レスリングは日本の「お家芸」と言われている。とりわけ女子は、五輪3連覇を達成した"霊長類最強女子"と言われた吉田沙保里をはじめ、五輪4連覇の偉業を成し遂げた伊調馨など、世界的な選手を数多く輩出している。 一方の男子も世界的な実力を持つ選手…

 レスリングは日本の「お家芸」と言われている。とりわけ女子は、五輪3連覇を達成した"霊長類最強女子"と言われた吉田沙保里をはじめ、五輪4連覇の偉業を成し遂げた伊調馨など、世界的な選手を数多く輩出している。

 一方の男子も世界的な実力を持つ選手がいる。その筆頭が、東京五輪の男子グレコローマン60キロ級で金メダル最有力候補と言われている文田健一郎(ミキハウス)だ。



2019年の世界選手権で優勝し、東京五輪代表に内定した文田健一郎

 文田が「女子に比べると注目度は低いですが」と苦笑するように、男子への注目度はもうひとつで、グレコローマンという種目もあまり浸透していないところがある。

 レフリングには、フリーとグレコローマンの2つのスタイルがある。フリースタイルは、吉田や伊調らが活躍しているカテゴリーで、足をかけて相手を倒したり、下半身へのタックルが認められており、スピーディーな技の攻防が見どころである。

 もうひとつのグレコローマンは、腰から下を攻めることが禁止されており、そのためお互いの上半身をくっつけてから技をかけ合うことが多く、力と力がぶつかり合うスタイルである。

 グレコローマンの魅力について、文田はこう語る。

「タックルはないのですが、相手を大きく投げ飛ばす技がグレコローマン独自の魅力だと思います。格闘技に近い面白さがあります」

 文田がレスリングを始めたのは小学生の時。当時、同級生がこぞって参加していたサッカーや野球への興味が強かったが、グレコローマンの元選手である父にレスリングシューズを与えられたのがきっかけだった。

「洗脳に近いものがありましたね」と文田は笑うが、中学生となり大会に出場して勝つと「すごく気持ちよくて、この特別なものをもっと味わいたい」とレスリングに集中するようになった。

 2012年のロンドン五輪では、父が指導していた米満達弘が金メダルを獲得し、「自分もこのマットで戦いたい」と、レスリングへのモチベーションはさらに上がった。同時にグレコローマンのビデオを父から見せられ、その格好よさに憧れを抱くようになった。

 高校ではグレコローマン一本でやろうと決め、韮崎工業高校レスリング部の監督を務めていた父の指導を受けることになった。

「かなり厳しかったです。父自身も『人一倍厳しくやらないとダメだ』と言っていました。ただ自分にとっては、その厳しさがプラスになりました」

 高校時代、国体で3連覇を達成するなど、史上初のグレコローマン高校8冠を達成した。卒業後はレスリングの名門であり、父の母校でもある日本体育大へ進学した。レスリング部は寮生活で、1、2年時は高校とは違う大変さがあったという。

「入学してすぐは競技というより、先輩たちの洗濯など、そういった仕事がけっこう多くて大変でした。門限とか部のルールもかなり厳しかったですね」

 また、日体大レスリング部には伝統的な行事がある。そのひとつが20歳になった成人の日に行なわれる「成人マラソン」だ。

「渋谷から横浜にある建志台キャンパスまで25キロぐらいあるんですけど、そこを走るんです。もともと走るのは好きじゃなかったので、僕は最下位で。『なんで走っているんだろう......』と思いながら走っていましたね(笑)」

 先輩からはいい意味でかわいがられ、強さを増していった。大学3年時に全日本選手権で初優勝。4年になると世界選手権でも優勝し、日本人最年少のグレコローマン王者になった。

 競技力を高めた日体大時代だが、文田にとっては大きな出会いの場でもあった。なかでも先輩である太田忍との出会いは、文田に大きな影響を与えた。

「忍先輩は大学の2つ上の先輩で、同じ階級で、いろんな大会で競い合ってきました。大学の頃は忍先輩が世界で活躍して、いろいろと戦い方を教えてもらいました。ライバルでもあるのですが、お互いを高め合う存在でした」

 2016年のリオ五輪に、文田は59級グレコローマンの日本代表である太田の練習パートナーとして同行した。初めて直に触れる五輪の舞台は、じつに刺激的だったという。

「五輪に出る選手を間近で見られましたし、減量しているところやコンディションづくり、試合直前の体の温め方、気持ちの持っていき方......全部見ることができたんです。自分が五輪に出た時はこうしようとか、すごく具体的に考えられるようになりましたし、本当にいい経験になりました」

 リオ五輪で「忍者レスラー」と言われた太田は、素早い身のこなしで相手を投げ続け、決勝に進出。惜しくも金メダルは逃したが、グレコローマンでは2000年のシドニー五輪以来となるメダルを獲得。そしてその試合を見た文田は、ロンドン五輪と同じように鳥肌が立った。

