前田は、身長192cmと恵まれた体格を生かして早くから頭角を現す。1982年2月からは初めての海外武者修行でイギリスに行き、ヨーロッパヘビー級王座を奪取。そして1983年4月、アントニオ猪木が提唱した「世界中のベルトを統一する」という理想の下で行なわれたリーグ戦「IWGP」に、欧州代表として凱旋帰国した。

 一気にスター選手の仲間入りを果たした......と思われたが、前田は翌年4月に新団体「UWF」に移籍する。藤原喜明、佐山聡らと共に、キックと関節技を主体とする先鋭的なスタイルを推進した。

 しかし団体は経営難に追い込まれて新日本プロレスと提携し、1986年から「UWF軍団」として新日本勢と対峙する展開となった。UWF勢は、それまでのプロレスのように相手の技を受けることなく、相手の顔面への蹴りなど危険な技を連発。ケガのリスクが高いスタイルに新日本勢は不満を抱き、リング上だけでなくリング外でも険悪なムードが漂っていた。

 その対立軸の中で実現したのが、大阪城ホールでの「藤波vs前田」だった。

 試合は、IWGPチャンピオンシリーズで行なわれた。このリーグ戦は、前年まで全選手の総当たり制だったが、この年は選手が2ブロックに分けられた。藤波と前田は同じBブロックに、猪木はもう一方のAブロックに入った。

「新日本としては、『危険な技を仕掛ける前田と猪木さんを戦わせるわけにはいかない』と考えたんだと思います。ただ、団体としてUWFを受け入れた以上、誰かが前田と対峙しなくてはいけなかった。そうでないと、新日本が成り立たない。『ここは自分がいくしかないな』と思いました」

 試合は、前述したように凄まじい攻防となり、藤波は現在も残る深い傷を負った。試合後の控室では、藤波にケガをさせた前田に憤る選手が何人もいたという。

「何人かの選手が前田に怒り、いきり立っている状態でした。だけど僕は、『そんなに騒ぐ問題じゃない』となだめました。彼は既存のプロレスを壊そうとして新日本にきた。逆に言えば、そういう方法でしかUWFという団体をアピールできない、生き残ることができないと考えていたんだと思います。その部分は、同じレスラーだからわかるところではあるんですが......ただ、振り返ると、一歩間違ったら僕のレスラー生命が終わっていた試合でしたね」

 藤波は、自らの存在をファンに示すためにスタイルを崩せない前田を理解し、技を受け続けた。その覚悟が伝説の死闘を生んだ。

「前田も、いつかのインタビューで『蹴っても蹴っても立ち上がってくるから、どうしようかと思った』と答えていましたね。ファンも同じように、僕が立ち上がってくることに驚いたんじゃないでしょうか。あんな猛攻を、どうして耐えられたのかは自分でもわかりません。ただ、危険な試合だったけど、ファンの反応を見る限り、前田と試合をやったことは正解だったと思っています。『あの緊張感が新日本プロレスなんだ』と、伝えることができたと思うので」

 その死闘後も、新日本とUWFの選手が噛み合うことはなかった。翌年1月には険悪なムードを和らげようと、副社長の坂口征二が巡業中の熊本の旅館で試合後に宴席を開く。だが、ここで前田と武藤敬司が殴り合いをはじめたことが発端となり、旅館のトイレや大広間の壁などを破壊する事件が発生した。

「あの時は、自分は乾杯だけしてロビーにいたんだけど、階段から水が流れてきて。なんだろうと思いましたよ(笑)」

 これまで、さまざまなレスラーや関係者が「熊本旅館破壊事件」について証言しているが、親睦会が乱闘に発展するほど、新日本とUWFのプロレスへの考えはかけ離れていた。

 徹底して自らのスタイルと信念を曲げなかった前田は、1987年11月19日、後楽園ホールでの6人タッグマッチで長州力の顔面を蹴り、眼窩底骨折を負わせたことが原因で新日本プロレスを解雇された。

「前田の考えや試合を見ていて、いずれはそういうことが起きると思っていました。僕と試合をした時もそうですけど、前田は前田なりの考えと、UWFの理想を守ろうとしたんだと思います。それを貫いたから、多くのファンから支持を得ることができたんでしょう」

 そう藤波が言うように、前田が1988年5月12日に後楽園ホールで旗揚げした新生UWFは絶大な人気を獲得した。ただ、フロントと選手たちの間に不協和音が生じ、団体は1991年1月に解散。前田はその時の選手たちを中心に新たな団体の設立を試みるもうまくいかず、ひとりでリングスを旗揚げする。1999年2月21日、横浜アリーナでアレクサンダー・カレリンとの引退試合を行ない、40歳でリングを去った。

 現役を退いてから、前田には一度も復帰の話が出ていない。藤波は、62歳になった「格闘王」に熱烈なラブコールを送る。

「前田くらいの存在感がある男がもったいない。絶対にリングに上がるべき。逆に、僕のほうが誘ってくれるのを待っているのかもしれない(笑)。必ずどこかで引っ張り出したいですね」

 果たして、前田の復帰は実現するのか。

 今秋からスタートするデビュー50周年ツアーの行方からも目が離せない。

(第5回:「闘魂三銃士」のブームと混乱>>)