久々に自分自身のことを書きたいと思います。誰やねん、という人はこちら(https://number.bunshun.jp/articles/-/842892)を参照してください。

 現役引退後の進路を考えること自体に半年も費やした僕は、ああだこうだと考えた末に指導者を目指すことを決め、それならばUEFAライセンス取得に挑戦しながら実践を積むことが「自分にとっては」有効だと結論を出し、選手時代に所属したラトビアのFKイェルガヴァというクラブからのオファーを受ける形で、1月から指導者としての生活を始めました。

「とりあえずコーチとして契約する」という以外は、どの年代の誰を指導するのか、というのもわからないままの渡航です。選手時代はスパイクだけ持って海を渡ることがありましたが、今回はとりあえず笛とストップウォッチだけ持って出陣しました。行けばわかる、というのが意図せずに人生の裏テーマになりつつあります(おかげで「行ったら散々な目に遭いました」も裏テーマになりつつあります)。

最初は「とりあえずいる」立ち位置

 さて。到着した僕が配属(というのでしょうか?)されたのはトップチームでした。

 すごいと思ってくれた人がいたとしたらそのまま騙しておきたいのですが、その真偽は逆です。育成年代のコーチ(U-4からU-18まで)はアシスタントを固定せずに1人でグループを受け持っているので、「そんな責任の大きな場所は預けられない」というのがトップチーム配属の主な理由です。

 遠征バスの手配や練習試合の交渉、選手の親とのミーティング、盗難処理までが育成年代のコーチの仕事であり、それを異国の地・ラトビアで行うのは僕にとってハードルが高いのです。笛とストップウォッチしか持ってないやつには任せられません。

 トップチームになると、欧州では、ほとんどの監督が自前の「コーチングスタッフ」を連れていて、すでに一定以上の信頼関係のある「グループ(の長)」として活動しています。

 僕がこのクラブに指導者として戻ってきた当初の監督はベラルーシ人でしたが、既に連れ添っている3人のアシスタントコーチと仕事を始めていました。そこに、僕が「こんにちは」と入っていくわけです。すこぶる警戒されますよね。「なぜ東洋人がアシスタントなんだ?」という空気がヒシヒシと伝わってきます(差別的な態度ではありません)。

 正直、何も期待されていない状況ですし、初めは物理的にも精神的にも端っこで様子を伺いながら「とりあえずいる」という立ち位置でした。ただ、僕はそもそも自分の何が評価されて呼び戻されたのかは自覚しているつもりでしたし、そこで本当に「とりあえずいる」だけで終わってしまわないように、仮説を立てながら試行錯誤をしました。

「オープンな議論」は不必要?

 選手たちは僕の選手時代を知ってくれているので、「指導に聞く耳を持ってくれる」ことと、「自分がやってみせられる」ことが、現段階で僕が唯一所持している武器です。しかしこれらはやがて消えていくものであり、消えていく前に新しい武器に変えなければいけません。日々体重は増えていき、身体のキレは彼方へ飛んでいきます。時間はありません。

 その意味で監督は、流動的な思考態度と、不可侵の領域を持つことのバランスが巧みでした。高圧的でトップダウンな指導や構造が問題にされることは多いですが、僕としては反対に「オープンに議論しない」ということが大切な場面もあると思うようになりました。

 指導哲学があれば、一切の照れや不安を伴わず、堂々と言い切って徹底してもらうことで、他者の理解が進むこともあるのではないでしょうか。それがこちらの考えや意見と整合しているかは問題ではなく、舵取り役が議論の余地がない場所を持つことで、グループの視線が一気に揃うような感覚を覚えました。

 そうして、ようやく車輪への足の掛け方が分かってきたところで、コロナ禍が本格化しました。漕ぎ始めようとしたら、自転車ごと取り上げられたような感覚です。ラトビアが緊急事態宣言を出したのは、リーグ開幕戦の前々日というタイミングで、準備とモチベーションが最高潮に達しようとしたところで、全てが一度ストップしてしまいました。

 プレシーズンと戦績・内容の相関に非常に興味があったので、そのまま開幕を迎えられなかったのは残念でしたが、「サッカーそのもの」の存在意義や、無観客試合の意味などを考える契機にもなったので、長い目で見たら実りある時間になったと思います。体重的にも実りある時間になりました。圧倒的に。

開幕15試合ほどで監督が解任

 ラトビアは人口の少なさと政策が功を奏して、感染者数を抑えることに成功していたので、リーグは約3カ月の空白を経て、今年6月に無事に開幕を迎えました。しかし、そこから一切の結果が出せずに、15試合ほどで監督は解任されてしまいました。

