昨年横浜F・マリノスは、ふたりの得点王(仲川輝人とマルコス・ジュニオール)を誕生させるなど圧倒的な攻撃力を武器に4度目のリーグ制覇を遂げた。アンジェ・ポステコグルー監督は、クラブ史の流れを変える大胆な試みに成功したことになる。

 横浜の前身となる日産自動車の歴史が本格的に動き出したのは、1974年に後の日本代表監督・加茂周を招聘してからだった。当時は神奈川県リーグに所属していたが、1980年代に入りトップリーグ(JSL1部)に昇格すると「日本一の経験者を中心に」大卒の即戦力を次々に補強。83、85年には天皇杯を制した。加茂の狙いは的中した。高校や大学で日本一を経験している選手たちは、カップ・ファイナルでもまったく動じなかった。

 こうして加茂時代は木村和司、金田喜稔、水沼貴史、柱谷幸一、マリーニョら前線のタレントが豊富で破壊力を売りにしていたが、87年に元ブラジル代表主将のオスカーを迎えてからチームカラーが変わっていく。オスカーは前回の本連載でも紹介したように、MFに黄金のカルテット(ジーコ、ファルカン、ソクラテス、トニーニョ・セレーゾ)を揃える攻撃力抜群のブラジルで、最後尾から守備を支えたディフェンダーだった。

 オスカーの加入で日産は、堅守速攻型へモデルチェンジした。現役最後のシーズン(88~89年)、さらには監督就任1年目(89~90年)と2年連続して三冠を獲得し、その流れを後任の清水秀彦が引き継ぎプロの時代に突入していくのだった。

 アマチュア末期からプロ草創期にかけて日本サッカー界のクラシコと言えば、日産(横浜)と読売クラブ(現東京ヴェルディ)の対決だった。両チームともにライバル意識をむき出しに戦う一戦は当時別格の質の高さを誇ったが、形勢が日産に傾きだしたのはオスカーが加入してからだった。

 後発の日産は、それまで読売クラブにはまったく勝てず、理由は明白だったという。錚々たる攻撃のタレントを集めてみたものの守備組織が構築されていなかった。そこで浦和市立時代にエースストライカーとして全国高校選手権を制した清水秀彦が、ボランチに転向するのだが、後ろでプレーしてみて改めて負担は大きかった。

「和司(木村)もキンタ(金田)も水沼も、長い距離を走って汗をかくタイプではない。とにかく試合中は“帰れ!”と叫んでばかりだった」



 そんな日産が1987年3月に読売クラブから初勝利を飾ると、プロの時代に変わる1993年11月10日まで読売(ヴェルディ)の天敵であり続けた。引き分けを挟み15連勝の通過点には、当然Jリーグの記念すべき開幕戦も含まれていた。

 清水と同じく日産加入後にFWからボランチに転向し、このポジションに注目を引き寄せた柱谷哲二が証言している。

「とにかくオスカーは1-0の美学を持っていました。手堅く失点せずにカウンターでゴールを狙う。攻められてもGK松永(成立)さんを中心にしっかりと守り、あまり攻撃には人をかけなくなりました」

 ハイテンポでの短いパス回しが得意な読売に、この戦術がはまった。逆に読売は86年に重要なふたりの選手が引退していた。ミスター読売と呼ばれた与那城ジョージと、ボランチとして特に木村和司キラーとして君臨していた小見幸隆だった。

 横浜マリノスの初代監督としてJリーグ開幕を迎える清水が「今だから言うけど」と教えてくれた。
「ジョージが引退したことで、読売のパスの出し手がラモス(瑠偉)ひとりに減った。ジョージは長短のパスもドリブルも自在。試合の序盤は、こちらがしっかりとマークしていると、後ろからロングボールを散らして出てこない。ところが少しでも隙を見せると、一気に飛び出して来る。止めようがなかった。でもラモスは5~10メートルのパスは抜群でも30メートルのパスはない。気持ち良くボールを持たせておいても、最後はワンツーに飛び込まず、3人目の飛び出しをケアしておけば良かった」

