90年代以降、日本のユース世代は幾度となくアジアの壁を突破し、世界への挑戦権を手にしてきたが、そこにはこの年代ならではの課題や示唆に富むドラマが隠されている。長きにわたり、日本のU-20年代の取材を続けてきた識者が、ポイントとなった世代をピックアップし、キーマンに直撃。当時のチームについて検証していく。95年カタール・ワールドユースのチームを取り上げる今回は、解説者の安永聡太郎氏に話を訊いた。(取材・文●元川悦子/フリーライター)

――◆――◆――

 中田英寿、中村俊輔(横浜FC)、本田圭佑(ボタフォゴ)、香川真司(サラゴサ)と代々の日本代表エースが通ってきたU-20ワールドカップ(※2005年オランダ大会まではワールドユース、07年よりU-20ワールドカップに名称変更)。今の日本サッカー界では「出場して当然」という常識になっているが、93年のJリーグ発足までは簡単に出られる大会ではなかった。それ以前で日本が出場したのは自国開催だった79年大会だけ。アジア予選を勝ち抜くことは、相当に難易度の高いことだったのだ。

 このハードルを初めて超えたのが、95年カタール大会だ。田中孝司監督(現松江シティFC・GM)が率いたチームには中田、松田直樹、奥大介といった後のA代表メンバーがいた。チリ、スペイン、ブルンジと同組だった日本は1勝1分1敗の勝点4で2位通過。当時は出場国が16だったため、次のステージは準々決勝で、王国・ブラジルが相手。この大一番で日本は奥が先制弾を奪い、いきなりリードする。内容的にも互角以上の戦いを見せ、「ブラジルに勝てるかもしれない」という期待も高まった。が、大会MVPに輝いたカイオに2発を食らい、最終的に1-2で破れる形になった。それでも若い世代が強豪と真っ向勝負を演じ、8強入りしたことは、日本サッカー界全体の大きな弾みになった。その事実をまずはしっかりと認識してほしい。

 同チームの始動は93年夏の鹿島合宿だった。最初に指揮を執ったのは西野朗監督(タイ代表監督)。この時のワールドユース出場資格は「75年8月1日以降生まれ」だったため、候補メンバーには75年後半~76年前半生まれの選手が数多くリストアップされた。立ち上げメンバーの安永聡太郎(解説者)もそのひとり。彼は当時の状況をこう説明する。

「7月の鹿島合宿、8月のSBSカップは西野監督・山本昌邦コーチ(JFA技術委員会副委員長)体制だったけど、西野さんのアトランタ五輪代表監督就任が決まって、9月以降は田中監督・山本コーチ体制に移行しました。中心メンバーは伊藤卓(国士舘大コーチ)、大木勉、大塚真司(大宮コーチ)、山田暢久(イトゥアーノFC横浜監督兼選手)あたりで、中田や直樹が来たのは93年U-17世界選手権(日本)の後。今みたいなスカウティングシステムがなかったんで、高校総体や高校選手権で活躍した強豪校の選手がほとんどで、僕は同じ静岡のニッコ(西澤明訓=代理人)と行動をともにしてましたね。チームの合言葉は『史上初めてアジアを突破する年代になるんだ!』。昌邦さんが口癖のように言っていたのをよく覚えています」


 中田らが初合流した93年秋の合宿は招集メンバー40人程度の大所帯。ラージグループから選手を絞り込み、使える人間だけを残すのが田中監督の狙いだったのだろう。安永も戦々恐々としたようだが、そのままチームに帯同し、94年1月のダラスカップなどに参戦。5月の1次予選(静岡)、東南アジア遠征などを経て、9月の最終予選(94年アジアユース選手権)に向かった。4-4-2を基本布陣とするチームの完成度も高まり、アジア突破は十分可能だと見られていた。

 ところが、高温多湿・ピッチ状態劣悪のインドネシア・ジャカルタで、彼らは困難を強いられる。タイとの初戦を0-2で苦杯。最悪のスタートになってしまったのだ。安永は重要な一戦でまさかの先発落ち。同室の西澤とともに寝坊して練習を30分以上遅刻した罰を受けたからだった。得点力ある2人を外すのは田中監督も苦渋の決断だったに違いないが、日本は窮地に陥ってしまう。

