ヨハン・クライフが68歳で亡くなったのは、今から4年前の3月24日だった。

 サッカーの歴史は、クライフ前とクライフ後でふたつに分けられる。

 正確に言えば、「トータルフットボール出現前と出現後に分かれる」のだが、トータルフットボールをピッチ上で体現していたのがクライフであるのだから、「クライフ前とクライフ後」と言っても支障はないだろう。

 それはたとえばコペルニクスによって天動説から地動説に認識が転換したように、またニュートンやアインシュタインによって世界認識の在り方が劇的に変転したように、トータルフットボールはサッカーの在り方そのものを変えたのだった。

 もともとはリヌス・ミケルス(1965~71年アヤックス監督、1974年オランダ代表監督)のアイディアであり、後を継いだステファン・コバチ(1971~73年アヤックス監督)が完成させた。その意味ではクライフを加えた3人の共同作業であったともいえるが、クライフという存在なしにはあのような形で実現できなかったという意味で、クライフは象徴的な存在だった。彼のインスピレーションとイマジネーション、卓越したビジョンがあってはじめてトータルフットボールは命を吹き込まれたのだった。

 そのクライフを、ペップ・グアルディオラが語っている。

『フランス・フットボール』誌3月24日発売号でフィリップ・オクレール記者が書いているのは、ペップが絶対無二の師と仰ぐクライフへの賛辞の数々である。

『ザ・ガーディアン』紙のドン・マクリー記者の好意と特別な協力で、グアルディオラの語った内容の記事掲載が実現した。

 普段は聞くことができないペップの言葉を、読者の皆さんもじっくりと味わってほしい。

監修:田村修一

インタビューは受けないが、クライフなら語る。

 2016年にヨハン・クライフが逝去した数カ月後、ジャーナリストたちの小さなグループが彼の死後に出版された自伝『マイターン』の刊行を記念した集まりでロンドンのホテルに招待された。

 そこでジャーナリストたちを待っていたのは、彼らの予想を超えたゲストだった。クライフの最高の弟子であるペップ・グアルディオラその人で、インタビューは受けないという自身の原則に背いてまでペップは師のために駆けつけたのだった。

 この神への感謝とも言うべき彼の行為を「インタビュー」と厳密に定義できるかどうかはさておき、以下はグアルディオラがクライフについて語ったコメントである。

    ◇    ◇    ◇    ◇

 彼という存在なくしては、私がここにいることはなかった。

 バルセロナとバイエルン・ミュンヘンの後、マンチェスター・シティの監督になることができたのも、ひとえに彼のおかげであるのは間違いないし、それは良く分かっている。

 彼がやって来るまで、バルセロナには「サッカーのカテドラル(聖堂)」とでも言うべきものは存在しなかった。それが建てられたのは、礎石のひとつひとつをたった1人の人間、ヨハン・クライフという人間が積み上げたからだった。

 だからこそ彼は無二の存在であり、本当の意味で唯一無二だった。彼が成し遂げたすべてを私が成すのは不可能だ。

われわれの遥か彼方に彼はいる。

 あなた方は、私がこう評価されているのを聞いているかも知れない。

「ペップ、君は本当に素晴らしい監督だ」と。

 でもそれは忘れて欲しい。

 クライフこそが最高の監督であるのだから。

 われわれの遥か彼方に彼はいる。彼が作りあげたのはこれまでのサッカーの歴史上最も難しいものであり、誰もがそれを信じて追いかける目標となった。まさに、それこそが信じられないことなのだ。

まず選手を極限まで努力させる。その後で庇護する。

 バルセロナの監督に就任した際に、私は何度も彼のもとに足を運んだ。

 とりわけすべてのタイトルを獲得(=2009年。バルセロナはチャンピオンズリーグとリーガ、国王カップ、スペインスーパーカップ、ヨーロッパスーパーカップ、クラブワールドカップに優勝)した監督1年目は、頻繁に会いに出かけた。どれだけ感謝していたか、彼にも分かってもらえていたらと、心から願っている。

