ラトビア1部リーグ・FKイェルガヴァでコーチという肩書きを持ち、日本人初となる欧州1部リーグ監督を目指す中野遼太郎氏。前回のコラム(https://number.bunshun.jp/articles/-/842892)が好評につき、第2弾をお送りする。今回のテーマは海外で痛感した「自己主張」の貧弱さ。4カ国を渡り歩いた現役生活を振り返り、赤裸々に綴った。

 こんにちは、中野遼太郎です。前回のコラムが好評だったので、第2回を掲載していただけることになりました。

 読んでいただいた皆さんには感謝の気持ちでいっぱいです。前回の記事内で「名も知らぬ青年の記事に心を揺さぶられてからが人生です」と書いたところ、光栄にも「揺さぶられました!」というメッセージを数通いただきました。もっと集中して生きてください。

 さて、今回は「自己主張」をテーマに設定しました。

 僕が海外でプレーするなかで、自分に足りないと感じたことはのべ2万個ありますが、なかでも「外国人に囲まれるなかで自分をどう主張するか」という部分には長年苦戦しました。総合ランキング3位です。

 おそらく僕に限らず、そしてサッカーの仕事に限らず、この「自分の言いたいことを伝える」という部分で苦労する人は多いのではないでしょうか。僕はこの「主張する」という大きな概念をできるだけ分解することで、そのヒントを皆さんに提示することを使命に、パソコンの前で1文字も思い浮かばずに座っているところです。ヒントが欲しいのは僕の方でした。

「メンタルが強い」で括るな。

 サッカーという競技において、選手は自己主張からは逃れられません。

 ピッチでは、呆れるほどの自信を持った選手たちが、呆れるほどに自己主張を繰り返していて、それはもう呆れます。味方に激しく要求する選手を見て、あるいは審判に盾突く選手を見て、はたまたPKキッカーを絶対に譲らないストライカーを見て、「あの人と友達にはなれそうにない」と思ったことがある人も多いかもしれません。

 特に欧米においては、技術的な優劣と、精神的な序列に相関があまりないので「めっちゃヘタなのに超言い返してくる」とか「完全に向こうのミスなのにこっちみてWHY?の顔してる」みたいな事例は頻発します。「上手いヤツには意見出来ない」という空気も、「積極的に自分のミスを受け入れる」という姿勢も日本のようには色濃くないので、他人に意見する、という行為の精神的ハードルは低いです。彼らには彼らの次元で、別のハードルがあるのかもしれませんが。

 そして、こういう「堂々とモノが言えて、しっかり人のせいに出来る選手」というのは、日本においては一様に(多くが皮肉の意味を込めて)「メンタルが強い」と形容されます。

 僕は日本語において、「このメンタルが強い」という言葉がカバーする範囲が広すぎて、外国人選手のあらゆるアクション(尊敬するべきものからクレイジーなものまで)が「メンタルが強い」という一言に収斂されていくのが嫌でした。その一言で片付けてしまうと、それは埋まらない差として、両者の間に横たわったままのように思えたからです。

自己主張の貧弱さが居場所をなくす。

 たとえば「日本人は自己主張が苦手」という台詞をよく耳にします。

 僕が身を置いているサッカーの分野においても、勤勉、謙虚、という褒め言葉の裏面で、自分の意見を言えない、という評が付いて回ることは多いです。もちろん人それぞれというのは大前提ですが、基本的な傾向としてはかなり同意しますし、なによりも僕自身が海外でプレーする中で、その性質を自分の内側に見てきました。

 こうした自己主張の貧弱さが、ピッチでは「あいつは言い返してこない」に繋がり、やがて「ミスを押しつけても大丈夫」となり、最後は「上手くいかないのはあいつのせいだ」となり、じんわりと居場所をなくしていきます。その空気はロッカールームから監督にも伝染して、悪くないのに前半で代えられる、みたいなことが起こってきます(僕がシンプルに嫌われていて単純に下手だった、という可能性はここでは考慮しません)。

相手の沈黙にも意味を見出す思考。

 ただ、同時にいつも「主張がないわけじゃないぞ」と思っていました。心に渦巻く感情はあるし、頭のなかでは言葉にもなっているのに、いざ対面での会話になるとうまく伝わらない。海外生活によって民族的アイデンティティーを意識するようになった僕は、自分が日本人であるということ(以前は考えたことすらありませんでした)を強烈に自覚し、その気質をどうやってサッカーに適応させればいいのか、つまり「自分を主張するにはどうすればいいか」をたくさん考えました。友達がいなくて暇だったわけではありません。

 日本には「相手の気持ちに立って考えましょう」という教えがあります。

「あなたはどう思いますか?」よりも「相手はどう思いますか?」を、日常的に尊重できるというのは、実はかなり稀有な思考体系です。僕たちは、相手の意向を「汲む」ことができるし、相手の沈黙や文章の空白にまで意味を見出すことを習慣にしています。「察するから、察してくれ」というコミュニケーションがこれほど定着している国は珍しいのではないでしょうか。

 そしてこの、察する、汲む、という行為は、いわば二、三手先に先廻りすることに似ています。

暗黙の了解、は特殊能力に近い。

 僕たちは一手目の感想や意見を交換する習慣がありません。「まず思ったこと」は一旦片隅に置いて、幾つもの暗黙の了解を挟んで、行間を読み合いながら、コミュニケーションを図っています。人数が多いほど、発言は対人ではなく、対「全体の空気」に投げられ、それを各々が察しながら、また空気に投げ返すことで、ゆっくりと総意が形成されていきます。