「試合に出られない悔しさはありましたが、それよりも忍先輩が勝ち上がっていくのが本当にうれしくて。いつも同じ道場で練習している先輩が、世界でこれだけ通用するんだというのを見ることができて、自分がやっていることは間違っていないと。これを続けていけば、この舞台に立てると確信できたことはすごく大きかったです」

 リオ五輪以降、文田と太田は同じ階級で競い合うことになる。

 2019年の全日本選手権では、決勝で文田が勝利してカザフスタンで開催される世界選手権の出場権を獲得した。そしてこの大会で決勝に出場すると、東京五輪の60キロ級グレコローマンの代表に内定した。

 試合後、報告しようと太田の前に立ったが、何を話していいのかわからずにうつむいていると、何も言わずにギュッと抱きしめてくれた。

「号泣でした。それですべてが伝わった気がしました」

 決勝戦の前、大田が文田を呼び、相手のクセや動きを、実際に技をかけて丁寧に教えてくれた。

「決勝の相手は以前、忍先輩が戦ったことがあり、ローリングという寝技がすごく強い選手だった。その対処方法を試合直前まで指導してくれたんです。その思いに応えないといけない、忍先輩の分までやるんだという気持ちになりました」

 決勝戦は、その世界チャンピオンであるロシアのセルゲイ・エメリンに5ポイントを先取されたが、得意の投げ技で10ポイントを奪って逆転し、金メダルを獲得した。文田と太田との間には、ライバルという枠を超えた、太く強い絆が結ばれている。

 東京五輪の代表に内定し、昨年も全日本選手権で優勝。すっかりレスリング界の顔になったが、ちびっ子レスラーからは「猫の人だ」と声をかけられるようになった。文田は猫好きで知られており、通称「猫レスラー」と呼ばれている。

「"猫レスラー"って言われるのは、うれしいような恥ずかしいような(笑)。でも、そういうことがきっかけで(自分のことを)知ってくれるのでいいかなって思います」

 山梨の実家にいた頃から遊びにくる猫をかわいがっていたが、本当に好きになったのは大学に入って"猫カフェ"に行くようになってからだという。

「気づいたら猫好きになっていました。日常的に使うモノに猫柄や猫をモチーフにしたものを使っています。彼女が犬派ならですか? 猫の魅力について、すごく丁寧にプレゼンします。パワーポイントで(笑)」

 猫レスラーと呼ばれる所以は、文田の得意技である「反り投げ」にもある。首から腰にかけて関節が柔らかく、とんでもない体勢から技を繰り出し、相手を投げ飛ばしてしまう。その柔らかく俊敏な動き、そして背中から落ちないのも猫と同じである。

「反り投げをするようになったのは中2の終わりぐらいです。父に教えてもらい、そこから得意技になっています。柔軟性を武器にする投げ方をしているので、相手をいろんなポジションからいろんな方向に投げられるんです。それが自分の強みです」

 文田の反り投げ──それは60キロ級を戦う選手であれば、誰もが警戒する大技だ。文田は、2019年の世界選手権までは研究されても「反り投げで勝つ」と強い気持ちで戦い続け優勝したが、同時にかなり研究されていることも実感したという。

「このままだとまずいと思い、東京五輪が1年延びたことを機に相手が反り投げを警戒してきた時に別の技、たとえば首投げ、巻き投げとかで仕留めるということに取り組んできました」

 伝家の宝刀を「出すぞ」と見せつつ、ほかの技で投げ勝つ。相手がその技を警戒すれば、反り投げで勝つ。文田と戦う選手にとっては、体力はもちろん、心理戦でもかなり消耗し、厳しい戦いを強いられることになるだろう。

 東京五輪で文田が見据えるのは、金メダルだけだ。そして太田には、なんとしてもいい報告をしたい人がいる。

「高校の時は僕が結果を出しても、父は喜ぶ姿を見せなかったんですけど、大学に入り指導から離れると、すごく喜んでくれるようになったんです。僕のレスリングは、父がいなければここまでつくり上げることはできなかった。そういう父への恩返しのひとつとして、金メダルを獲らないといけないと思っています」

 文田が小学生の時にレスリングシューズを与え、その後も我が子の潜在能力と将来に期待し、レスリングを教えてくれた。そんな父から託された夢を、文田は金メダル獲得によって果たすつもりだ。

プロフィール
文田健一郎(ふみた・けんいちろう)/1995年12月18日、山梨県生まれ。グレコローマンスタイルの選手だった父・俊郎氏の影響で小学生からレスリングを始める。韮崎工業高では国体を3連覇するなど、史上初のグレコローマン高校8冠を達成した。日本体育大に進むと、全日本レスリング選手権2連覇、世界選手権優勝など、数々のタイトルを獲得。2019年の世界選手権で優勝を飾ると、東京五輪の代表に内定した。得意技は反り投げ。現在はミキハウスに所属