2016-17シーズンをもってローマ一筋のキャリアに幕を閉じた元イタリア代表FWフランチェスコ・トッティが、かつてレアル・マドリーに移籍する可能性があったことは良く知られている。本人によると、ほぼ合意に達していたという。

 トッティはスペインのサッカー専門誌『Libero』で「80%の確率でマドリーに向かっていた。当時、ローマではちょっとした衝突があったんだ。フランコ・センシ会長は本当に自分のことが好きだったんだけどね」と話している。イタリア紙『Corrire dello Sport』などが伝えている。

「マドリーは自分の移籍のためにあらゆることをしてくれるはずだった。あらゆることを、だ。例外は、ラウールのものだったキャプテンマークだけだよ。彼はほかのだれよりも稼がなければいけない選手だった。シンボルだったからね。だから、マドリーに行く選手は、誰であっても彼より少ない稼ぎでなければいけなかった」

 さらに「2004年にローマとの契約が満了となるところで、会長といくつか問題があった。個人的なこと以外でね。そしてマドリーがあらゆる金額を出す用意をしてくれたんだ」と続けたトッティは、当時の心境を赤裸々に告白している。

「かなり考えたよ。イラリー(夫人)はマドリード行きを後押ししていた。すべてを捨てて、ついてきてくれるとね」

 だが、周知のようにトッティはローマに残った。そして、スパイクを脱ぐまで故郷でプレーした。

 その理由を問われた元イタリア代表FWは、「サポーターや友人、家族に対する心の選択だった」と答えている。

「マドリーやバルセロナバイエルンといったクラブを移るほかの選手たちとは違うことをしたかった。強い選手であるだけでなく、たったひとつのユニホームだけで続けるから、ほかと違ったんだ」


 ローマ愛を貫いたからこそトッティは誰からも愛されたといえる。だが、代償は小さくなかった。プリンチペ(王子の意)の愛称で親しまれた男は、「日常生活でローマを楽しむことはできなかった。例えばコロッセオを見たのは、3、4年前なんだよ。ウソみたいだろ。散歩はできなかったし、映画にも行けなかった。始まってから入るしかなかった」とプライベートでの苦痛を語っている。

「少し息をつきたい時もあった。自分も結局は人間だからね。でも、サッカー選手として以上のローマの人たちとの関係は誇らしかった。ひとつのチームだけで育ったことで、本当のローマに関する多くのことを理解できたんだ」

 それでも、「自分はずっとローマのファンだったし、背番号10やキャプテンマークが夢だった。だから特別だった。その夢をかなえてからは、放したくなかった」とも続けている。

「自分にとって、ローマは世界でもっとも美しい街だ。海、山、太陽、友人、親戚……。世界のほかのどことも換えられない街なんだよ」

 引退後は、新たにスカウトやエージェントの仕事を始めたトッティは、これから世界中を飛び回るだろう。だが、彼が帰る場所は、いつだってローマなのだ。

構成●ワールドサッカーダイジェスト編集部