2020シーズンでプロ35年目を迎えた、カズこと三浦知良。彼がプロフットボーラーとして第一歩を踏み出したのはサッカー王国ブラジルであるのは誰もが知るところだろう。ではカズは実際、現地でどのようなプレーを見せていたのか?
 7月4日のJ1再開を前に、その奮闘を目撃していたブラジル在住のライター沢田啓明氏に全5回シリーズで記してもらった。第4回はブラジル時代の若きカズを支えた人々に話を聞いた。

「フットボール王国ブラジルで、プロになる」

 こう誓って、1982年末、15歳10カ月で地球の反対側へ降り立った。それから3年余り、小クラブの下部組織でがむしゃらに練習に励んだ。

 19歳になる2日前、名門サントスと念願のプロ契約を果たす。しかし、出場機会をほどんど与えてもらえず、武者修行のため地方へ--。幾多の試練を乗り越え、選手として、また人間として大きく成長した。

 満を持してブラジルのフットボールの最激戦地へ戻り、強豪コリンチャンス相手に初ゴールをあげた。

 コリチーバを経て、サントスに再挑戦。今度は絶対的なレギュラーとなり、ブラジル代表に匹敵するレベルに到達した。

 そして1990年7月、7年7カ月に及んだ冒険に終止符を打つ。15歳のあどけない少年が23歳の逞しいプロ選手へと変貌を遂げ、Jリーグ開幕前の祖国へ凱旋したのである。

 カズのブラジルでの青春時代は、どのようなものだったのか。また当時、現地で触れ合った人々は彼をどう見ていたのか。

 到着直後の1984年初めから約1年半、サンパウロ市内のジュベントスのU-17でプロを目指す同世代の若者たちと競い合った。当時、フットサルの監督を務めていたオリヴェイラ氏は、カズのことを今も鮮明に覚えている。

努めて明るく振る舞おうと。

--第一印象は?

「小さくて、ほっそりしていた。遠い外国へ来て不安なことが多かったはずだが、努めて明るく振る舞おうとしていた」

--ポルトガル語は?

「全くできなかった。だから、受け入れたこちらも困ったよ(笑)。何を聞かれても、『シン』(はい)と答える。それで、チームメイトや寮生からよくからかわれていた」 

--生活ぶりは?

「クラブが近所の大きな一軒家を借り上げて選手寮にしていて、そこに住んでいた。大部屋の二段ベッドで蚤やダニに体中を食われ、苦しんでいたな。ボリボリ掻くので体中が真っ赤になっていて、それもまたからかいの種になっていた。

 日本から持ってきた貴重な所持品を誰かに盗まれ、泣きそうな顔をしていたこともあった」
 
--食べ物は口に合ったのでしょうか?

「食事に関しては、全く問題なかったようだ。ブラジルの一般的な食事は米(オリーブオイルと塩を入れて鍋で炊く)、ステーキ、野菜サラダ、フェイジョン(インゲン豆をニンニク、胡椒でなどで味付けしてスープ状にしたもの)なんだけど『おいしい』と言って喜んで食べていた」

フットサルで跨ぎフェイント習得。

--当時の選手としての実力は?

「同年代のブラジル人選手と比べると、テクニックはまずまずだったが、フィジカル能力では格段の差があった。

 当時のジュベントスには、同世代のトップの選手が集まっていたわけじゃない。それでもかなりの差があったから、相当ショックを受けていたようだった」

--ブラジルでは、育成年代ではフットボールと並行して必ずフットサルをやり、テクニックと判断力を磨きますね。カズは、フットサルはどうでしたか?

「日本ではやったことがなかったようだが、一所懸命練習して、メキメキ上達した。彼が得意とする跨ぎフェイントも、フットサルをやっていて覚えたんだ」

--練習態度や意欲はどうでしたか?

