『橋本真也34歳、小川直也に負けたら即引退!スペシャル』

 プロレスのテレビ放送としては、あまりにも異例でキャッチーすぎるタイトルが付けられたこの一戦。2000年4月7日、東京ドームで行われた小川直也vs.橋本真也の一騎打ちから、この4月で丸20年が経過した。

 テレビ朝日系列の全国ネットで、19時54分から21時48分の2時間枠で生中継されたこの大会。プロレスのゴールデンタイム生中継は、じつに8年3カ月ぶり。それが実現したのは、この前年、1999年1月4日東京ドームで行われた小川vs.橋本が禁断の“セメントマッチ”となり、その事件性とスキャンダリズムが多くの人の関心を惹きつけたからだった。

2度も失態を見せた絶対王者。

 新日本プロレスのトップレスラーである橋本が、東京ドームの大観衆の前で、小川のプロレスの域を超えた攻撃により潰された、前代未聞のこの事件(試合結果はノーコンテスト)。通称“1.4事変”がなぜ起こってしまったのかは、アントニオ猪木が小川に対して“指令”を出した猪木陰謀説や、新日本幹部の橋本制裁説など諸説あり、その真相は未だ明らかになっていない。

 しかし、小川になす術なくやられた橋本の強さのイメージは、この一戦で間違いなく失墜した。

 橋本は名誉挽回を期して挑んだ、10.11東京ドームでの10カ月ぶりの再戦でも完敗。1度ならず2度までも失態を見せた元IWGP絶対王者は、小川との再々戦を前に「引退を懸ける」と宣言する。こうして2000年の4.7東京ドームで、橋本vs.小川の決着戦が決定し、当日生中継を行うテレビ朝日も「橋本真也負ければ引退」を大々的にフィーチャーすることとなった。

想像を超えた橋本のKO負け。

 引退を懸けたこの一戦について、「どうせ橋本が勝って、引退しないんでしょ?」と、したり顔で語る声も試合前には少なからず聞かれたが、結末はファンや関係者の想像を超えていた。

 序盤こそ、水面蹴りの奇襲から橋本が優位に試合を進めるが、やはり小川の必殺STO(変形大外刈り)で流れを変えられ、最後はSTO6連発の前にKO負け。試合後、橋本が本当に引退を表明するという、まさかの結末となったのである。

 この試合のテレビ放送は、そのド直球なアプローチが世間の大きな関心を呼び、平均視聴率15.7%、瞬間最高で24%という高い数字を記録。スキャンダルを逆利用し、世間の注目を集め大きな話題とするといういわゆる猪木イズムを、発揮したかたちとなった。

 あの“1.4事変”を仕掛けた黒幕が猪木であったとするならば、東京ドームを3度も満員にし、長らく深夜帯に甘んじていたテレビ放送でも高視聴率を獲得するなど、ビジネス的見地から考えると大成功を収めた一連の橋本vs.小川は、猪木の功績ということになる。

格闘技路線へ邁進するきっかけに。

 事実、この小川vs.橋本のあと、新日本における猪木の発言力は一気に増し、事実上の最高権力者として復権。新日本にとっては、今や“黒歴史”である格闘技路線を邁進するきっかけにもなってしまった。

 引退を表明していた橋本真也は結局、4.7ドームで小川に敗れた半年後に復帰をはたすが、同年11月には新日本を退団し、新団体ZERO-ONEを旗揚げ。レスラーとして生まれ育った新日本との関係を断ち切った。

 さらに猪木の推し進める格闘技路線に反発した武藤敬司らも2002年1月をもって新日本を離れ、ライバル団体の全日本プロレスへと移籍。新日本は選手とスタッフの大量離脱に見舞われ、2000年代半ばには存亡の機に立たされることとなる。

 今も多くのファンの記憶に色濃く残る一連の小川vs.橋本は、プロレス界の流れを大きく変えるほどの影響があったのだ。

(「ぼくらのプロレス(再)入門」堀江ガンツ = 文)