獣神サンダー・ライガーがWWEの殿堂入りを果たした。本来であれば、盛大なセレモニーが4月2日に開催されるはずだったが、新型コロナ禍により延期になってしまった。しかし、その栄光に一片の曇りもあるはずがなく--。4月24日は獣神サンダー・ライガーがリアルな世界で初めて戦った日、つまりデビュー戦の日だ。その記念すべき日から4日連続で、知られざる『ライガー伝説』を綴った短期集中連載をお送りする。

 実は、筆者の中では「獣神サンダー・ライガー」と「山田恵一」に境目がない。“ライガー”と呼んだ期間の方が長いのであるが、ライガーと口にしながら、山田の顔が浮かんでいることがよくあるのだ。それは、こちら側の勝手な思い込みにしか過ぎないのだけれど--。

 新日本プロレス入団前の山田はプロレスラーになりたがってはいたが、体のサイズが当時の新日の入門規定に満たなかった。階級制のあるメキシコなら自分でもプロレスラーになれると思った山田は1983年、単身メキシコに渡る。どうやら、その昔メキシコに渡ってプロレスラーになっていた同じような境遇の「マッハ隼人(カブキ、トーキョー・ジョー)」という選手を参考にしたようだった。

 メキシコで“エンプレッサ”と呼ばれていた団体EMLL(現CMLL)系のトレーニング・ジムで山田は“ルチャドール”になることを目指して練習を始めた。この選択は良い結果を導くことになった。

“小さな巨人”グラン浜田と会うことができたからだ。

メキシコでの運命の出会いとマス釣り。

 浜田は1972年の新日本プロレス旗揚げから、浜田広秋(リトル浜田)として戦っていたが、1975年メキシコに旅立ち、そのキレのいいファイトで現地においてブレイクしていた。UWAのミドル級のチャンピオンにもなっていて、1978年からは新日本プロレスのシリーズにも凱旋してペロ・アグアヨらと好勝負を見せるほどの活躍を見せていた。

 浜田は、山田が「オレにもできるのではないか」と思ったマッハ隼人よりメキシコで実績を残した男だ。メキシコ中のプロモーターから引っ張りだこで、日曜日には3、4試合をこなすほどの人気レスラーだった。

 山田はメキシコシティの旅行会社で働いていた人の紹介で、浜田と会うことができたそうだ。当時、シティを東西に横断する大通りパセオ・デ・ラ・レフォルマに面した高層アパートの15階にあった浜田の家では、よく麻雀大会が行われていて、その旅行会社の社員もそのメンバーだったという幸運があった。

 山田はそこで浜田と会って、彼が大好きだというマス釣りに誘われる。早起きしてはいそいそと湖に出かけていく浜田と一緒に、山田は釣り糸を垂らすことになった。

グラン浜田と山本小鉄との出会いで「裏口入学」。

 ある日、連れ立って釣りに出掛けた時に浜田が山田に言った。

「今度、新日本プロレスがテレビ撮りでメキシコに来るよ。試合もするから解説で来る山本小鉄さんに紹介してやるよ。おまえは日本でやった方がいいよ」

 1983年6月12日、かつては格式ある闘牛場だったスタジアム「エル・トレオ・デ・クアトロ・カミノス」でUWA系のビッグマッチが開催された。日本から来たタイガーマスクらスター選手の試合も同時に行われた。

 山田もドキドキしながら試合を見た。そして試合後、浜田から山本を紹介されたのである。

 こうして、日本に戻った山田は新日本プロレスの正式な入門テストを受けることなく、憧れの新日本プロレスに入ることができたのだ。

 この話をすると「裏口入学でしたね」と今も本人は楽しそうに笑う。

師匠・藤原喜明と道場内でボコボコの喧嘩を。

 当時、新日本プロレスは会社の方針として体の小さい選手はとらなかった。抜群の運動神経をもっていた佐山聡が、新日本プロレスに入門したこれまでで一番小さい選手だった。

 その佐山はメキシコ、イギリスでの武者修行を経て、タイガーマスクに変身を遂げたことにより人気を得ていた。

 そんな時期、山田は新日本プロレスに入って練習を始めたわけだが、道場での信じられないような荒々しいエピソードが山ほどある。

 その1つが、新人・山田にとって師匠となる藤原喜明との喧嘩だ。

 山田は、師匠にちょっとからかわれただけで「ぶっ殺してやる」と本気になってしまったのだ。ボクシング・グローブを付けたまま、藤原に挑みかかっていった。結局マウントを取られてボコボコにKOされて……気が付いたときには誰かに運ばれていて合宿所のソファーの上に寝かされていたのだそうだ。

