藤波辰爾デビュー50周年ドラゴンが語る名レスラーたち(3)長州力 第2回:飛龍革命の全貌>> 今年の5月9日にデビュー50周年を迎え、現在も自らが主宰する「ドラディション」を中心にメインイベンターとして戦い続ける藤波辰爾。プロレス人生で忘れ…

藤波辰爾デビュー50周年
ドラゴンが語る名レスラーたち(3)長州力 第2回:飛龍革命の全貌>>

 今年の5月9日にデビュー50周年を迎え、現在も自らが主宰する「ドラディション」を中心にメインイベンターとして戦い続ける藤波辰爾。プロレス人生で忘れ得ぬレスラーたちとの秘話を明かす連載の第3回は、ライバルとして多くの名勝負を繰り広げた長州力との"愛憎"を語った。

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1982年、リング上で藤波(左)に反逆した長州(右)

 藤波の50年に及ぶレスラー人生にける最高のライバルといえば、長州力をおいて他にいないだろう。長州の反逆で始まった2人の抗争と、レベルの高い試合の数々は、テレビ朝日の中継で古舘伊知郎アナウンサーが発した「名勝負数え唄」という言葉と共に、今でもプロレスファンに語り継がれている。

 藤波の長州との出会いはデビュー3年目、新日本プロレス旗揚げから2年目の1974年春だった。専修大学時代にレスリングで全日本選手権を制し、ミュンヘン五輪に出場した長州(本名・吉田光雄)は、新日本が初めてアマチュアからスカウトした大型新人だった。

 藤波は、師匠のアントニオ猪木が理想を掲げて設立した新団体に、未来ある新人が加入したことを喜んだ。

「新日本ができたばかりのころの自分は、団体を家族と同じように考えていたので、毎日『早く大きくなってほしい。成長してほしい』と願っていました。だから、五輪に出場したアマレスの大物が入ると聞いて、『これで新日本の将来も安泰だ』と嬉しかったですよ」

 長州は1974年8月8日にデビューすると、直後にスターへの登竜門である海外武者修行に出される。1977年4月に帰国して以降は、テレビマッチで猪木とタッグを組み、メインイベントに出場するなど破格の待遇を受けた。

 長州がデビューした当時、"先輩レスラー"の藤波はまだ前座レスラーのひとりだった。長州とはリング内外で待遇に格差があったが、不満はなかったのか。

「確かにそうなんですけど、当時はそれが当たり前だと思っていました。何しろ向こうは、五輪に出場した実績がある。後から入った長州が、先に海外遠征に抜擢されることにも違和感はなかったですね。彼は別格だったから、当時はライバルという意識もありませんでした」

 エリートの長州と、雑草の藤波。そんな2人の関係が逆転するのは、藤波が海外遠征から凱旋帰国する1978年のことだ。藤波は同年1月23日に、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでWWWF世界ジュニアヘビー級王座を奪取。空前のドラゴンブームが起こり、人気が沸騰した。

 一方の長州は、北米タッグのベルトを獲得するなどの活躍は見せていたが、期待されていたほどの実力を発揮できず、いつしか"中堅レスラー"という位置づけになっていた。プロレスの難しさに直面し、スターになれないことにイライラを募らせた長州は、1982年10月8日の後楽園ホールでその感情を藤波にぶつけた。

 猪木、藤波と組み、アブドーラ・ザ・ブッチャーら外国人レスラーとの6人タッグマッチに臨んだ長州は、試合前から藤波に反抗的な態度を取り、互いのタッチを拒否するといったことが続いた。試合は9分30秒に藤波が相手をフォールして勝利。しかしその直後、長州が藤波に歩み寄ってビンタとボディイスラムを見舞った。

 この事件は、試合後に長州が「俺はお前の嚙ませ犬じゃない」と発言したとして世に広まった(実際には、藤波との扱いの差に不満は述べたが、「噛ませ犬」とは言っていない)。

 それから、プロレス史に残るライバル物語がスタートする。長州の反逆から2週間後の10月22日に広島県立体育館でシングルで激突し、11月4日の蔵前国技館で再戦。緊張感がある猪木の試合とはまた違う、スピード感あふれる攻防にファンはヒートアップした。

「長州が反逆したのは、何をやってもうまくいかないフラストレーションが溜まってのことだと思います。ただ、こっちからすればいい迷惑だった。あの頃の僕は、ジュニアヘビー級を卒業してヘビー級に転向したばかりで、進んでいく道にも理想があったんです。それを突然、長州が遮った。はっきり言って邪魔でしたよ。だから長州との試合では、そんなガチの憎しみの感情をそのままぶつけていました」

 鳴かず飛ばずの現状を、藤波への反逆で逆転させようとする長州。さらなる飛躍を邪魔され、本気で長州を嫌悪する藤波。2人のリアルな感情のぶつかり合いが「名勝負数え唄」を生み出した。

 数ある激闘の頂点としてファンに認識されているのは、シングル3戦目となった1983年4月3日の、蔵前国技館での一戦。過去2戦を遥かに上回る激しさ、スピード感で試合が展開され、藤波は長州のリキ・ラリアットを食らって敗れた。

「負けた時に、長州がセコンドのマサ斎藤さんと抱き合って喜んでいたんです。その姿を見た時、『長州、いい顔をしているな』と思いました。負けた悔しさはもちろんあったんですけど、長州のあんないい表情は、それまで見たことがなかった」

 この試合は、『東京スポーツ』が制定する「プロレス大賞」で年間最高試合賞を獲得した。その後もライバルとの抗争は続いたが、長州は1984年9月に新日本を離脱し、「ジャパンプロレス」を設立。翌年1月から全日本プロレスへ参戦したため「名勝負数え唄」は途切れた。

 しかし長州は、2年後の1987年に新日本に復帰する。その後、猪木が参院議員となりリングの第一線から退いた1989年夏には、長州が試合の全権を握るマッチメイカーに就任した。

 一度は団体を離脱した"出戻り"の長州が現場を仕切ることに対して、新日本で戦い続けていた藤波に抵抗はなかったのだろうか。

「まったくなかったですね。長州と激しくぶつかり合ったことで、プロレスへの考えが同じだということがわかったからです。リング外でじっくり話をすることは、ほとんどありませんでした。だけど、長州が試合を組む上で考えていることは理解できましたし、彼のことを信頼していました」

 藤波も信頼したマッチメイカーの長州は、数々のドーム興行を成功に導くなど、1990代の新日本プロレスの黄金期を築きあげた。その後、藤波は新日本の社長に就任するも2006年に退団して新団体を設立。一方の長州も、1度目の引退、現役復帰、退社、再復帰と、互いに紆余曲折のプロレス人生を歩んだ。

 そして2019年6月26日、長州は自主興行による2度目の引退試合を後楽園ホールで行なった。6人タッグマッチとなったラストマッチで、真っ先に対戦相手に指名されたのは藤波だった。2人は、最後のロックアップで万感を込めた闘いを繰り広げた。

 リングを去ったライバルのことを、藤波はこう振り返る。

「あの引退試合の当日はそれほどでもなかったんですが、翌朝に目が覚めた時に『あぁ、もう長州がいないのか』と、寂しいような切ないような、いろんな感情がどっと押し寄せてきて......。かなり落ち込みました。あらためて、長州の存在が自分にとってどれほど大きかったのかを思い知らされました。

 最初は憎い感情しかなかったんですが、彼がいたから僕もレスラーとして成長できたし、ファンのみなさんにもジュニアヘビー時代とは違う藤波を見せることができたと思うんです。本当に、かけがえのないレスラーでした」

(第4回:前田日明との死闘>>)