暗中模索の代表監督選考は、いくつもの矛盾や疑問符を生み出した。

「ドーハの悲劇」を経てJFA(日本サッカー協会)の強化委員会は「(ハンス)オフトでも修羅場の経験が不足していた」と総括し、後任に据えたのが1982年スペイン・ワールドカップで活躍したブラジルが誇る黄金のカルテットのひとり、ファルカンだった。現役を退いて間もないファルカンだが、既に同国代表監督も務めていたので、確かに「大舞台での経験値」という点では条件を満たしていた。

 強化委員会が描いたプランは、オフトを次期ワールドカップでの指揮官候補として残しつつ、1年間ずつふたりの監督を試して4年後へ向けて最適任者を選ぶというものだった。つまりファルカンは短期間での結果を求められ、そのリトマス試験紙になるのが秋に広島で開催されるアジア大会だった。

 だがファルカンがチーム作りを急ぐ様子はなかった。それどころか多くの若い選手たちを登用し、合宿でも個を鍛えることに焦点を絞っているように見えた。

 ファルカンは「時間が足りない」と洩らし、夏の合宿では1日に4部練習を組み込んでいる。ところが多くの時間を割いたのはフィジカルメニューだった。


 アジア大会で10番の重責を担うことになる当時22歳の岩本輝雄が振り返っている。
「ブラジルというとボールを使うイメージでしたが、物凄くフィジカルをやりました。昼間1000m走や10分間走が3~4本入り、その後に90分間ゲームをやるとか……」

 また21歳でアトランタ五輪代表のエース(本番前に故障)だった小倉隆史も語った。
「とにかくジウベルト・チン・フィジカルコーチの課すメニューはきつくて、ジャンプを繰り返すから、みんな肩が痛くなっていました。個々を伸ばして、その化学反応を見ていく。それがブラジルのやり方なんでしょうね」

 さらに名良橋晃には、クロスの練習を延々繰り返させて、とうとう本人が怒り出してしまったこともある。通訳を務めていたアデマール・マリーニョ(フジタ、日産で助っ人選手として活躍)が慌てて「それだけ期待しているんだから」と宥めたほどだった。

 逆に戦術の練習や確認は進まず、FWからサイドバック(SB)へ転向して間もなく代表に抜擢された遠藤雅大などは戸惑うばかりだった。
「ファルカンに一番質問をしたのは僕だったと思います。SBとしての役割や周囲との関連性も含めて細部まで確認したかった。でもそこで解決し切れないから、そうなると実際にピッチ上で確認するしかない。周りの選手たちとは随分言い合いになりました」

 一方でマリーニョは、こう証言している。
「ファルカンはすごく紳士で、スター気取りもなく優しかった。判らないことがあったら、いつでも聞いてくれ、と繰り返してしました」

 例えばアジア大会の前には、柱谷哲二と井原正巳が相談に来たことがある。CKの守備をゾーンではなく、マンツーマンに変えたいとの直訴だった。ファルカンは、彼らの意見を尊重した。ただしふたりの背中を見送ると、ポツリと呟いた。

「ドーハではそれで負けたのに…」

 マリーニョは驚いた。
「どうしてそれを言わなかったんだ?」
「せっかくの自信をなくしてほしくなかったんだ」

 良くも悪くもファルカンは、常に泰然自若としていた。1980年代にセリエAの外国人選手輸入が解禁になると、真っ先にローマに迎え入れられ、チームをスクデット(リーグ優勝)に導き「皇帝」と崇められた。チームメイトで1982年にイタリア代表のワールドカップ制覇に貢献したブルーノ・コンティも「あれほどリーダーシップを持ち、卓越した戦術論を持つ選手を知らない」と手放しの称賛を惜しまない。

 実はブラジル代表の監督に就任した際も、ファルカンは同じように大胆に若い選手たちを起用している。その結果1991年に地元で開催されたコパ・アメリカで準優勝に終わり退任したが、この時抜擢したマウロ・シルバ、カフー、レオナルドらは94年米国ワールドカップの優勝メンバーに名を連ねた。信念を持って選手をセレクトし、そのポテンシャルを最大限に開花させるためには小事にこだわらない。そんな鷹揚さを持っていたのかもしれない。


