獣神サンダー・ライガーがWWEの殿堂入りを果たした。4月24日は獣神サンダー・ライガーがリアルな世界で初めて戦った日、つまりデビュー戦の日である。その記念すべき日から4日連続で、知られざる『ライガー伝説』を綴った短期集中連載をお送りする。最終回のテーマは「ジュニアヘビー級でのライガー革命は世界へ」。

 26年前、1994年4月16日、両国国技館でジュニアヘビー級のワンナイト・トーナメントである第1回「スーパーJカップ」が開催された。これは獣神サンダー・ライガーが実現に音頭を取った画期的な大会だった。

 団体の垣根を超えて、14選手が東京に集結したのである。

 ハヤブサ(FMW)、リッキー・フジ(FMW)、ネグロ・カサス(EMLL・メキシコ)、茂木正淑(SPWF)、エル・サムライ(新日本)、ザ・グレート・サスケ(みちのくプロレス)、ワイルド・ペガサス(クリス・ベノワ/新日本・カナダ)、TAKAみちのく(みちのくプロレス)、ブラック・タイガー(エディ・ゲレロ/AAA・メキシコ)、スペル・デルフィン(みちのくプロレス)、大谷晋二郎(新日本)、外道(WAR)、ディーン・マレンコ(フリー・アメリカ)、そして獣神サンダー・ライガーというメンバーだった。

 この一夜は、実にアメリカ・マット界にまで多大な影響を与える大会になったのである。大会出場者たちの多くが、実際にこの後、アメリカのWWF(現WWE)、WCWなどのメジャー団体で活躍することになったのだ。

 優勝したペガサス(以降「ベノワ」と呼ぶ)には藤波辰巳が持っていたWWFジュニアヘビー級ベルト(ベルトはWWWF時代のもの)が送られた。

 藤波は1978年にニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでカルロス・ホセ・エストラーダをドラゴン・スープレックス(フルネルソン・スープレックス)で破って、WWWFジュニアヘビー級王者になっている。当時、その藤波の凱旋が日本にジュニアヘビー級のブームを巻き起こし、そのブームはタイガーマスクやダイナマイト・キッドに引き継がれたのである。

 ベノワが手にしたのはそんなジュニアヘビー級の象徴的なベルトだったのだ。

 ライガーやベノワはその後、ジュニアヘビー級という領域を世界に広げていくこととなった--。

ペガサス(ベノワ)とサスケの決勝は伝説に。

 翌1995年にはライガーはWCWのリングでベノワと戦った。

 アメリカではまだ、ライガーは悪役扱いだったが、そのスタイルを変えることなく戦った。ベノワはジュニアヘビー級の枠を超えてWCWで世界ヘビー級王座を獲得した後、WWFに移籍、WWE世界ヘビー級王座も手にした。

 夢のトーナメントの決勝戦となったベノワとサスケとの一戦は、海外でも絶賛されていた。サスケは自分自身の体のダメージを考えずに何度も場外に飛んで、国技館の固い床に腰や頭を打ち付けていくほどの熱闘だった。

 当時、1試合だけだったら絶対に失敗しない自信のあった飛び技をサスケが失敗したのも、そんな過激な技からきたダメージのためだったのだろう。ライガーは決勝では、そんな満身創痍のサスケのセコンドについてエールを送っていたほどだった。

 一方でベノワの成長ぶりに筆者はうれしくなってもいた。というのも、1987年にカナダのエドモントンで、まだ何者にもなりきれていなかった頃のベノワに会ったことがあるからだった。

 まだ体は小さかったが、首まで盛り上がった肩からの筋肉が印象的だった。ダイナマイト・キッドみたいだった。いい選手になるとは思ったが……ここまで成長するとは正直想像できなかった。

ハヤブサの急成長にライガーが胸を貸した。

 このワンナイト・トーナメントでは、他にも忘れられない活躍があった。

 FMWに所属していたハヤブサである。当時、武者修行先のメキシコから戻って来たばかりだった。

 身長もあり、未来を感じさせるものがあった。「慌てませんよ。ゆっくりやっていきます」そう語っていたハヤブサだったが、いざ、ライガーと対戦するとはやる気持ちを抑えることは難しそうだった。

 ハヤブサは入場コスチュームのままライガーにドロップキック。そこからローリング・ソバットを放つと、トップロープ越しの人間魚雷トペ・コンヒーロをライガーに見舞ってみせた--本当にインパクトあるスタートだった。

 失敗こそしてしまったが、ライガーにライガーの技であるシューティング・スター・プレスを仕掛けるという度胸の良さまで見せた。

 ハヤブサは敗れたが、そのダイナミックな動きは高く評価され、後にFMWを背負っていく存在になっていった。

ライガーとの戦いでサスケは何倍にも輝いた!

 ザ・グレート・サスケとの準決勝も、実に見ごたえのある試合になった。

 ライガーはサスケをつり天井(ロメロ・スペシャル)で持ち上げると、さらなる変形を加える拷問技を繰り出していく。

 サスケは場外のライガーに、メキシコ・アカプルコで有名な断崖からの決死のダイブから名付けられた後方伸身宙返り“ラ・ケブラーダ”を決めてみせた。さらに鉄柱から場外のライガーめがけて両手を広げて前方に回転するように飛んだのだ。

 ライガーはサスケをハイジャック・バックブリーカーのように高々と担ぎ上げてから、パイルドライバーで叩きつけた!

