2003年にジェフユナイテッド市原(当時)の監督に就任したのがイビチャ・オシム氏だ。ユーゴスラビア代表を率いて1990年のイタリア・ワールドカップに出場するなど経験豊富なベテラン指揮官は、タイトルとは無縁だったチームを瞬く間に変革。初年度から優勝争いを演じ、3年目には初タイトルなるナビスコカップ(現ルヴァンカップ)制覇に導いた。

 その実績を高く評価され、06年には日本代表の就任。しかし、07年11月に脳梗塞で倒れ、道半ばで後任に指名された岡田武史監督にその座を譲ることになった。

 味わい深い「オシム語録」でも人気を博した名伯楽は、どんな指揮官だったのか。ジェフの主軸として師事し、“チルドレン”としてオシムジャパンにも選出された、いわば“申し子”のFC東京クラブナビゲーター・羽生直剛氏に訊いた。

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――オシム監督の第一印象は?

「大きくて、無口で、歩くのが遅いおじいちゃんが来たなと(笑)。一言だけ発して後はほとんど喋らない時もあったので、何を考えているのか分からなかった。ただ、練習は半端なく厳しかった。まず韓国で合宿があり、僕は怪我で外れていましたが、。引き上げてきた時の選手の顔が、これまでと全く違って辛そうでした。みんな『やばい監督が来た』と言っていて。実際、本当にきつかった。それがとにかく印象に残っていますね」

――具体的にどんな所がきつかった?

「もう、全部ですね。アップからして違っていました。それまでのジェフは中間順位で終われば、『今シーズンは安心して残留できて、良かったな』という雰囲気のチームだった。だから、アップのボール回しの時は、いつも通りみんなリラックスしてやっていました。ところが僕が開始2分ぐらいでミスしたら、『お前、何やってるんだ。走ってこい』といきなり、叱られて。『え、これアップじゃないの?』と思いましたよ」

「走って練習に戻ろうとしたら、『試合で開始2分に同じようにミスして点を取られたら、責任取れるのか。もう始まっている。責任を取れないなら、まず練習で示せ』とひどく怒られて。そこからですね、真剣にアップをやるようになったのは。身体を温めるだけじゃないという意識で。本当にもう最初からすべてが変わりました」


――そんな厳格な監督が来て、チームの雰囲気は?

「厳しい練習の中にも、楽しめる、リラックスしてできるメニューもあったので。その時のホッとした安堵感と言ったらなかったですね(笑)。オシムさんが笑った時には、安心して『あ、この感じでいいのか』みたいな。みんなが趣旨を理解するようになると、厳しくやる時は要求し合いながらやって、逆にリラックスする時はリラックスして、いいメリハリだったと思います」

――だんだんと惹かれていったわけですね。

「厳しいですけれど、全員を平等に見ているし、みんなを成長させてあげたいという愛情が伝わってきましたね。今でもあの方の哲学的な感じが印象的で、今さらながらオシムさんのことを調べています。あのような生き方をしてみたいですし、その想いはこれからも持ち続けたい。僕にとっては恩師以上の存在ですね」

――中位で御の字のチームがいきなり優勝争いに加わりました。

「正直、最初は『練習で走っているだけじゃないか』という声もありました。「こんなので勝てるのか」という先輩もいて、僕自身も「本当にこれで良いの?」という感じがなくはなかった。ただ、結果がついてきたので、もう言われたようにやるしかなくなった。次第に『この人について行けば間違いない』『この練習をやっていれば勝てる』みたい意識に変わっていきました。練習でやったことが結果に出るのが楽しくなって、“苦しい中の快感”という感じでした。結果が全てだと思いますね」

――改めて、オシム監督の偉大さはどんな部分だと思いますか?

「ある時、キャプテンの阿部(勇樹)選手が『明日休みをください』と直訴しに行ったら、『それはお前が監督になってからやってくれ。今のボスは私だから、休まない』と言われたそうです。ただ、そこにあるのは『そのかわり結果が出なかったら監督の責任だから、自分がクビになる』という感覚ですよね。そういう考えの人ってなかなかいないじゃないですか。例えば、一般企業で社長や上司が、『結果出なかったら責任取るから、思い切ってやってこい』と言える人はそうそういない気がして。そういう哲学、マインドを真似したいなって思わせる人ですよ。本当に厳しかったですけれど、結果をもたらせてくれる人、それを保証してくれる人でしたね」


――日本代表の監督に就任すると聞いた時は?