「誰よりも練習していたよ。ブラジルで絶対にプロになる、という強い気持ちが感じられた。遠い国からやってきて、健気に頑張っている姿を見て、最初はからかっていた悪童たちが、次第に彼のことをを認めるようになった。

 言葉が少しわかるようになると、皆とすっかり仲良くなり、いたずらをされたらやり返していた(笑)」

若い選手にもカズを見習え、と。

 1984年9月、カズはサンパウロ州内陸部にあるキンゼ・デ・ジャウー(以下、キンゼ)のU-20に加わる。

 キンゼも小クラブだが、選手育成には定評がある。リヨン、バルセロナなどで活躍してブラジル代表に選ばれ、2002年ワールドカップ(W杯)で優勝したDFエジミウソンも、このクラブの出身だ。

 当時の会長パウミーロ氏は、饒舌にカズの思い出を語ってくれた。

--どんな少年でしたか?

「ポルトガル語はまだあまりよくわからなかったが、素直で明るい子だった。みんなから好かれていた」

--練習中の様子は?

「いつも練習場に最初に来て、最後に帰っていた。チーム練習が始まる前も終わってからも、ドリブル、クロス、シュートなどを繰り返し練習していたんだ。絶対にプロになって成功するんだ、と心に決めているようだった」

--その後のカズをどう思いますか?

「名門中の名門サントスでレギュラーとなり、日本へ帰ってからもビッグクラブで活躍し、日本代表にも選ばれて中心選手となり、50歳を過ぎた今でもプレーしているのは本当に素晴らしい。

 我々にとっても、彼のようなクラブのOBがいることはとても誇らしい。若い選手には、『カズは地球の反対側から来て大変な努力をして、あれだけの選手になったんだ。彼を見習え』といつも発破をかけている(笑)」

「W杯でカズダンスを披露する資格が」

 最後にパウミーロ氏は少し思い詰めたような表情を浮かべ、「日本のフットボール関係者に言いたいことがある」と自ら切り出した。

「カズの夢は、日本代表の一員としてワールドカップに出場することだった。しかし、あれだけ日本のフットボールの発展に貢献し、日本代表でも活躍したのに、ワールドカップの舞台には一度も立てていない。

 これは、どういうことなんだろう。全く理解に苦しむ。彼の心情を思うと、私は胸が張り裂けそうになる。

 あれほど日本のために頑張ってきた男が、そんな仕打ちを受けていいはずがない。彼には、ワールドカップに何度も出場して、自分の得点で日本代表に見事な勝利をもたらし、世界中の人々の前で、笑顔でカズダンスを披露する資格があったはずだ。私はそう信じて疑わない」

どんなに削られても試合を休まない。

 1986年2月、名門サントスとプロ契約を結んだが選手層が厚く、ほとんどプレーさせてもらえない。出場機会を求め、南部パラナ州のマツバラへ移籍した。 

 カズがプロになってからのほぼ全試合を取材したのが、サンパウロ在住のカメラマン、西山幸之さんだ。

--マツバラで、カズはかなり苦労したようですね。

「クラブがあるカンバラは、人口2万人ほどの田舎町。娯楽が何もない。気分転換ができず、つらかったようだ。

 左ウイングのレギュラーになったんだけど、跨ぎフェイントなど派手なドリブルをするので、徹底的に削られた。一発退場が当然の無茶苦茶なファウルを受けても、審判がイエローカードすら出さないんだ。だから同じ試合で、同じ選手から繰り返しやられていた。試合が終わると、いつも体中があざだらけだった。

 でもカズは大きな故障をしないし、少々の怪我では試合を休まない。本当に根性があるな、と舌を巻いた」

--パラナ州は広いから、州選手権では移動も大変です。

「飛行場がないような小さな町でも試合をするから、たいていバスで移動する。10時間以上かかるのはザラ。夜通しバスに乗り、試合当日の朝に着いて午後試合、ということもあった。

 大変だったと思うけど、若かったから耐えられたんだろうね」

--若手プロだった頃から、「将来は日本代表に入り、ワールドカップに出場する」という夢を持っていたようですね。

「マツバラ時代だったかな。当時カズが住んでいたホテルの部屋を訪ねたら、直立して右手を胸に当て、大声で君が代を歌っていた。

 何やってるんだ、と聞いたら『代表に入った時の予行演習をしてるんです』って答えるんだ。そんな練習をする必要があるのか、と言ったんだけどね(笑)」

まさかストライカーに変身するとは。

--北部のCRBでの様子は?

