Jリーグが中断中のなか、「DAZN」では「Re-Live」と称して過去の名勝負を放送中だ。現在配信中の1995年のJ1セカンドステージ第1節、名古屋グランパス対ジュビロ磐田で解説を務めた中西哲生氏に、このシーズンからアーセン・ヴェンゲル監督が指揮を執った名古屋のエピソードを伺った。後にアーセナルで歴史に残る長期政権を築いた名将は、前シーズンを最下位で終えたチームをいかにして改革したのか――。

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――ヴェンゲル監督の第一印象は?

「サッカーの監督っぽくないなと。学者のような感じですね。今はそういう監督もいるかもしれないですが、当時は珍しかった。あとは、もの凄く大きい人だなという印象でした」

――ヴェンゲル監督が来て、トレーニングはどのような点が変わった?

「全部ですね。はたから見てたら、普通のトレーニングかもしれませんが、やっている僕らとしては全く違うという感覚でした。それまでは与えられたメニューをこなしてくイメージでしたが、トレーニングをする前に意図を説明してくれるんですよ。選手はボールを使わない素走りが好きじゃないんですが、『走らなきゃダメなんだな』と納得したうえで、やっていました。なぜ今このトレーニングをする必要あるのかをちゃんと説明してくれて、納得しながら練習をするのはすごく重要なんだと感じさせられました。分かりやすい言葉で言うと、やらされるトレーニングではなく、自主的に取り組むトレーニングというイメージですね」

――食事などピッチ外のルールも厳しかった?

「めちゃくちゃ厳しかったですね。まず食事については、好きなものを食べるのではなく、論理的に食事が決まっていました。単に栄養学という観点だけじゃなくて、トッププロがどういう食事をするべきなのかを事細かくチームスタッフに指示をしていた。ただ、これは後からわかった事なんです。

 引退してから、ヴェンゲルの下で勉強させてもらうために、アーセナルに行った時に、彼や選手たちと食事をしていたんです。その時に、ヴェンゲルが連れてきたシェフから色々話を訊いたんですが、こういう意図があるからこんな食事にしてくれと指示が出ていると言っていました」


――選手の知らないところで気を配っていたわけですね。

「ヴェンゲルの言葉を借りれば、『ビジブル』という見えてる部分だけでなく、『インビジブル』という見えてないところの過ごし方で個人の資質が問われる、と。ヴェンゲルの右腕としてボロ・プリモラツというヘッドコーチがいたんですが、ボロもそういうことをよく言ってましたね。『お前ら、見てないって思ってるかもしれないけど全部見てるぞ』みたいな感じで。

 非常に細かく選手たちの事を観察していて、誰と誰が仲が良いという事を気にしていた。そういう点も考えながらトレーニングの時にどういうメンバーを組むかとか、試合の時の組み合わせとかも気にしていたようですね。もちろん性格だけではないですが、ありとあらゆることを総合して決めてたんだなというのはよくわかりましたね」

――当時のチームのキャラは?

「真面目でしたよ。とはいえ、小倉(隆史)、岡山(哲也)、平野(孝)あたりは若いから元気でしたが、逆に浅野(哲也)さんや伊藤(裕二)さんはすごく落ち着いてました。あとは僕や飯島(寿久)、森山(泰行)、小川(誠一)らへんが中堅で、若手とのコミュニケーションをとる感じだったかな」

――ドラガン・ストイコビッチ選手はロッカールームでも王様だった?

「いや、そんなことは全く無いです。むしろギャーギャー言うタイプではなかったですね。特にヴェンゲルになってからは、彼自身のメンタルコントロールができているなと。僕は英語が話せるので、ストイコビッチとよくコミュニケーションをとっていたんですが、日本に来た当初は、全てにおいて苛立っていた感じでした。それが、ヴェンゲルが来てから劇的に変わったという感覚でしたね」

――ヴェンゲル監督はストイコビッチを特別扱いしなかった?