「結構ショックでした。ずっとやって来て、ファミリーという感じでしたし、もっと教わりたかったので。あとは、周りから『日本代表に呼ばれるのでは?』という目で見られるようになって、徐々にプレッシャーになってきました。日本代表に行けるクオリティの選手とは思っていなかったので」

――実際、オシムジャパンで初めて代表に招集されました。

「嬉しさより『やばい』という感情でしたね。僕なんか代表レベルではないのだから、足を引っ張らないようにやらなきゃとか、迷惑かけられないとか、そんなことばかり考えていました。日の丸の重さなんて知らないし、どうなってしまうのだろうと。常に必死だったし、プレッシャーのほうが大きかったですね。その前のジーコさんの時に『大枠の50人』に選ばれた時があったのですが、その時の方がよっぽど嬉しかったですね。名前が挙がっただけで、活動はなかったのですが」

――恩師が監督で、他のオシムチルドレンもいました。それでもプレッシャーの方が大きかった?

「そうですね、僕の弱さだと思うのですが、周りの目とか、ほかの選手がどう思っているのかな、と意識してしまって。オシムさんだから選ばれているというのは自分でも分かっていましたし、周りの人もそう見ていると思いながら、練習や試合を消化していくのが難しかった。オシムさんの顔に泥を塗る訳にはいかない、日本代表として試合に出るなら戦力にならなきゃいけない、というプレッシャーに正直打ち勝てなかった。でも、いま『元日本代表』と言ってくれるのはオシムさんのおかげなので、感謝をしています」

――アジアカップでは、韓国との3位決定戦でPKを失敗しました。

「あの大会を通じて何度も決定機を外していました。あの試合もそうで、引きずったままPK戦に臨んだので、メンタル的にはかなり動揺していました。失敗した後、ミックスゾーンで『正直、指名された時は一瞬蹴りたくないと思いました。けれど、日本を代表して蹴るので、もちろん決めるつもりで挑みました』とコメントしたんですが、『蹴りたくなかった』というところだけが切り取られてしまって。そういう怖さも知りましたね」

「ただ、最近になってある大会でブラジルの選手でも、PKを蹴りたがらなかった選手がいたという記事を目にしたりすると少し安堵する自分もいました(笑)。あの大会は僕のサッカー人生の中でもどん底の中のどん底でしたが、すべてをひっくるめていい経験となりましたし、あの大会があったから、今があると思っています」

――PK失敗は尾を引いた?

「相当へこんでいましたね。日本に戻ってきて、綺麗な空気を吸いに行こうと思って嫁さんと上高地に行ったのですが、そこでもファンの方に『お疲れ様でした』と声を掛けられて。離れた後に『あの人たちもきっと俺がPK外した人だって言っているよ』って自虐的な話をしていたくらいです。嫁は苦笑いしていましたが(笑)。ただ、Jリーグが再開した時に、ジェフのサポーターが揃って「俺たちの直剛」みたいな紙を持って、迎え入れてくれたのです。それを見た時は感動したし、『家に帰ってこれた』と感じました。それも含めて、本当に貴重な体験をしたと思いますね」


――印象に残っている「オシム語録」は?

「山ほどありますが、とくに印象に残っているのは、『野心を持て』という言葉ですね。ジェフでは、『中間順位で満足なのか』『なぜサッカー選手なのに一番を目指さない』と指摘されて。『中間順位ならプレッシャーもないし、それでいい服着て、いいクルマ乗って、いい時計して、美味しいもの食べられれば楽だよな。でも俺はそれが幸せとは思わない。なぜ上を目指さない? 君たちはそういうクラブだからと思っているかもしれないが、俺はそうは思っていない』と言われたのをよく覚えています。正直、それまではプロになって満足してしまっている部分がありました。もっと上を目指さなきゃいけない、厳しいところに身を置かなきゃいけないと思うようになったのはオシムさんに出会ってからですね」

「『成功を掴むにはリスクを冒せ』ともよく言われました。ゴールを奪うためには、リスクを伴いますよね。オシムさんには、チャンスだと思ったら、自分の持ち場から離れてもいい、センターバックが持ち上がってもいい、誰でも行っていいぞと言われていました。チャレンジしていい、リスクを冒していい、それと引き換えにゴールを奪えと。もちろん、闇雲ではなくて、状況やタイミングを考えろというのが前提でしたけれど。『人生も同じで、成功するには、腹をくくってチャレンジしなきゃいけないぞ』と教わりました」

――引退後にオシムさんにお会いしたことは?

「スカウトを1年やってから、会いに行きました。『なんで指導者にならないのだ』と訊かれて、『オシムさんのような監督を相手に勝てる気がしないから』 と答えたら、『何を言っている」と笑っていました。『自分はこういう事をやりたい』と伝えたら、『もっと上を見ろ。空は果てしない』と言われました。『俺にそんな名言持ってくるか』みたいな(笑)。最後は『お前のやりたいようにやってみろ』と背中を押してくれました。あの人の存在は自分のなかでとても大きくて、語り継ぐといったら大袈裟ですけれど、指導者ではなく別の形で残していきたいと思っています」

取材・文●江國 森(サッカーダイジェストWeb編集部)
協力●DAZN