 監督時代の彼はとても厳しかったが、ひとたびチームの中に入ると信じられないほどに選手をかばった。

 まず選手を極限まで努力させる。

 その後で庇護する。

 選手を造形する彼の技術は卓越していた。それこそ名人芸といえるものだった。それぞれの成長段階で彼は、どうすれば最高になれるかをしっかりと理解させた。私もまた彼から最高になる術を教わった。その結果、常に上を目指し続ける今日の私があるといえる。

 ただ、成功を渇望するのはまた別のことだ。

 成功したいという思いはサッカーの世界では誰もが持っている。でもクライフは違っていた。彼が到達したのはもっと先の地点だった。彼は渇望の質を変えた。進歩するために何を考えるべきかを彼は知らしめた。私は大声でよくこう言われた。

「左足で(ボールを)コントロールしろ!」と。

 というのも当初私は右足でしかコントロールできなかったからだ。彼が両足を使えるようにしてくれた。だから私も今は、自分の選手たちに同じことをしている。

 彼はそれほどまでに卓越していた。

サッカーは世界で最も難しいスポーツだ。

 監督になりたいと思ったときには何度も彼に電話した。クライフに出会う前の私は、サッカーのことを何も知らなかった。少しは知った気になっていたが、彼と一緒に仕事をするようになって新しい世界が開けた。ヨハンは私たちがプレーを理解するのを助けてくれた。

 サッカーは世界で最も難しいスポーツだ。なぜならオープンなスポーツで、すべての状況がひとつひとつ異なっていてひとつとして同じものはないからだ。そんな中で瞬間瞬間に判断していかねばならない。どうすれば正しい判断ができるかを彼が教えてくれた。

彼はふたつのクラブを大きく変えた。

 サッカーの歴史の中で彼ほどの影響力を与えた人物は他にいない。
 

   ひとつのクラブを変えただけではない。彼はふたつのクラブを大きく変えた。それも選手と監督の両方で。そんなことを成し遂げた人物を私は他に知らない。

 OK、たしかにアヤックスがチャンピオンズカップに優勝(初優勝は1971年)したときの監督はリヌス・ミケルスだった。だが、選手はヨハンだ。

 彼がバルセロナにやってきたとき、バルサはビッグクラブではあったが固有のサッカー文化を持ってはいなかった。アルゼンチン人の監督(セサルルイス・メノッティ)がアルゼンチンスタイルを植えつけ、続いてドイツ人監督(ウド・ラテック/グアルディオラの誤解でメノッティとラテックは順番が逆)がドイツスタイルを実践した。

 その後、監督として復帰したヨハンはこう言った。

「君たち、もう分かっただろう。どうプレーすればいいかを」

絶大なカリスマ性と強固なパーソナリティ。

 彼は何もないところから何かを作り出した。

 それには絶大なカリスマ性と強固なパーソナリティが必要で、「君らはこうやれ」と言う彼の言葉に誰もが従ったのも、彼にはそのふたつがあったからだ。そこまでの人間はほとんど稀有と言っていい。

 私がこれまでに出会ったコーチやマネジャーの中で彼は最も勇敢だった。

重要なのは新しい世代にどれだけの影響を与えたかだ。

 人々はよく誰が最高の監督か、どのトロフィーが最も素晴らしいかを語ろうとするがそれは間違いだ。

 最高の監督たちは多くのトロフィーを獲得する。それは彼らがトップの選手たちを揃えたビッグクラブを指揮しているからで、最も重要なことはそれではない。

 何よりも重要なのは新しい世代にどれだけの影響を与えたかだ。

 アヤックス監督時代のクライフは、ファンバステンやライカールトらに大きな影響を与え、彼らはやがて監督として大きな足跡を残した。それはバルセロナでも同じで、多くの選手たちが後に指導者になった。

 私たちに与えた影響は本当に計り知れない。

 だから、彼を他人と比較することなど不可能なのだ。

 彼こそ唯一無二の稀有な存在なのだから。

(「フランス・フットボール通信」フィリップ・オクレール = 文)