「逆に、みんなの前で謝れと言ったりしていましたね。レッドカードをもらって試合に出られなくなったりしていたんで。ストイコビッチも納得していました。このシーズン、最初の8試合で1度しか勝てなかったんですが、それもストイコビッチの退場が絡んだりしていたんですよ」

――その序盤の不調の原因は?

「試合の内容を見ると、明らかに今までとは違うという感覚はあったんですが、うまく嚙み合わずに、悪くはないのに結果がついてこなくて。時間も足りなかった。1月末に始動してたったの2か月ですからね。去年までのトラウマもあったし、その頃は自分たちの自信のなさが試合で出てた部分もあった」


――劇的に良くなったキッカケは?

「(第1ステージの中断期間中の)6月にフランスに合宿に行ったのが大きかったですね。初日にいきなり(ヴェンゲルのモナコ時代の教え子だった)ジョージ・ウェアが来て、一緒に昼食を食べて。95年だから、ちょうどバロンドールを獲った年ですね(その年の夏にパリ・サンジェルマンからミランに移籍)。もうキレキレの時ですよ。ヴェンゲルから一言喋れと言われて、ウェアが『ヴェンゲルは父親みたいな存在だ。この人の言う事を聞いてれば大丈夫だ』と言われて、『すげぇ人なんだ』みたいな。当時は日本にいたら、わからないじゃないですか。いまみたいにインターネットが普及していたわけじゃないし、その頃の海外サッカーの情報は『サッカーダイジェスト』や『サッカーマガジン』から仕入れるしかなかったので。

 チーム全員でパリ・サンジェルマンの試合を観戦しにパルク・デ・プランスに行った時も、ヴェンゲルやピクシー(ストイコビッチ)、(フランク・)デュリックス、(ジェラール・)パシは、みんな顔パスなわけですよ。パリのサポーターも、『ヴェンゲルだ!』『ストイコビッチだ!』『デュリックスだ!』と大騒ぎで、度肝を抜かれたというか、やはりすごい人たちなんだな、と。改めて、この人たちついて行けば大丈夫なんだと、実感しましたね」

――まだ結果は出ていませんでしたが、確信が持てたわけですね。

「そのヴェルサイユ合宿は環境も良くて、練習内容も充実していた。戦術的な確認やフィジカル的な追い込みも良い形でできて、チームが成長できた。それで、中断明けから結果も徐々に伴ってきて、結果を出せるチームになった。その後、第1ステージでは(10試合で)1回しか負けていなかったんじゃないかな」

――戦術的にはどういうスタイルだった?

「まず守備については、すごくオーガナイズされていた。マンツーマンとゾーンの併用なんですが、優先順位が何なのかをちゃんと示してくれていた。マンツーマンだったらもちろん自分のマークに付いてる相手が最優先なんですが、ゾーンだったらボールの位置、味方の位置だったりするので、味方との距離感やボールの位置によって、どうポジショニングをとるかを、わかりやすく論理的に説明してくれていた。

 なので、守備の部分に関しては構築が早くて、フランス合宿の前から納得した状態でやれていた。ただ、いかんせん結果が出てなかった。時間帯によって漏れがあったり、ゾーンの時の意識の個人差があったりして、選手間に溝ができてしまってそこを突かれるという事があった。合宿でそのあたりが、修正できたと思います」


――攻撃面ではどのような指示を受けていた?

