竹下佳江インタビュー「世界最小最強セッター」が歩んだバレー人生 前編  身長159cmの小さな体で質の高いトスを上げ続け、アタッカー陣からの信頼が厚かった竹下佳江。長く日本代表を牽引した名セッターだが、2000年にシドニー五輪出場を逃す屈辱…

竹下佳江インタビュー
「世界最小最強セッター」が歩んだバレー人生 前編 

 身長159cmの小さな体で質の高いトスを上げ続け、アタッカー陣からの信頼が厚かった竹下佳江。長く日本代表を牽引した名セッターだが、2000年にシドニー五輪出場を逃す屈辱を味わい、2002年には一度引退を決意している。当時の状況と、現女子バレー代表監督の中田久美からかかってきた電話、復帰後の活躍を竹下が振り返った。

***


バレー人生を振り返った竹下佳江

 photo by Kimura Masashi

「小学校3年生の時に、3つ上の姉の影響でバレーを始めました。姉は勉強もスポーツもできたので、何でも姉のマネをしていたんです(笑)。私はちょっと飽きっぽくて、両親に『佳江はバレーも続かないんじゃないか』と言われて悔しかったんですが、バレーは続けられました」

 高校では春高バレーなど全国大会には縁がなかったが、3年生の時に1995年の世界ユース選手権のメンバーに選出され、世界一を経験した。

「その頃から『バレーで給料をもらって生きていきたい』と思うようになりました。最初は9人制のチームからしかスカウトはなかったんですが、のちに代表監督になる葛和伸元監督が声をかけてくれて、NECレッドロケッツに入団しました」

 NEC入社当初、1996年のアトランタ五輪に出場する全日本メンバーが合宿でNECの練習所を訪れた。大林素子、吉原知子、山内美加、セッターの中西千枝子と、そうそうたるメンバーだった。

「オーラが違いましたね。みなさんの一挙手一投足を目で追っていました。『いつかあのユニフォームを着てみたい』と初めて思いました」

 NECでの最初の4年間、竹下は朝練習の前にひとりで自主練をしていた。体育館の壁にボールを打ち、跳ね返ってきたボールをトスする練習を繰り返した。そして1999-2000シーズンに正セッターとなり、チームは全勝優勝。シーズン終了後、1997年から日本代表の指揮を執っていた葛和監督が、NECの主力だった竹下、高橋みゆき、杉山祥子を招集した。

 初招集された1997年の時は控えのセッター。そこから間が空いて再び日の丸のユニフォームに袖を通した2000年は正セッターに抜擢され、シドニー五輪世界最終予選を戦った。だが、そこで竹下の運命が大きく変わる。

 残り2戦で、勝てば五輪出場が決まる運命のクロアチア戦。日本は2セットを先取したが、第3セットを奪い返されると、第4セットは21-17と終盤で大きくリードしたところから逆転を許す。そのまま最終セットも失って試合も逆転負けを喫した。

 予選最終日、残っていた出場権を獲得したのはクロアチアだった。日本女子バレーが1964年の東京五輪から続けていた出場記録が途絶えた。

 竹下は、これまでもその予選についてさんざん聞かれ、答えるのも嫌になっていた時もあるそうだが、「聞かれたら答えますよ」と穏やかに微笑んだ。

「最終予選という舞台を経験するのも、代表のレギュラーセッターとしてトスを上げるのも初めてでした。ただ、リーグ戦で優勝していたこともあって、『チームでやっていた速いバレーを展開すれば、代表でも形になっていくんだろうな』と考えていました。でも、うまくいかなかった。やっぱりそこは、経験値の低さだったんだと思います」

 竹下の"売り"は速いトスを生かしたセンター攻撃だったが、クロアチア戦の終盤はレフトの大懸郁久美に上げ続け、それが連続でブロックされる結果になった。

「『接戦になったら主砲にトスを上げる』というのは基本ですが、自分の特徴は速いトスで、センターとライトを使ってナンボだった。それなのに、センターの杉山を使うことが怖くて......。気持ちが"守り"に入っていたんでしょうね」

 五輪出場権を逃した批判は、159cmのセッターに集中する。「そんな背の低いセッターを使うからだ!」という声は、竹下本人の耳にも数多く入ってきた。それまで好意的に接してくれていたはずの周囲の人間、バレー関係者の中にも、くるりと手のひらを返した者がいたという。

 人間不信に陥った竹下は、2002年にひとつの決断を下した。

「4月にNECを退社しました。当時は移籍リストとかもないですし、移籍によって深刻な問題が起きることが多かったので、"タブー"と言われていた時代だったんです。だから、NECを退社するということは、バレーから離れるということだと私は考えていました。退社後はハローワークにも通いながら、『次は何をしようかな』と、けっこうフラフラしていた時期もあったんです」

