プロ入りから7年間プレーした町田を18年に契約満了となり、トライアウトを経て19年に加入した琉球では半シーズンで15得点とブレイク。シーズン途中の8月にJ1のC大阪へ移籍し、9月の川崎戦でJ1初ゴールを記録する――。

 30歳で成功を掴んだ苦労人である鈴木孝司の“サクセスストーリー”は、驚きをもたらしただろう。しかし、ルーキーイヤーの12年にJ2の町田で1点も取れなかった男が、のし上がったのも、町田の番記者として”定点観測”してきた身からすれば、決して驚きはない。
 
 サポーターからも名前で親しまれていた孝司は、14年に19ゴールを挙げて初代J3得点王の座を勝ち取り、「ゴールを奪うことで成り上がってきた」。町田でゴールを量産し始めたJFLでの13年から、頭、右足、左足とゴールのパターンに偏りはなく、オールラウンダーなストライカーとして実力を発揮してきた。そんな孝司について、16年の町田加入以降、18年まで主に2トップを組んできた中島裕希も「なんでもできる、オールマイティなFW」と評していた。

 ストライカーとして特筆すべき能力は、“ゴールへの逆算”に優れていることだ。本人が「何年も前のゴールシーンでも鮮明に覚えている」と語るほど、彼の頭の中にはゴールシーンの引き出しが蓄積されている。瞬時の判断が必要とされるピッチ上では、「味方と相手の状況を考慮して適切な判断を下し、常にゴールを意識してポジショニングをしている」ことが、ゴール量産の秘訣だという。

 試合直後でも、淀みなく自分の言葉でゴールシーンの詳細を述懐できる頭脳は、それだけゴールへの逆算を綿密に導き出し、それを実践に移しているからこそ。筆者がこれまで取材してきたなかで、自分の言葉でゴールシーンを語れる孝司と同タイプの選手は、元柏の工藤壮人や浦和の武藤雄樹らが当てはまる。

 さらに孝司は15年、大分とのJ2・J3入れ替え戦でチームの全3得点をひとりで叩き出した“勝負強さ”も兼備する。舞台の大きさこそ異なるものの、16年のチャンピオンシップでは鹿島(当時)の金崎夢生が、準決勝の川崎戦と決勝の浦和戦(ホーム&アウェー方式の2試合)の3試合で全3得点を記録。その活躍は彼と重複する部分はあるが、孝司は「自分が言える立場ではないですが……」と前置きしつつ、「大舞台で活躍できるのは実力の証。1年間の積み重ねの結果と強い気持ちが結果に反映されていました」と話すなど、彼自身も金崎から大いに刺激を受けていた。
 しかし、町田で雌伏の時がなかったわけではない。16年の8月に左アキレス腱損傷の大怪我を負い、復帰まで約1年を要した。そのため、18年限りで町田を去るまでに、トップフォームを取り戻したとは言い難かった。それでも、本人は得点感覚をより研ぎ澄ませるために、川崎の小林悠がゴールを決めれば、得点シーンを貴重な教材として活かしてきた。

「味方がサイドをえぐった際の動き出しや、相手を外すときの動きが上手いですし、背は大きくなくても、クロスに合わせる動きも優れているから、すごく参考になる選手です」
 
 17年にMVPと得点王の“ダブル受賞”を成し遂げた川崎のエースから学ぶことは多かったようだ。

 町田での晩年は前述の大怪我が最後まで尾を引いた。退団時には「良かった時の自分と、今(当時)の自分を比べると、納得がいくプレーはできていない」と話している。周囲はどうしても“全盛期の残像”が拭えず、負傷前の彼に戻ることを期待し、それを求めていた。

 そうした重圧や、過去の自分と今の自分の狭間で揺れていた葛藤も、本人の中ではひとつの足枷となったようだ。「そういうところからも解放されることへの嬉しさもある」。退団時に話していたこの言葉が、すべてを物語っているだろう。

 退団の翌年にあたる19年、“孝司ロス”で町田のサポーターは悲しみに暮れた。しかし琉球を経由し、かつてのエースはトップカテゴリーの選手として、遅咲きのJ1初ゴールも記録した。町田サポーターは彼の活躍を心底喜んだが、もしかしたら、ポッカリと心に空いた穴は、まだ完全には塞がっていないのかもしれない。

 それほど、「鈴木孝司」は町田サポーターにとって、特別な存在だった。C大阪への出世街道を歩むにあたって、礎を築いた町田での7年という時間は尊く、孝司とサポーターが蜜月の時を過ごした絆の証でもある。

取材・文●郡司 聡(フリーライター)