「攻撃に関しては、かなりヴェンゲルも苦労しているようでした。守備に比べると、指示が比較的曖昧というか、ボール持った時にどうしろと決めてしまうと、チームや個人のクリエイティビティを削いでしまうという考えで、そこに関してはフリーマインドでやってくれとよく言っていたんです。普通に考えたら当たり前の事なんですけど、僕らも負け続けていたので、どうしたらいいか、ある程度の指針がほしかったんですよね。日本人ってそういう部分があるじゃないですか。

 ヴェンゲルにとっては、その指針自体が必要ないものという認識だったと思うんです。ヨーロッパでは、逆にフリーマインドでやり過ぎるから制限する感覚ですよね。彼がよく『リスペクト・ザ・ゲーム』という話をしていたんですよ。『試合でその瞬間に自分がやりたい事をやるのではなくて、その瞬間に望まれている事を表現しろ』みたいな。その時は、全然意味がわからなくて。リスペクトだから謙虚な気持ちで試合に臨むというニュアンスぐらいにしか捉えていなかったんです。

 後にアーセナルに行った時に、改めてヴェンゲルと話して、ようやく意味を理解しました。要は『自分がやりたい事じゃなくて、客観的に見て、例えばスタジアムの観客があそこに出してほしいと思った時に、そこに出せる選手であれ』というような意味で、ゲームの原則を理解した上で、客観性を持ってプレーしろ、ということが言いたかったんです。ただ、当時の僕たちにはうまく伝わっていなかった」

――それが、どのように噛み合っていったんですか?

「伊藤さんと浅野さんがどういう風に攻撃したらいいんだろうと、話をしに行ったんです。ヴェンゲルの中でも、もうある程度の指針というか攻撃の基本原則を示したほうが良いと思いはじめていたんでしょうね。これがヴェンゲルの言葉で僕が一番好きな言葉なんですけど、『パスは未来に出せ』と言ったんですよ。その後に「決して現在でも過去でもなく」という言葉が続くんですけど。現在というのは横パスで、過去はバックパス。未来は前にパスを出すってことなんです。よくそういう表現をする人で。

 彼はフランス人ですが、通訳が英語だったから英語で話していたんですが、その言葉を聞いた瞬間に言葉をすごく腑に落ちた。すごく大きい言葉でしたね。そこから、みんながパスを前に出すようになって劇的にチームが変化したんですよ。究極を言えば、インターセプトしたボールがスルーパス、ラストパスみたいな、ボールを奪うのとシュートが一緒になるみたいなイメージですよね。その後も、ヴェンゲルと細かな点を直接話しました。僕はボランチをやっていたので、ボールを奪った瞬間に自分のファーストタッチがそのままストイコビッチに入るボールだったらそれが最高だと言われましたね」


――その言葉で共通理解が生まれたわけですね。

「そこからもう簡単です。2トップにストイコビッチと小倉がいるので、みんなボールを奪ったら、まずボールを預ける。二人とも技術が高く、ボールを取られない。ただ、それより前に人はいないので、『他の選手が二人を追い越さなきゃいけない』ということに気づくんです。それで攻撃が一気にダイナミックになった。当時のゴールシーンを見たら、ストイコビッチと小倉がボールを持った瞬間に、両サイドの岡山や平野など他の選手が走り出して二人を追い越してるシーンが多いと思います。しかも、追い越した選手にピタリとパスが合うんです。走っている選手にパスが合えば崩せるという基本原則が分かったのは大きかったですね」

――そのなかで、中西さんの役割は?

「ダブルボランチの片方が、マネジメントをするという感じでした。基本的に浅野さんとデュリックスだったので、浅野さんがマネジメントをしてデュリックスが前に出るという縦のバランスでした。僕が入れば、そのマネジメント役をして飛び出すというよりは抑え気味にいくみたいな。

 途中から入る事が多かったので、勝っている時は、ディフェンスラインの前で蓋しててくれ、ワイパーのように敵のフォワードに直接ボールが渡らないようなプレーをしてくれという事を言われました。ただ、チャンスだったら、前の選手を追い越して出て行ってもいいよ、と。もうこれ以上追加点がいらない状況だったら出る必要はないですけど、1点リードのようなケースでは、チャンスがあったら出ろと指示されていました」

(後編に続く)

取材・文●江國 森(サッカーダイジェストWeb編集部)
協力●DAZN