 藤原はそんな山田の気性が気に入って「小さいが、面白いのが入って来た」とアントニオ猪木に報告したという。

「プロレスラーは強くなければいけない。強くあれ。しっかりした体を作れ」

 猪木や山本の言葉を守って、ライガーは練習した。とにかくがむしゃらに練習した。まさに練習の虫だった。時には「ぶっ殺してやる」と叫びながら--。

猪木が用意した後楽園ホールでのデビュー戦。

 山田は合宿所の電話番をしながら、練習に明け暮れた。

 山田にとってのヒーローは「強いもの。特にアントニオ猪木とゴジラ」だった。

 入門から8カ月が過ぎた頃、猪木が言った。

「オマエどこでデビュー戦がやりたい?」

 山田は「両国国技館」と答えたいところだったが……グッと堪えて「後楽園ホール」と返事をしたという。

 結局、山田のデビュー戦には1984年3月3日の後楽園ホールが用意された。「国技館」と答えていたらどうなっていたかは分からない。

 同日、長年のライバルとなる佐野直喜もデビューしている。

船木との交流で掌底打ち、浴びせ蹴りが誕生。

 練馬の草野球場がデビュー戦(1984年9月1日)だった橋本真也に、山田はその後もずっとうらやましがられていた。1つ年下の橋本や、中学卒業直後の15歳で入団してきた船木優治(現・船木誠勝)とはウマが合った。

 喧嘩芸骨法に引き込んだのも船木だった。もともと猪木が船木を骨法に連れて行ったもので、山田が初めての海外修行から帰ってくると、山田は船木が試合で使う骨法式の蹴りに興味を持った。

 最初は「自分は手足が短いし、関節の可動域が狭いから無理かな」と山田は思ったと言うが、骨法は実に山田のスタイルに合っていた。山田と船木は、それぞれ原付バイクに乗って多摩川沿いの野毛の道場から東中野の骨法道場に通っていた。

 この時、ライガーにはなくてはならない掌底打ちや浴びせ蹴りを習得したのである。

心はUWFよりもマスクマン!

 1985年12月、一度は新日本プロレスを出ていった前田日明や高田伸彦(現・高田延彦)らのUWF勢が戻って来た。山田にしてみれば、藤原が戻って来たことが一番うれしかった。試合前のリング上での練習は藤原教室と呼ばれるものになり、汗びっしょりの締め合いのスパーリングが繰り返されることとなった。

 当時の山田は、高田とのシングル戦に抜擢されたり、タッグマッチでは猪木のパートナーに指名されて、高田や木戸修と戦っていた。

 この頃からして、山田は野心家だった。

「オレがオレが」でなくてはこの世界は生き残れない。みんなが、なかよしこよしで手をつないで走るような世界ではないのだ。

 当時、仲の良かった船木はUWFに興味を示していたが、山田はマスクマンになりたいと強く思っていた。正直なところ、マスクマンになれないなら新日本プロレスを出てもいいとさえ思っていたほどだったという。

 1989年1月、山田はリングネーム“フジ・ヤマダ”としてイギリスに武者修行へ向かった。そして、リバプールで船木と合流。ここで2人は同じアパートで暮らすことになるのである。ジムにも一緒に通って体を鍛え続けていた。

東京ドームで獣神ライガー爆誕!

 男ふたりの宿では自炊もしたが、昼は中華街でチャーハンを食べたり、夜はインド・カレーで腹を満たしたりと、若者らしい自由な生活だった。

 当時、取材で訪れた筆者がリバプールで見た山田は、「おまえっ、何者だ!」というくらい劇的に立派な体になっていた。

 当時の山田は、全日本プロレスでの戦いまで視野に入れて自らの「進路」を模索していた。

 ここに舞い込んだのが、1989年4月24日の新日本プロレス初の東京ドーム大会でマスクマンとしてデビューしてはどうかという話だった。

 山田にとっては願ってもない条件だった。

 こうして山田は「獣神ライガー」になって、「デビュー戦」を小林邦昭と戦うことになったのである。

 その時の山田も、まさかこんなに長くライガーとして戦い続けるとは夢にも思っていなかっただろうが--。

(「プロレス写真記者の眼」原悦生 = 文)