平山さんが20歳で「プロクライマーを目指す」と宣言した1989年にクライミングW杯がスタートしました。その当時はどのような心境でしたか?

「それ以前からいくつかの国際大会が行われていて、UIAAがそれらをW杯として開催し、ゆくゆくはスポーツクライミングをオリンピック競技にしようと動き出していると聞いた時は、すごくワクワクしたのを覚えています」

その頃はまだ、日本と世界のクライマーには大きな実力差があったと聞いています。

「現在も開催されているイタリアのアルコ・ロックマスターという大会(当初は岩場での競技会だった)にはスター選手が多く出ていて、当時の様子を出場した橋本覚さんがインタビューで答えているんですよね。『ヨーロッパの選手はもう、日本の20年先を行っている』って。僕らの間では『指1本、第1関節だけで片手懸垂できちゃうんじゃない!?』っていうイメージがあったくらい(笑)。その化け物の筆頭がシュテファン・グロヴァッツ(ドイツ)でした。僕はまだ若かったから、『シュテファンを超える』みたいなことを簡単に口にしてトレーニングしていましたけど(笑)、本気でそう思っていたし、いつかそこに近づきたいと必死でやっていたのは確かです」

 

伝説的クライマーのシュテファン・グロヴァッツ。アルコ・ロックマスターで3度の優勝、僻地でのルート開拓、クライミングギアブランド「Red Chili」の創設など様々な功績を残している。[写真:ullstein bild via Getty Images]

その後、平山さんがコンペシーンで活躍された2000年代初頭まで、他の日本人クライマーの状況は?

「今の代表選手たちの強さを考えると、ポテンシャルのあるクライマーは日本にもたくさんいたはずです。でも、世界でやっていくにはその中心であるヨーロッパに住むしかないという時代でした。毎週のように日本と欧州を往復する余裕があったわけではないですし、それで向こうに住む気になったのは自分くらいで、そのハードルは高かったように思います」

W杯黎明期の1990年代を牽引したのはフランス勢でした。

「フランスには良質な岩場がたくさんあって、僕も含めて多くのクライマーが集まっていたし、そういう意味でいろんな情報が自然と集積していたんだと思います。ゆえにトレーニングメソッドのような点でも彼らは先を行って、コンペシーンを占領していたという印象はありますね。他国の選手も強いんだけど、大会に照準を合わせるコンディショニングの面でもフランス勢は長けていました」

良質な岩場が多くあるフランスの選手が強くなるのは自然の流れだったと。

「そうですね。当時の人工壁はシンプルなもので、トレーニングに適していなかったんです。だから岩場で練習するのが普通だった。その後、人工壁でのトレーニングが充実していったのは、今で言うムーンボードのような、傾斜があってホールドがたくさんまぶされた壁を(1990〜91年に南仏で共同生活をしていた)フランソワ・ルグランが提案したことが一つのきっかけかもしれません。セッションが可能になったことで、僕らは切磋琢磨して、周囲よりも実力的に前に進めたんだと思います。徐々に仲間のクライマーの家にもプライベートウォールができ始めて、よく順番に周って登りにいきましたね」

W杯が始まった当初は、やはり岩場での活躍がトップクライマーの証だったのでしょうか?

「確かに、クライマーの中でコンペでの優勝は『それはそれ』といった感じで、岩場の成果を第一にしていた雰囲気はありましたね。コンペで強くなれば、岩場でも強くなれるって。でも当時の雑誌とかでは、アルコ・ロックマスターなどで優勝すると相当注目されて、一般層の中での『ヒーロー』がコンペシーンでも見出され始めていました」

変化を見せ始めるコンペシーンで印象的だったのは?

「1990年代前半くらいですかね。コンペを重視するクライマーが現れてきて、その象徴で、のちに世界選手権でも優勝するフランソワ・プティというフランス人がいたんです。彼は人工壁ばかり登って、コンペで優勝を目指すというスタイル。当時は岩場で活躍しないと『プロとしてのキャラクター』みたいなものが浮かび上がってこない節がありました。だからプティについても『何者?』って雰囲気で、クライマーの間ではあまり存在感は大きくなかったのですが、その彼に続く選手が徐々に出てきた。90年代後半になると、大会に出場する選手のうちの半分くらいがコンペを重視するクライマーになっていたかもしれません」

 

平山さんが印象的だった人物に挙げたフランソワ・プティ。リードで95、99年にW杯年間を、97年に世界選手権を制した。[写真:飯山健治]

W杯の存在も日に日に大きくなっていったのですね。

「コンペティターが増えてくると、選手をバックアップする国も一部で出始めました。例えばフランス協会だと、A代表の選手には報酬が支払われていたようです。そうこうして大会の価値が高まり、インドア志向になっていけばいくほど、各国協会の動きも活発になっていきました。2000年代前半になると、選手層の9割はコンペを目指すクライマーで占められていたと思います」

平山さんはW杯参戦中の1997年に、ヨセミテにある「サラテ」のオンサイトトライというクライミング史に残る壮大な挑戦をされます。大会とヨセミテ(岩場)、この2つの目標を平山さんの中ではどう位置づけていたのですか?

「大会と岩場は一対のものだと考えています。当時のクライミング界でサラテをオンサイトトライするということは、どこにも転がっていないような夢だった。それってもう、W杯で優勝するとか、岩場で世界最難ルートを登るとか、そういう目標をすべて重ね合わせて、すべてをこなす能力がないとできないことだと日々感じていたんです。そうしていくうちに、人生の中での“最高到達点”に向かうには、5.13後半まで登場する20ピッチのルートをオンサイトできなければ、そのためにはシングルピッチの同グレードをオンサイトできなければ、というふうに自分の中で第一に達成すべきハードルがだんだんと下がってきた。ひいてはドミノみたいな感じで、最初に倒さなきゃいけないのは目の前にあるW杯ルートのオンサイト、というように。僕にとっては大会も大事な存在で、W杯でいい成績を残さなければ、その先に繋げることができないと、常に考えていましたね」