 サッカーは本当に難しい。

 選手時代は、「試合に影響を与えること」はとても直接的で、ある意味で簡単なことでした。ピッチでプレーをする限り、良くも悪くも影響を与えないことのほうが不可能で、1秒1秒の判断、技術が、確実に試合を方向づけていきます。

 しかしコーチングスタッフは、試合中に「ボールに一切触れることなく」影響を与えなければいけません。選手とは全く別の、高度な専門性を求められる仕事だと痛感しました。

 ましてや監督ではなくアシスタントコーチ、しかもその下っ端ということで、無力感に苛まれることもたくさんありました。

 引退して1年も経っておらず、選手気分が抜けきれていないことも一因だったと思いますが、この「ボールに触れずに出来ること」を見つけていくこと(つまりお前はもう選手じゃないと本当の意味で受け入れていくこと)も課題でした。半ば意図的に「勝敗は細部に宿る」と信じて、普段のトレーニングと準備に尽くすようになりました。試合の日に出来ることなど(いまの自分の能力では)限られているからです。

「2ndチームの監督にならせてくれないか」

 ベラルーシ人スタッフが4人とも解雇され、2ndチームの監督をしていたラトビア人コーチがトップチームの指揮を取ることになりました。ここで僕は思うところがあって「トップチームのアシスタントをしながら、2ndチームの監督にならせてくれないか」という要請をしました。仕事量は増えますが、単身赴任なので時間だけは莫大にあるのです。

 現役の時から指導者をよく観察していたので、頭の中にはいくつものアイディアがあるのですが、それを棚卸することなく「誰かの意図を仲介する」という場所にいると、自分の性格上「こうしたほうがいいのに」という考えを片隅に抱き続けることになります。

 一度、ちゃんと自分が「考えてきた・考えていること」を実践することで、それがいかに机上の空論で、効果を伴わないアイディアなのか、あるいは思った以上に機能するアイディアなのかが彩度を伴って判明するのではないかと思いました。

 またグループの長としての視点を経験することで、アシスタントとしての働き方も変わるのではないか。そうして、また誰かから学ぶフェーズに戻ればいい。1年目だろうが、駆け出しだろうが、自分のチーム、自分の練習メニュー、自分の公式戦を持つということが必要に思ったのです。生意気ですが、チャンスがあるならば、照れている場合ではありません。

 コロナ禍の財政圧迫も影響して、僕のこの要請は通ることになりました。ライセンス上は不可能なので、公式戦では該当ライセンスの保持者であるアカデミーディレクターにベンチに座ってもらうというウルトラCをしていました。

メッシよりもケビン、プレミアよりウクライナ

 やはり、自分のアイディアを「実在する選手たち」に対して実行すると、机上、空想では決して生まれない問題が次々と訪れます。語学に対する負荷も桁違いで、ある部分においては自信が粉砕し、別の部分では手応えがあり、考えてきたことを全バラシして組み立て直すような実感がありました。

 どんなサッカーの試合を見ても「自分の選手なら?」という視点が加わることになり、たとえばプレミアリーグの試合観戦量と同じくらい、ウクライナリーグの試合(ラトビアリーグに近いレベルの試合)を見るようになり、メッシよりもケビン(自チームの若手)の映像を見るほうが多くなりました。

 単身赴任だったので、選手と過ごす時間は娘よりも多く、その分ふざけた練習態度にははっきりと殺意が芽生えましたが、それでもやはり大きな感情移入があり、それはこれからもこの仕事を続けていきたいと思わせてくれる大切な経験になりました。

『ハッピーバースデー、トゥ、ミー』

 ラトビアは最後の数試合を残すのみでシーズンが終わります。日本と同様に春秋制だったこと、夏の感染者数が抑えられていたことが功を奏して、無事にシーズンを終えられそうです。

 またライセンスについても、自粛期間中はオンラインで進められたこともあり、最後の試験を残すのみとなりました。不合格だったら、何も言わずに消えるので探さないでください。

 指導者1年目が、この2020年の混乱と重なったことを、僕は決して忘れることはないと思います。たくさんの経験をさせてくれたクラブと、コロナ禍で単身赴任に切り替えた僕を日本で待ってくれた家族、そして2歳になる娘と半年も離れて過ごした自分自身に「おつかれ」と言いたいと思います。

 海外の友人が誕生日に『ハッピーバースデー、トゥ、ミー』と軒並みSNSに投稿してるのを見続けて、自分を労う大切さを学びました。

 おつかれさま、また来季も頑張ろう。

(「フットボールの「機上の空論」」中野遼太郎 = 文)