 竹下にはいくつかのチームから誘いの声がかかったというが、その中でも、熱心に足を運んだのはJTマーヴェラスの関係者だったという。

「私のことが絶対に必要なんだ、ということを、本当に熱く話していただいた。それでもしばらくは、『やらないです』と断り続けていたんですけどね。本当に誰の言うことも耳に入らない状態だったんですが、そんな心の扉を徐々に開けてもらいました」


一度は引退を決意するもJTに入団し、日本代表にも復帰した

 photo by Sakamoto Kiyoshi

 当時、JTは下部リーグに所属していたこともあり、竹下の中に「ゼロからやってみようかな」という気持ちが芽生えていった。

 そんなJTとのやりとりとは別に、竹下の背中を押した電話があった。その電話の主は、かつて天才セッターとして日本代表で活躍し、現代表監督の中田久美だった。

「久美さんは、『なんでやめるの? 勝手にやめてんじゃないよ。ダメじゃん、やめたら』と、"らしい"口調で言ってくれたんです。その時は『久美さんがそんなこと言うんだ』と驚きましたが、同時に『この人はちゃんと見てくれていたんだ』と感じました。さまざまなことを言う人がいた中で、久美さんは本当に特別な人です」

 復帰を決意して2002年8月にJTに入団すると、竹下は1年目にしてチームを1部昇格に導いた。翌年には日本代表に復帰し、ワールドカップで最優秀敢闘賞を受賞。そして2004年、アテネ五輪の出場をかけて再び最終予選に臨むことになった。

「五輪出場を逃した屈辱は、五輪に出ることでしか晴らせない。そういう思いがありました。初戦のイタリア戦は、振り返ると不思議な試合でしたね。時間が止まっているように感じられるというか、相手のブロックが全部見えましたし、どんな攻撃を仕掛けてくるのかもすべてわかったし、レシーブも全部拾える感覚でした。でも、実際にどんなプレーをしていたのかは覚えていなくて、あとからビデオを見て確認しました。

 出場を決めた韓国戦の最後もそうです。24点目はユウ(大友愛)に上げて決めてくれたことは覚えてるかな。そこで『あと1点でこの4年間が終わる』と思ったら、鳥肌が立ってしまって涙が出てきて......。トモさん(吉原知子)が『攻めるよ!』と言っていたこともかすかに覚えていますが、どうやって最後の1点を取ったのか(最後は佐々木みきのサービスエース)、まったく記憶にないんです」

 アテネ五輪本番は5位で終え、柳本晶一監督が続けて指揮を執ることになった。竹下は翌2005年にチームのキャプテンに任命されたが、筆者はその後の練習や試合を取材する中で、竹下が"肩ひじ張っている"ように感じた。

「あの時は先輩、シン(高橋みゆき)など年齢が近い後輩、もっと若いメグ(栗原恵)とかもいましたが、少し"緩い感じ"があったのが許せない気持ちがありました。最終予選での敗退を経験していますし、どれだけ頑張らないとオリンピックに辿り着けないか、わかっていたので」

 代表を率いる際に支えになった選手として、竹下は2人の名前を挙げた。

 そのひとりは、ひとつ上の先輩だった大村加奈子だ。1994年からVリーグでプレーしていた技術が高いミドルブロッカーで、アテネ五輪にも出場。その後、2年間代表から離れたが、2007年に復帰して北京五輪メンバーに選ばれた。竹下は大村のことを「チームのバランスを取る方。いろんな話を聞いてもらった」と振り返り、「絶対に代表メンバーに必要でした」と話した。

 もうひとりは、名コンビで活躍した高橋みゆき。高橋はシドニー五輪の最終予選から共に戦っていたが、2005年からイタリア・セリエAのチームで2年間プレーしたことで「すごく変わった」という。

「すごくプロフェッショナルな選手になりました。それまではバレーに関して真剣に話すことはあまりなかったと思うのですが、イタリアでプレーする厳しさ、甘さをしっかり指摘するなど、熱量が高い話をたくさんするようになりましたね。

 シンは、不満があっても口に出さずに『自分が背負えばいい』というスタンスの選手という印象でした。でも、イタリア挑戦後は、厳しさを表に出すというか、勝負に対してこだわっている部分が一致したんです。海外でのプレーは、彼女自身にとっても大きな収穫があったでしょうけど、そういう話をできる人が近くにできたことは、私にとっても"強み"になりました」

 迎えた2008年の北京五輪は、アテネ五輪に続いて5位。しかし、竹下を中心に2大会で培われたチーム力が、2012年のロンドンで実を結ぶことになる。

(後編につづく>>)