「クラブが本拠を置くマセイオには、きれいなビーチがたくさんある。練習が午前中だけのときは、午後はビーチでくつろいでいた。マツバラと違って開放的な都会で、生活も楽しめていたんじゃないかな。

 試合で活躍して、地元では大変な人気者だったから、本人も気分が良かったと思う」

--ブラジル時代のカズから、彼が日本へ帰ってからの姿を想像できましたか?

「全然(笑)。純然たるチャンスメーカーからストライカーに変身するとも、日本代表に入るとも予想していなかった。大変な努力と並外れた根性が、不可能を可能にしたんだろうね」

田原俊彦とシャネルズが好きで。

 ブラジルに滞在した8年近くの間、時間ができればサンパウロの東洋人街リベルダーデを訪れて気分転換をした。その際、必ず立ち寄った場所がある。リベルダーデの中心部にある木村光子さんの理髪店だ。

 木村さんは熊本出身で戦後、ブラジルへ移住。苦労の末、自分の店を構えた。カズにとって、「ブラジルのお母さん」のような存在だったようだ。

--素顔のカズは、どんな若者でしたか?

「明るくて、とってもいい子。田原俊彦とシャネルズが好きで、歌いながら、踊りながら店へ入ってきたこともあった(笑)。

 ファッションや髪形にかなり気を使っていてカッコいいので、女性の従業員から人気があった。みんなカズの髪を切りたがっていたけど、あるとき、ひとりの従業員が頭の横を刈りすぎて彼が少し不機嫌になったの(笑)。それ以来、いつも私が切っていた」

--修行中や若手プロ時代、かなり苦労したようです。

「そうでしょうね。日本とは言葉、食事、気候、習慣、考え方などすべてが全く違うから。

 サッカーでも苦労したんだろうけど、カズちゃんはそれを絶対に人に見せなかった。つらいことがあっても、いつも明るく振る舞う。この子はすごく根性があるな、他の若い日本人とは全然違うな、と思った。

 私はサッカーのことは全くわからないけど、あれだけ強い気持ちがあって、人一倍努力したら、何をやっても成功しないはずがない、と思っていた」

「またブラジルに戻ってくるかも」

--1990年7月に日本へ帰る前、カズは何と言っていましたか?

「『おばさん、僕、日本でもやっていけるかな』って私に聞くの。『カズちゃんなら絶対に大丈夫よ』って答えたんだけど、『もし日本でうまく行かなかったら、またブラジルへ戻ってくるかもしれない』なんて言って、少し不安そうだったた。

 長いつきあいだったから、私にだけ本音を言ってくれたのかしら」

--カズが日本へ帰ってからも、交流があったようですね。

「ブラジルの永住権を更新するため、2年に一度、サンパウロへ戻ってきて、その度に店へ顔を出してくれた。すごく義理堅いのよ。結婚したときは奥さんを連れてきて、紹介してくれた。本当に嬉しかった」

人間としての核ができた7年7カ月。

 10代中頃から20代初めまでの多感な時期を、ブラジルで過ごした。

 すべてが異なる国での生活、フットボール王国の巨大な壁、孤独、挫折といった数々の困難に直面した。幾度も絶望を味わい、人知れず涙を流した。

 それでも、決して諦めることなく、ひとつひとつ障害を乗り越え、ブラジル人が驚くほどの成功を収めた。このような土台があったからこそ、その後、日本のフットボールの歴史を大きく塗り替えるほどのキャリアを築くことができたのだろう。

 ブラジルでの7年7カ月で、カズの選手として、人間としての核が形作られたのは間違いない。

 その一方で、彼は地元の人々に忘れがたい印象を刻み付けた。カズにまつわる記憶は、今もブラジルに生き続けている。

(最終回は14日配信予定)

(「熱狂とカオス!魅惑の南米直送便」沢田啓明 = 文)