少々前になるが、『フランス・フットボール』誌(3月3日発売号)は3月8日の国際婦人デーを記念して「100%女性」特集号を発行している。ラファエル・バランやローター・マテウス、ウナイ・エメリ、ディディエ・デシャンら著名人の女子サッカーへのコメント、ジャンミシェル・オラス・リヨン会長のインタビュー、サラ・ブハディとアントニー・ロペというリヨンの男女ゴールキーパーの対談などに混じって、フランク・シモン記者がレポートしているのがナディア・ナディムである。

 パリ・サンジェルマン(PSG)で背番号10を背負うナディムは、デンマーク代表で93試合出場(33得点)。EUROも3度本大会に出場し、2013年は準決勝、2017年は決勝に進んでいる。32歳になった今も、ヨーロッパ最高クラスのひとりである。

 だが、今日に至るまでの彼女の運命は、決して平たんではなかった。そもそもアフガニスタンで生を受けた少女が幼いころからボールを蹴り始め、タリバンに父親が暗殺された後に移り住んだデンマークでプロになってからも、医学の勉強を続けて外科医を目指していることなど考えられるだろうか。しかも女性や被差別者の権利拡大のためのボランティア活動も継続的におこないながら。

 シモン記者が描くのは、そんなナディムの過去・現在・未来である。

監修:田村修一

9つの言語を話すサッカー選手。

 12歳で家族と共にアフガニスタンを逃れてデンマークに移住した少女は、アメリカ、イングランドでプレーした後に、2019年1月にパリ・サンジェルマンとプロ契約を結んだ。ただ、それとは別に、民間の非営利組織で活動を続け、同時に医学の勉強を続けて外科医への道を進もうとしているのだった。

 ナディア・ナディムはパリで心身ともに寛ぎ、幸福な生活を送っていると感じている

「実際にデンマークの家族――母と姉妹たちだけど――が暮らす実家とほとんど変わりがない。ここでも周りの人たちが、もうひとつの家族のような雰囲気を作り出してくれるから」

 アメリカ(スカイブルーFCとポートランド・ソーンズFC)とイングランド(マンチェスター・シティ)で3年を過ごした後、PSGに移籍して1年が過ぎた。アフガニスタンで生まれ、デンマーク国籍を持つナディムは、9つの異なる言語を理解し話すことができる。すべては家族の穏やかな生活が脅かされたカブールから始まったのだった。

 彼女に最初のサッカーボールを与えたのは、アフガン国軍の将軍であった父親のラバニであった。

「私はまだ6歳だった。父が私と姉妹たちにリフティングを教えてくれた」

アフガンから脱出し、デンマークの難民キャンプへ。

 その父親がタリバンに暗殺されたとき、彼女は12歳になっていた。

 母親のハミダは、5人の娘を連れてアフガニスタンを出ることを決意する。最初はロンドンへの移住を考えたが、最終的に行きついたのはデンマークのアルボルグにある難民キャンプだった。

 新たな人生の始まり。千一夜をかけて語りつくす物語の始まりでもあった。

「もちろん話したくないときもある。でも私が自分の過去をオープンに語るのは、それが他の人たちにポジティブな影響を与え得ると信じているから。難民への意識を高める契機にもなるだろうから」

 2年前に彼女は、デンマークで自伝を出版した。それは2009年に男女を通じて初めて帰化人(国籍は2008年に取得)としてデンマーク代表に選ばれて以来、ずっと在籍し続ける代表チームがEURO2017決勝に進み、彼女のゴールで先制しながら地元オランダに逆転負けを喫したちょうど1年後のことであった。

「ここにやって来たのは運命だったと思った」

 彼女はその著書を、PSGのチームメイトたちにも贈りたいという。

「PSGの助力を得て今は翻訳作業が行われているところで、夏には出版されることになっている。チームメイトたちとは本当に親しい関係にあるから、本を読むことで私が本当はどんな人間であるかを彼女たちに分かってもらいたい」

 マリーアントワネット・カトコ(21歳。フランス代表FW。PSGでは公式戦100試合に出場し90得点)やクリスチャン・エンドレル(28歳。チリ代表GK)、ジョーダン・ウイテマ(19歳。カナダ代表FW)らも、どんな劇的な環境のなかでチームメイトでも友人でもあるナディムがサッカーを好きになっていったかを理解するだろう。

「デンマークに辿り着いて女の子たちがサッカーしているのを見たとき、ここにやって来たのは運命だったと思った。私たちもその輪に加わって……私は5人姉妹の次女だった。姉もデンマークU19代表に選ばれたストライカーだったし、末の妹はGKをやっていた。姉は今は医師になっていて、妹はサッカーをやめてボクシングに転向した。デンマークとスカンジナビアのチャンピオンになったわ」