 ただし現実的には、それが代表監督として命を縮めた。アジア大会での目安は「韓国に勝ってベスト4」だと報じられていた。開幕からグループリーグで2分けの日本は、ミャンマー戦を残すのみ。2点差以内の勝利なら2位通過となり、準々決勝で韓国との対戦を避けられた。しかしミャンマー戦では2点を取った時点で、柱谷を筆頭に何人かの選手がベンチに確認しても特別な指示は出てこない。そして81分、交代出場した岩本が躊躇なく3点目を叩き込み、日本は5-0で勝利。ベスト4に到達する前に、韓国戦が実現してしまった。

 韓国戦を避けようという考えは?と聞かれたファルカンは笑みさえ湛えていた。
「みなさんの方が韓国を怖がっているのではありませんか」 

 日韓戦は、ドーハでの米国ワールドカップ最終予選以来1年ぶりだった。崖っぷちに追い込まれた日本は、カズの決勝ゴールで韓国を下し反撃に転じた。しかし1年間で両国のチーム力には、明確な差が生まれていた。6年前のソウル五輪で旧ソ連を金メダルに導いたアナトリー・ブイショベッツを代表監督に招聘した韓国は、役割分担も明確でシンプルに連動しながら攻撃を組み立てて来た。それに対し日本は、攻守に組織的な連係が乏しく、個々がドリブルで運ぶシーンばかりが目についた。

 それでも前半はカズのゴールでリードを奪って終わるが、後半に入ると韓国が完全にゲームを支配する。特にSBに転向して日の浅い遠藤と、その前に澤登正朗がポジションを取る日本の左サイドで数的優位を作り、立て続けに決定的な崩しを見せるようになった。本来韓国の右サイドはコ・ジョンウォンとハン・ジョンクックだが、トップ下のチェ・デシクや後方からカン・チョルがサポートにつき翻弄していく。同点ゴールは、ウイングの位置から内に入ったコ・ジョンウォンが最前線で圧倒的な存在感を放つファン・ソンホンにスルーパスを送り、ファンがヒールで残したボールを後方から飛び出したユ・サンチョルが決めた。

 さらに逆転弾はサイドチェンジでマークを外すと、チェ・デシクのクロスをファン・ソンホンがフリーで押し込んでいる。日本も終了5分前に、井原が目の覚めるようなスーパーミドルを突き刺して追いつくが、前線のカズ、高木琢也、前園真聖がいずれも孤立し、複数の選手が関わって崩し切る形は最後まで見られなかった。

 結局試合は、韓国が終了間際にPKを獲得して3-2で勝利して準決勝に進出。ファルカン体制は7か月間で終焉した。

 おそらくファルカンは、若いタレントを発掘し自信をつけさせて成長させようとした。通訳のマリーニョも「自分の選んだ選手たちは必ず出来ると信じていた」と証言している。

 だが明確な指針なしに抜擢された選手たちは、むしろ酷く傷つくことになった。

 岩本は無名の高校生からプロになって、まだ4年目だった。ラモス瑠偉から10番を引き継ぐ形になり「あんなに大好きだったサッカーが嫌いになりかかった」という。

「なんでおまえが10番なんだという雑音も入って来る。6番だったら、もっと気が楽だったのに、とも思いました。天国に持ち上げられて地獄に叩き落された感じでした」

 自分のサイドを狙われた遠藤も、韓国に負けた夜、ホテルに戻って号泣した。
「まだ僕には3番(左SB)を任されるだけの力がなかったから、物凄く辛かった。ベテランの都並(敏史)さんと一緒に選んでもらって、徐々に引き継いでいくような形があれば良かったとは思いました」

 ファルカンとの契約を打ち切り、加茂周を後任に据えると、川淵三郎は強化委員長のポストを加藤久に託して退陣した。ちなみに広島で日本が韓国に敗れた前日に、ファルカンと黄金のカルテットを組んでいたジーコは鹿島で引退試合をしている。「後進に道を譲った」はずの川淵が会長の立場でジーコに代表監督を託すのは、それから8年後のことだった。(文中敬称略)
 
文●加部 究(スポーツライター)