 こんな技の展開は見たことがなかった。

 しかも、あのサスケが、飛び技を失敗するという……その時、ちょっと気が緩んだのだろうか、ライガーは唐突なサスケのフランケンシュタイナーでまるめ込まれてしまった。

 こうしてサスケは準決勝でライガーに勝利した。

 これは、みちのくプロレスの実力を新日本のファンにも認識させることになった。サスケの空中殺法はルチャリブレのファンでさえ驚愕するものだった。

東北のスターを一躍全国区に押し上げた大会。

 サスケはライガーとの準決勝やベノワ(ペガサス)との決勝で驚異の飛び技を披露し続けた。

 当時、東北という限られたエリアで興行を続けていた「みちのくプロレス」にとって、ライガーの大会参加の提案は願ってもないチャンスだったのだ。

 試合は両国国技館からテレビ朝日の番組「ワールドプロレスリング」を通じて、全国に中継されていた。新日本プロレスの映像はライブではないが、アメリカの団体やファンにもチェックされていたから、そこから戻って来るファンのアクションは興味深いものだった……そして、サスケには実際に最高級の評価が続くことになった。

ジュニアヘビーの選手だけで満員御礼の大会!

 ライガーは1989年4月のデビュー後、5月には馳浩からIWGPジュニアヘビー王座を奪うと、順調にジュニアヘビー級の戦士としてそのステータスをあげていった。

 ライガーがこの団体の垣根を越えたジュニアのトーナメント大会を思いついたのは、スポーツ紙が出していたプロレス特集号の座談会企画でのことだったという。

 試合の勝敗がそのまま団体の存亡まで左右してしまう可能性があったヘビー級の対抗戦と違って、ジュニアヘビー級というジャンルはライガーの希望がまだ通る余地があった。ヘビー級ではなかなか進まないだろう難しい話が、ライガーの提案によってうまい具合に新日本プロレス内でするすると受け入れられてしまった。

 インディー団体にはうるさ型の長州力でさえ、この開催を容認したのである。

 そして、実際に大会の蓋を開けてみれば……ジュニアの戦士だけで、両国国技館は満員になったのである。

 さまざまな団体から集まった14選手が、一夜で繰り広げた13試合は、いまだに語り継がれている伝説となった。それは同時に、ライガーという1選手の才能とプロレス界における貢献度に対する絶大なる評価にもつながったのである。

 結局、スーパーJカップは主催団体を変えて通算7回開催された。その発起人たるライガーは、第2回大会で優勝している。

栄光の「8冠統一戦」の実現。

 もう1つ、ライガーの提唱によって実現したものに「8冠統一戦」がある。

 1996年6月、日本武道館のリング上で8つのタイトル戦に勝った8人の王者による記念撮影を終えると、ライガーは8つのタイトルの統一戦開催をぶち上げた。

 サスケ(IWGPジュニアヘビー級王者)、ウルティモ・ドラゴン(インターナショナルジュニアヘビー級王者)、サムライ(WWF世界ライトヘビー級王者)、大谷(UWA世界ジュニアライトヘビー級王者)、グラン浜田(WWA世界ジュニアライト級王者)、ライガー(英連邦ジュニアヘビー級王者)、カサス(NWA世界ウェルター級王者)、茂木(NWA世界ジュニアヘビー級王者)--この8王者が、同年8月のG1クライマックス期間中に王座統一戦に望んだ。そして、サスケが初の8冠王者になった。2人目の8冠王者はウルティモ・ドラゴンだった。

 そして1997年1月4日、ライガーは東京ドームでウルティモを倒して、3人目の8冠王者となったのである。

長年のライバル佐野直喜との邂逅。

 実はライガー、世界のタイトル・コレクターでもあった。前記の8冠に加えてノアのリングではGHCジュニアヘビー級、WCWでは世界ライトヘビー級、CMLLでは世界ミドル級などの王座も獲得しているのである。

 そんなライガーの前に幾度となく立ちふさがり、IWGPジュニアヘビー級のベルトを巡って競い合った佐野直喜(現・佐野巧真)は、真の意味でのライバルと言えた。

 同い年で、同じ階級、そして同じ日のデビュー戦……途中で所属団体こそ違えることになったが、佐野との試合くらいライガーが熱くなった試合はない。それは佐野も同じだった。

 1995年10月9日、Uインターとの全面対抗戦で再会した2人。

 ライガーは佐野に卍固めを仕掛け、熱かった時に時間を巻き戻した。佐野はこれに場外へのトペで応えてみせた……。

 他にも、ドン中矢ニールセン、青柳政司、鈴木みのるとの格闘技戦も忘れられない。

世界中の若者がライガーを目指した!

 獣神サンダー・ライガーは、世界を駆け回った。

 メキシコではアレナ・メヒコの記念大会で金網のリングにもあがった。ヨーロッパのCWAからもオファーを受けた。新日本プロレスに所属したままWWEのリングにも上がった。

 ライガーは世界中のファンから支持された。

 ライガーを見て、ライガーに憧れて、レスラーを目指して、レスラーになった若者も世界中にたくさんいるのである。

 ライガーはその名の通り後輩レスラーたちの神になっていたのだ。

 そしてついに……父親の時代に作られた軽量級のタイトルであるWWFライトヘビー級王座の存在にクレームを付けたWWEのビンス・マクマホン・ジュニア代表も、ライガーの世界的人気と功績に対してプロレス殿堂「Hall of Fame」にライガーを迎え入れる時代が来たのである。

(「プロレス写真記者の眼」原悦生 = 文)