『Sports Graphic Number』創刊1000号を記念して、NumberWebでも「私にとっての1番」企画を掲載します。今回は長野五輪から5大会連続で五輪に出場し、その実力と笑顔でモーグルという競技を一躍有名にした上村愛子選手についてです。

 これまで約四半世紀にわたって、スポーツ、そしてアスリートの取材を続けてきた。

 その中に、忘れがたいアスリートがたくさんいる。

 上村愛子も、その1人だ。

 フリースタイルスキー・モーグルを牽引してきた第一人者である。

 実績は数知れない。

 2007-08シーズンのワールドカップでは日本選手初の総合優勝を果たし、2008-09シーズンの世界選手権ではこちらも日本選手初の2冠を達成。

 オリンピックは初出場となった1998年の長野大会を皮切りに、2014年のソチまで5大会連続出場。しかも、長野の7位から、6、5、4、4位とすべて入賞を果たしている。

 これら成績の一端だけ見ても、どれだけ長きにわたり、世界の上位を争う位置にいたかを知ることができる。そして上村の存在があって、モーグルという競技の認知度も高まった。それも功績の1つだ。

二重の期待のもとで挑んだ大会。

 そうした長年の経歴を見れば、「不屈の闘志」という言葉も浮かんでくる。それもまた、上村の一面を指し示しているだろう。ただ、そこにあてはまらない面も見せてきた。

「地元の大会だから、とにかく出たかったです」

 長野県白馬村でスキーに励んでいて、ただただ「地元で行われるオリンピックに出たい」という一心だった長野大会のあと、上村は、周囲の期待、そして自身による自分への期待とともに、オリンピックでのメダル獲得を目指し、進んでいった。

 2002年のソルトレイクシティも、2006年のトリノも、2010年のバンクーバーも、そうした二重の期待のもとで挑んだ大会だった。

「私はなんで一段一段なんだろう」

 その都度、真摯な努力を重ねて臨んだ成果が、1つずつ順位を上げての入賞だった。

 ただ、メダルには届かなかった。

 2007-08シーズンのワールドカップ総合優勝、2008-09シーズンの世界選手権2冠を成し遂げたあと、2010年のバンクーバー大会では4位にとどまった。

「私はなんで一段一段なんだろう」

 バンクーバーで、涙ながらにこう語った。

 4大会連続での入賞、1つずつ順位をあげての成績は、十分、評価されてしかるべき成績だったが、メダルに届かなかった。だから、涙した。

「十数年続けることって、タフですよね」

 バンクーバーの試合直後、上村はつぶやいた。

引退するのではないか、とささやかれた。

 第一線で活動するということは、冬季の雪上合宿や大会の転戦ばかりではない。

 シーズンオフにもジムや陸上でのトレーニングがある。なによりも、競技のことを考え続ける日々が続く。精神的な強さが要求される。負荷は、限りなく大きい。

 そんな日々を過ごし、念願のメダルには届かなかった。バンクーバー五輪の翌シーズンにあたる2010-11シーズンを休養したのも無理はなかった。

 引退するのではないか、とささやかれたが、上村は2011年4月、復帰を発表する。

 その後、段階を踏んで5度目のオリンピックとなるソチ大会に出場。予選から計3本の滑りを経て、上位6名のみのスーパーファイナルに進出。ここで、会心の滑りを見せる。 

 滑りから、遠目にも意志が伝わってくるようだった。雑念もためらいもない、高い技術に裏付けられた滑りがあった。渾身の滑りと言ってよかった。得点が出るのを待たず、上村は涙を流した。

仲間に胴上げされるときも、ひたすら笑顔だった。

 その後、全選手が終了し、4位。5度目もメダルには届かなかった。でも表情はどこまでも晴れやかだった。

「これをしておけばよかった、というようなところは一切なかったです。バンクーバーやトリノもちょっとしたミスをしたり、少し体が後ろに下がって攻めきれない滑りをしていたと思いますが、ソチに関しては全部全力でできたので、満足度は高いです」

 その翌月の全日本選手権が現役生活最後の大会となった。優勝で有終の美を飾った上村に、「まだ行ける」「これからもエースだ」、そんな声が聞こえた。

 でも、当の本人は晴れやかだったし、仲間に胴上げされるときも、ひたすら笑顔だった。笑顔とともに終えた競技生活だった。

他者への気遣いを忘れぬ人。

 その軌跡を知らない人のためにも、駆け足で長い競技人生をたどった。

 あらためて今、思い起こされるのは、やりきった人ならではの充足感に満ちた表情だ。

 先にも記したように、現役である頃は、長い遠征を何度も挟み、オフシーズンもトレーニングに励む生活を十数年にわたり続けてきた。そこからくみ取れるのは、強靭な意志だ。

 一方で上村は、他者への気遣いを忘れぬ人であった。

 バンクーバー五輪後、休養の道を選んだ理由の1つをこう語っている。

「4回もオリンピックに出て、メダルを目指してやっていたけれど、夢をつかむことができなかった。自分の結果で周りの人たちもがっかりさせてしまっていると感じて」

 自身の感情とともに、周囲への思いがあった。

 メダルを期待されて臨んだトリノ五輪でそれがかなわなかった直後、当人も大きなショックはあっただろう。それでも取材する記者の1人がヒーターのない宿泊施設に泊まっていると聞けば、持参していたカイロをプレゼントしたのも、上村の性格を物語っている。

置かれた立場から逃れようとしなかった。

 期待を背負い、それを投げ出さず、自身の夢と両立させながら進んできた競技人生であった。最後の大会となった全日本選手権での、選手や関係者、観客の、限りない惜別から来る拍手、向けられる笑顔も、上村が第一人者として背負ってきた重みと果たしてきた責任を知るからであるようだった。

 自覚していた、していないにかかわらず、おのずと、上村はエースとして、周囲を背負い(もちろん自身の夢を追って)、責任を果たしてきた。置かれた立場から逃れようとしなかった。

 だからこそ、やりきった人ならではの、笑顔があった。

「本当にすっきりした気持ち」というほど努力を尽くした人であった。当人にとっては自然なことかもしれないが、自身の夢を追って真摯に努力し、知らずと負うことになった責任から逃れようとせずに全うした。一流の気配りと責任感を持つ人であった。

 エースと呼ばれるに値する存在であった足跡は、今も損なわれることはない。むしろ、スポーツに限らず、困難な状況にある今こそ、鮮明によみがえる。置かれた立場を引き受けるその姿勢は尊くもある。

 引退したあと、メディアで選手の活躍を伝え、あるいは取材している姿をみかける。

 そこでも謙虚に、相手のよさを素直に伝えようとする姿がある。選手の頃と変わらぬ姿がある。

(「オリンピックへの道」松原孝臣 = 文)