 そこで次のバーレーン戦で安永をスタメンに復帰させたところ、早速ゴールという結果を残す。チームも2-0で初勝利し、やっと本調子が出てきた。その後、クウェートに2-0、韓国に1-0で勝利する。韓国戦は退場者が出る大乱戦となったが、キャプテン・伊藤の勇敢なプレーでチーム全体が落ち着き、彼自身のPKで勝ち切ったのだ。「あの時の卓はスーパーだった」と安永もしみじみ語っている。その後、大一番の準決勝・イラク戦では3-0と勝利し、悲願の世界切符を手にした。最終的にはシリアに破れて2位にとどまったが、最大の目標を達成することができたのだ。

「僕はバーレーン戦と準決勝・イラク戦で合計2点を取ったけど、得点感覚にはものすごく自信がありました。当時は清水商(現清水桜ケ丘)3年だったけど、年間300日は朝夕の練習で紅白戦をこなし、平均2~3点は取っていたので、年間にすれば600~700点は取っていたと思います。その自信を持って公式戦を落ち着いて戦えた。試合では必ず似たようなシチュエーションが起きるので、冷静にゴールを決めることもできました。ただ、プロになると高校の時ほどは紅白戦の数が多くないので、1つのチャンスを決める重要度は高まるものの、ゴール前での落ち着きや自信がなくなってしまう。僕にとっては、それは足かせになったと後々になって感じました」と安永は点取り屋の成長に必要なポイントを改めて強調していた。


 95年ワールドユースは4月。当初はナイジェリアで開催される予定だったが、衛生面などの問題で不可能となり、カタールで代替開催される運びとなった。コアメンバーは不変で、プロ入りしたばかりの安永、中田、松田もクラブで出番を得ていたため、本大会入りできた。が、西澤のように落選を余儀なくされる者もいた。逆に最終予選にいなかった奥や森岡隆三(清水エスパルスでアカデミー・ヘッドオブコーチング)らが招集され、ケガの田中誠(磐田スカウト)に代わって秋葉忠宏(水戸監督)も呼ばれた。最終予選からチーム編成は微妙に変わったが、一体感や結束力は依然として強かったという。

「卓が大学で調子を落として、大介が入れ替わる形で2列目に入ったんです。キャプテンもボランチのクマ(熊谷浩二=鹿島コーチ)に代わった。卓もいいリーダーだったけど、この時のクマはフェアな人柄がプラスに働き、みんなの人望もあったので、個性的な面々をよくまとめていましたね。最後のブラジル戦も正直、負ける気はしなかったし、全員が積極果敢にチャレンジしていた。いいチームだったんじゃないかと思います」

 こう述懐する安永自身も、ブルンジ戦で1点を挙げるなど好調を維持していた。しかし、スペインだけは「異次元の世界」に映った。ラウール・ゴンサレス、デ・ラ・ペーニャ、エチェベリア、サルガドら後のスペイン代表を背負う面々の凄さに度肝を抜かれた。

「結果は1-2だったけど、7~8割ボールを保持され、全く奪えない。取りに行った瞬間にかわされ、ボールに触らせてもらえないんです。あれは過去にない感覚だった。正直、打ちのめされましたね」


 スペイン戦の衝撃をもっと真摯に受け止め、努力していれば、もっと大成していたかもしれない……。安永のみならず、この大会に出ながら突き抜けられなかった選手の多くがそんな思いを抱いたことだろう。

「カタールの後、マリノスとの関係でスペイン2部のレリダのテストを受ける機会に恵まれ、レンタル移籍をさせてもらうなど、飛躍のチャンスはありました。だけど、僕はプロになるまで打たれたことがなかった人間。どこに行っても試合に出ていたので、プロになって初めて出られない困難にぶつかった。そこで壁を超えようとチャレンジするのではなく、人のせいにして、うまくいかない自分を正当化していたところがあったと思います。同い年の中田や直樹が五輪代表、A代表とステップアップしていったのに、自分はワールドユースという貴重な場を生かしきれなかった。世界大会に出ることより、その後も飽くなき情熱を燃やし続けられるかどうかの方がずっと大事なんだと思います」

 安永がそう感じた1つの好例が鈴木隆行(解説者)だ。鈴木は94年9月の最終予選直前の候補合宿に来たことがあったという。安永、西沢、大木の常連3人に加わった新たなFWは1人だけ技術的に見劣りする状況で、最終予選もワールドユースもメンバーには入れなかった。そんな彼が2002年日韓ワールドカップで日本最初のゴールを挙げる選手になるとは、一体、誰が想像しただろう……。

 やはり重要なのは、この世代が目指した「史上初のアジア突破」という結果ではなく、「その後のキャリア」なのだろう。世界への道をこじ開けてくれた95年カタール大会出場組が教えてくれることは少なくない。

取材・文●元川悦子(フリーライター)