<サッカー、あのときの一言~19>

「Jリーグは走りながら考える組織-」。初代Jリーグ・チェアマンで、現在日本トップリーグ連携機構会長を務める川淵三郎氏(当時56歳)は、Jリーグ元年秋のJリーグ実行委員会で初めてこの言葉を口にした。

15年以上がたち「“走りながら考える”は、チェアマン時代のオレの口癖だった」と振り返る。そのきっかけとなったのは93年秋。Jリーグ2年目のシーズンにJ参入を目指す3クラブから2クラブにしぼる時だった。

当時Jリーグ参入候補チームは3つ。JFL優勝のフジタ(現湘南ベルマーレ)と2位のヤマハ(ジュビロ磐田)と5位の柏レイソル。磐田はJ設立時から加入を強く希望していたし、平塚は当時の石川市長が全面協力を約束した。柏は30万市民の熱烈な応援があった。それぞれスタジアムや練習施設など100%満足できる環境を整えていたわけではないが、将来的な構想もしっかりしていたし、3チームともJリーグ参入へ妥当な理由があった。

甲乙を付けるのは難しい。初代事務局長で当時の広報室長の佐々木一樹氏は言う。「フジタは平塚競技場の設備がまだJ規格ではなかった。でも行政は整えることを約束していた。他にも本当に細かいところまで調べたら、3チームとも100%満足できるような条件ではなかったが、95%以上はそろえていた」。

そこで川淵チェアマンの「Jリーグは走りながら考える組織」の言葉が生まれた。Jが選んだのは、すべての環境が整って初めて第1歩を踏み出すのではなく、走りながら改善させ、整える方法だった。しかも行政や親会社などからきちっと約束が確認されたからこその選択だった。最終的に、川淵チェアマンは理事会が出した「JFLの成績が最優先」の条件を最後まで貫き、ベルマーレ平塚、ジュビロ磐田が94年度に加わり、12クラブでリーグ戦を戦うことになり、柏レイソルはセレッソ大阪とともに95年に加入することになった。