多くの国で多くのクラブに所属し、勉強も続けてきた。

 ナディア自身もデンマーク時代は、複数のクラブ(B52アルボルグ、ビボルグ、IKスコブバッケン)を渡り歩きながらスポーツと学業を両立させていた。

 だがデンマーク国籍を取得すると、女子のプロサッカーが盛んなアメリカに新天地を求めたのだった。アメリカではサッカーの在り方がヨーロッパとはまったく異なっていた。

「試合のプロモーションに関して、アメリカはヨーロッパの遥か先を行っている。まるでロックスターになった気分だった。選手それぞれが《ひとつの商品》で独自のプロフィールを持っている。プレーのレベルや選手の能力という点ではヨーロッパのトップクラブもそう変わらないけど、それ以外はアメリカに遠く及ばない」

 特に彼女が衝撃を受けたのは、試合や大会に臨む際の気持ちの強さだった。

「彼女たちは成長の過程で強い気持ちを自然と身につける。その後はイングランドにも行って、そこでは別のことに驚いた。選手たちがまるで男子のようなジョークを言う。あんな国は他にないでしょう。

 フランスはさらにまた別で、人と会ったときに最初は横柄で傲慢な印象を受ける。でもその距離はすぐに縮まって、ひとたび打ち解けるととても強い絆が結ばれる」

「パリでは自分が《よそ者》だとは感じない」

 常に笑顔を絶やさない彼女は、自分が訪れた国々とそこに暮らす人々の良さを理解するための秘訣を語る。

「できるだけ早くその国の言葉を覚える。そうすれば相手との距離がぐっと縮まるから」

 それは12の歳に移り住んだデンマークでも同じだったのか。デンマークへの複雑な思いを彼女は語る。

「デンマークでは自分のアイデンティティについて多くを学んだ。ただ今は、どこか別のところで暮らしたいと思っている。フランスがそうであるように、自分という存在をあらゆる面で受け入れてくれるところで。パリにいると自分が《よそ者》だとはまったく感じない。デンマークはそうではなくて、気持ちの持ち方が違っていた」

いつの日か祖国アフガニスタンでの活動も。

 流暢に話すフランス語も、好きな単語が幾つかあるという。

「好きなのは『アレット!』(=やめて! の意)と『フランシュモン』(=率直に言ってなどの意)のふたつ。特にアレットは、フランス語らしくて気に入っているからいつも使っている。それからピッチで怒りが抑えられないときには、思わず『プータン』(=くそなどの意)と叫んでしまう(笑)」

 彼女が今日情熱を傾けているテーマは、世界で苦しむ人々に快適さを与え、力強いメッセージを送ることである。だが複数の民間非営利団体を通じての、差別をなくし難民の権利を得るための活動はデンマーク時代から継続的に続けている。そして今、彼女の関心は祖国であるアフガニスタンへと向けられている。

「ある時期から頭の中に考えが芽生えた。何年かしたらアフガニスタンに戻りたいと。そして何が変わったのかを見届けたい。

 確かなことは何ひとつないけど……私は今、ある民間組織と女性たちのグループとともに対人地雷撤去活動をおこなっている。アフガニスタンにはまだ一度も戻れていないけど、父方の家族はまだそこに住んでいる。私が生まれた国だし、私が何かすることで幾つか扉が開くかもしれない。女性も学校に行けるようになり、自由にスポーツができるようになる日が来れば……」

「3年のうちにパリで医者の仕事も始めたい」

 少女の時代に劇的な環境の中に身を投じざるを得なかった彼女にとって、自らのルーツに立ち返ることは大きな意味を持つ。だが、その回帰の旅に出かける前に、彼女にはパリでやるべきことがある。PSGのタイトル獲得に貢献することである。

「思うにPSGとリヨン(OL)には、レアル・マドリーとバルセロナのようなライバル意識がある。扉は開きかけていて、クラブの野心に私も同調した。私は単にタイトルを獲得できるクラブにいたいのではなく、大いなる征服のための力になりたい。OLには最大限の敬意を払うべきだけど(現在女子チャンピオンズリーグ4連覇中。6度優勝は歴代最多)、私たちだってヨーロッパチャンピオンに近いところにいるのは間違いない(過去2度決勝に進むもフランクフルトとOLに敗れる)。両者の差は縮まっている。日々のトレーニングの中でそれは実感している」

 両者の対戦は3月14日に予定されている(註:新型コロナウイルス禍によりその前にシーズンは終了してしまったが)。アーセナルとのチャンピオンズリーグ準々決勝第1戦の2週間前である(註:同前の理由で延期)。そしてシーズンが終われば、ナディアはデンマークに戻って外科医になるための医学の勉強を続ける。

「元々はアメリカで始めて、授業に出席する必要がない理論の単位は3カ月かけて獲得した。でも実習は義務だから、シーズン後にデンマークで2カ月間それにかかわる。その後でまたプレーに復帰するつもり。

 ここパリでは主に研究に携わっている。3年のうちにパリで医者の仕事も始めたい。たとえ90歳になるまで5対5でプレーを続けるにしても、もうひとつの人生にも精いっぱいのエネルギーを捧げたいと思っている」

(「フランス・フットボール通信」フランク・シモン = 文)