 ボールを繋がれるのは構わない。むしろ前がかりにさせ、相手の消耗を待って勝負どころで神野卓哉や山田隆裕ら若いスピードのあるFWを送り込んで決着をつける。それが日産の勝ちパターンとして定着していった。

「お互いハイレベルで神経を研ぎ澄ませて戦うから、あまり多くのチャンスは作れない。ブラジルスタイルの読売は、4バックと言いながらどうしても左SBを前に出す。つまり都並(敏史)の裏は狙い目だった」

 もちろん日産に連敗続きの読売サイドも対抗策を考えた。プロ化に向けて、当面のライバルから柱谷を獲得し、ラテン系の選手補強が続くクラブの流れを断ち切り、オランダからパワフルで格安な助っ人を補強。ヴェルディの初代監督に就任した松木安太郎は「中央突破もあれば、サイドからの崩しもある。ショートパスもあれば、長いボールを駆使した大きな展開もある」サッカーを目指した。チーム内で反感を買いながらも、大胆な変革を断行した。


 1993年5月15日、こうした流れの中で両雄はJリーグ開幕戦で顔を合わせた。横浜マリノスを率いる清水も、ヴェルディ川崎を指揮する松木も(いずれも当時のチーム名)、まだ30歳台の若さだった。

 やはり序盤からボールを保持し先制したのはヴェルディだった。19分、ヘニー・マイヤーが左サイドから切れ込むと豪快なシュートでネットを揺する。だが、マリノスサイドにまったく動揺はなかった。

 清水は隣りに座る木村浩吉ヘッドコーチに「凄いシュートだな」と、余裕のコメントを発している。
「崩されたわけでもないし、集中は出来ていた」

 また日本代表でも守備の中心選手に成長していた井原正巳も「偶発的なゴール」と意に介していなかった。

 自信の根拠として、堅守速攻を押し進める補強もあった。マリノスもオスカーや元ブラジル代表の名手レナトに代表されるように、ブラジルからの補強を続けて来た。だがJリーグ開幕に向けて「さらに厳しさを表現できる」(清水)アルゼンチン路線に方向転換する。獲得してきたのは、1979年に東京で行なわれたワールドユースの得点王で、セリエAインテルでのスクデットも経験しているラモン・ディアスと、同国代表歴を持つダビド・ビスコンティだった。

 そして微妙に明暗を分けたのが、前半をリードして終えたヴェルディサイドの交代策だった。松木監督はFWの武田修宏を下げて、MFの北澤豪を送り込む。「MFで中途半端なポジションを取るエバートンが気になった」のだという。

 しかしラモスとのコンビで裏を取るのが得意な武田が抜け、マリノス側は「怖さが薄れた」と感じている。しかも後半主導権を握り始めたマリノスは、松木が気になっていたエバートンが、マイヤーと同じように左サイドから同点弾を突き刺した。さらに2分後、今度は最終ラインから井原がロングフィード。木村が頭で落としたボールを水沼が受けてシュートを放つと、一度はGK菊池新吉に阻まれたが、ディアスがプッシュして逆転に成功する。

 結局試合はこのまま終了し、やはりマリノスはヴェルディの天敵として立ちはだかることになった。特に古巣に勝つためにヴェルディに移籍した柱谷は「ただのリーグの1試合ではない」と腹が立って仕方がなかったという。

 ようやくマリノスの連勝が止まるのは、この年の11月10日、マリノスはディアスら主力4人を欠き、一方ヴェルディにはラモスに加えてもう一人の司令塔ビスマルクが加わり、武田の延長Vゴールで決着がついた。

 その後もマリノスは、堅守を基盤とする歴史を築いてきた。オスカーが持ち込んだ流れは、いつしかクラブの伝統となった。82年スペイン・ワールドカップで圧倒的な攻撃力を誇ったブラジルの中で、最後尾に位置したオスカーはただひとり異分子として、そういう哲学を有していた。

 一方マリノス-ヴェルディに続き、日本のクラシコとなったのが「鹿島-磐田」である。鹿島は言うまでもなくジーコが礎を築いたチームだが、出来上がった伝統はしぶとく勝ち切るスタイル。ファンタジーの象徴だったジーコが伝えたのも、実は勝者のメンタリティだった。

文●加部 究(スポーツライター)