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 野球界にかかわるさまざまな人々にスポットを当てる連載。今回は、独立リーグ・四国アイランドplusの高知ファイティングドッグスの監督を務めた駒田徳広氏が登場。読売巨人、横浜で「満塁男」として活躍し、通算2000安打も達成した名球会人に、独立リーグはどう映ったのか。監督という職業を4年間務めた中で“見つけたもの”を聞いた。

―前編はこちら―
独立リーグ監督として試行錯誤の4年間 駒田徳広が見た四国ILの「現在」と自身の「未来」<前編>

■歯がゆさの中で徐々に変化した「采配」と「大切なもの」

――独立リーグの監督を務めた4年間で「最高の結論には達していない」と伺いました。いろんな選手がいる中で、「もっとやれば」という歯がゆさがあった?

駒田 そうですね。もっとガツガツと一生懸命取り組めば上でやれるチャンスはあるのに、本人がそこまでの気持ちになれない。そこが歯がゆかったですね。打てなかったから、エラーしたから歯がゆいのではなくて、もっとやれば上に行ける可能性があるのに「やらないか…」という歯がゆさ。僕自身は「もっとやれば」ということを伝えてはいるつもりではいるんですけど、結局、選手は自分でやらないといけないですし、難しい面はありましたね。

――どこかで選手の“やる気スイッチ“を入れられればと?

駒田 そのスイッチがなかなか見つけられなかった。実際に何の練習をするのかという面でも、基礎のところをコツコツとやるのが大切だとは思うんですけど、選手自身が「やりたくない」、「もっと別の練習をしたい」となってしまいます。上に行くためには苦しいことをしないといけないですが、そこから逃げてしまって、その「苦しい部分をやる」というところに連れ戻すことがなかなか難しかった。

――4年間、独立リーグの監督を務めたことで、駒田さん自身の中で変化した部分はありますか?

駒田 僕はジャイアンツとベイスターズで野球をした。その中で、ジャイアンツでは「勝つことが大事」だけど、「どうやって勝つか」がもっと大事だということを学んだ。4番がバントをして勝つ。その部分に最終的に優勝に繋がる隠し味がある、と。それは他の球団にはない部分だったのかなと思います。

 その一方で、ベイスターズでは「勝ち方」ではなくて「自分たちの能力を最大限に発揮すること」が大事だと。思い切ってどんどん打たせることで自信を持たせることが成長に繋がり、個の力が大きくなることが優勝に繋がるという野球でした。どちらかというとベイスターズ的な考えを持って高知に行きましたけど、結果的にはバントを多くするようになった。

――試合中の采配が変わった。野球に対する考え方が変わったということでしょうか?

駒田 例えばヒットエンドランで空振りばかりする選手、3回連続空振りして三振ゲッツー。その選手が真剣にチームのことを考えれば、何がなんでもボールをバットに当てて、最低でも走者を進めないといけない。技術的なことはいろいろあっても、考えとしてそこにたどり着かないといけない。

 そういう時に、最初は「できないことはやらせない」、「できないことをやらして失敗して怒るのはナンセンスだ」という考えだったんですけど、次第に「できるまで何回でもやらせよう」と思うようになった。実際、最後にはその選手が詰まりながらも内野ゴロを打った。最初は「ベイスターズ的な」野球を目指していたんですけど、徐々に「ジャイアンツ的な」要素が加わっていった。

 要するに、目の前の試合に勝つだけじゃなくて、ここでチームのために一生懸命にやること、その姿勢をみんなに見せることが、その選手のその後の野球人生や、それだけじゃなくて野球を辞めた後の人生にも関わってくる。

 自分がこういう意思を持って、こういうことをやっているんだということをちゃんとアピールできないと、単に失敗して「自分はバントできない。ダメです」って不貞腐れていても、何の役にも立たない。勝つことと同じくらい、「4番にバントをさせる」というのが大切に見えてきた。だから時間が経つにつれて、采配面ではバントとかエンドランとか、細かい作戦が増えましたね。

■辿り着いた「人間教育」から“次”を目指して

――野球をする上で何が大切だと?その考えが変わっていった?

駒田 野球の基本ってなんだって、よく聞くんですけど、僕が思う野球の基本というのは、「木や金属のバットで思い切り打たれたものを捕るのは無理」ということ。その代わりに「人の手から離れたものは絶対に捕る」こと。

 それが一番の基本だし、大事なことだと思っています。要するに、味方からの送球をポロっと落としたら絶対にダメだということ。仲間が投げたボールは何が何でも、体を張ってでも止めるということ。

――実情として、そういう基本ができていない選手も多い?

駒田 それができないところに、高校や大学で控えに甘んじた理由があったり、大学の途中で辞めてきて独立リーグに来たりした理由、中途半端な存在だったという理由があったんじゃないかと思う。選手個々の技術を伸ばしてNPBに送り込むということも大切ですけど、それ以上に一人の選手としていかにチームのために頑張れるか。

 一人の人間として、目の前の困難から逃げないこと。それができれば、野球を辞めた後にどこかの会社に就職しても、一つ筋の通った男として活躍してくれるんじゃないかなと。独立リーグはそのための準備期間でもあるのかなと思います。だから最後の方は野球そっちのけになっていましたね。

――野球を突き詰めれば、いわゆる「人間教育」というものが辿り着く?

駒田 僕に「人間教育」って言われると嫌がる子もたくさんいると思うけど、そういうところは大切だし、僕自身の中でどんどん大きくなって行きましたね。一人の人間としてどういう考えを持って、周りの人のために頑張ることができるか。でもそうなると野球そのものからは離れていってしまうので、なかなかバランスを取るのが難しかったですね。

――大切な4年間だったと思いますが、まだ57歳です。「野球人・駒田徳広」として、これからできること、やってみたいことは?ご自身の今後のプランは?

駒田 今はぜんぜん何も考えていないですね。何か面白いことがあればやっていきたいというぐらいに思っています。そういう意味では今、自分のことを話していることも面白くなって来ていますし、将来的に人間教育という部分で学生たちを指導したいと思うかも知れない。

 もちろん話をもらえたらですけど、もしそうなったら命を張って、熱中症で倒れない程度に頑張りたい(笑)。僕自身、若い頃から何かを身につけたり、気が付いたりするのに人の何倍も時間がかかるタイプの人間です。だから、この4年間でようやく気が付いたこともあります。何をするにも人より時間がかかると思いますけど、また次、「こうやれば楽しいんじゃないかな」というものを見つけたいと思います。

▼プロフィール
駒田徳広(こまだ・のりひろ)/1962年9月14日生まれ、奈良県出身。
桜井商業高ではエースで4番。
1980年秋のドラフトで読売巨人から2位指名を受けてプロ入り。
3年目の1983年にプロ初打席初本塁打を放つと、以降は類い稀な勝負強さと長打力でチームの主力として活躍し、1994年には横浜にFA移籍して「マシンガン打線」のポイントゲッターとして1998年の日本一に貢献。
「満塁男」の異名を取る一方で、ゴールデングラブ賞を一塁手として史上最多の10回受賞。
2000年に通算2000安打を達成して現役を引退。
2005年に東北楽天、2009年に横浜のコーチを務め、2016年から4年間、四国IL・高知の監督を務めた。

取材・文/三和直樹