 この暗黙の了解、行間を読む、というのは海外で暮らす人たちにとっては、ある種の特殊能力といっても過言ではありません。妖術や超能力と同じです。もちろん程度はありますが、これほど日常的に、多くの場合は円滑に、このインダイレクトなやり取りを行うのは容易ではありません。

 職場であれレストランであれ公園であれ、日本人同士が集まる場が相対的に静かなのは、この「察する、汲む」というノンバーバルな対話が担う比重が大きいというのも一因です。(ノンバーバルとインダイレクトを言いたかっただけです)

 たとえば俳句では、季節を季語に託しますし、夏目漱石は「I LOVE YOU」を、月が綺麗ですねと訳したと見たことがあります。古くから「間接的であること」は美徳として洗練されてきたのです。僕には街ゆく女性に漏れなく指笛を鳴らすセネガル人の友人がいますが、彼に俳句を詠ませたら「in the summer」から始めるでしょうし、アイラブユーより先に強烈な腰振りダンスが始まることは自明です。(それが悪いと言っているわけではありません)

衝撃的だった彼らの「一手目」。

 南米やアフリカ系の選手と寝食を共にすると、「察する」という行為を必要としていないことに気付きます。一手目の感情が、もれなく言葉で投げられるのです。彼らは、意思を表明する、という行為に、勇気も要らなければ疲労も感じません。やりたい、やりたくない、好き、嫌い、いる、いらない。とても直接的で、息をするように感情を表現します。むしろほぼ息です。「どうする?」に対して「どうしようか?」という投げ返しはまずありません。YESかNO、迂回も裏表もありません。

 こうした「初手の応酬」こそが、彼らにとっての日常的なコミュニケーションなのです。相手の会話を遮ることも厭わないし、遮られたとしてもまた割り込めばいい。会話する、と、説得する、が近い位置にあります。相手と目線も逸らさないこともここに繋がると思っています。

 そして、こうして彼らが感情豊かに会話をしているあいだ、僕は盆栽のように黙ってなりゆきを見つめています。なぜなら彼らの「初手の応酬」はあまりに直接的で、ときに短絡的に思えるからです。ヒートアップすれば「一回持ち帰る」ことはもちろん、「数秒持ち帰る」ことすらしなくなり、ここはどちらか折れましょうよ、とその非効率さに腹が立つこともあります。

相手の主張が座る椅子。

「人の話は最後まで聞け」というのも日本人が大切にしている習慣です。

 しかし僕はあるとき、その「最後まで聞いているあいだ」に脳内で組み立てているのが、自分の主張をどう伝えるか、ではなく、相手は何を伝えたいのか、だということに気付きました。自分の脳内には、あらかじめ相手の主張が座る椅子が用意されていて、放っておくと「この発言の背景には何があるんだろう」という部分にまで思いを巡らせています。こうして頼まれてもいない配慮を重ねていくので、気付いた時には相手の問いに即座に「はい、いいえ」を表明することが難しくなっているのです。

 これは日本語の「文末で意思表示をする」という文法にも由来していて、「私はこう思う、なぜなら」という順序の英語(を初めとする多くの外国語)に比べて、結論を述べるまでに寄り道するタイムラグが生まれてしまうのです。思考は使う言語の文法に依存するので、そう簡単に切り替えられるものではありません。

 僕はこの、結論から始まる会話のリズムに慣れていないことを自覚しました。

 最後まで聞こうよ、と思いながら、聞いているうちに両者の折衷案を探ってしまいます。そうすると彼らとの会話において総括のようなことしか言えなくなり、その時点では僕の返答は既にYESでもNOでもなく「YES寄りのNO」か「NO寄りのYES」という、極めて中途半端なものになっているのです。そこで少し、場の温度が下がります。僕は話を最後まで聞いて、相手の立場になって、効率よく進めたかっただけなのに。

 これはかなり個人的な経験から持ってきているので、これを、日本人は、外国人は、と当てはめるつもりはありませんが、傾向としては共感を得るのではないかなと思っています。(この「傾向としては共感を得るのではないかな」という一文こそが、まさに断定を好まない日本語的な表現の1つですね)

苦手意識を持つ前に、違いを理解する

 つまり僕が言いたいのは、前提として「会話における一手目が違う」ということです。
相手のダイレクトな主張に面食らったとしても、言い負かされたとしても、そこで劣等感や苦手意識を持つ必要はありません。

 文頭の「メンタルが強い」に関してもそうですが、まずは文法構造的な違いや、相手の意向を「汲む」という独特な習慣、さらに相手を説得したいのか、状況を最適化したいのか、も踏まえて、単なる違いとして捉える視点が必要ということです。

 そこからは、もちろんあなた自身が適応していかなければいけませんが、感情の表現方法を優劣で測ろうとすると息詰まっていく、それは僕自身が経験したことです。

成功する選手たちに通ずるもの。

 ちなみに海外で活躍している日本人サッカー選手のインタビュー記事を見ると、意図的に語順を組み変えているな、と感じることがよくあります。特に長く活躍している選手ほど(ときに日本語での受け答えにおいても)まず結論から述べています。この語順の切替は、サッカーにおいては成功の要因なのかもしれません。
 
 チームメイトや監督と「脳内の文法」を合わせることは、そのままピッチでの適応につながるのではないでしょうか。

日本人が持つ温かみも武器になる。

 しかし、間接的で主張に弱く、対面では察し合って会話が成立していくような、現代の「日本の弱点」とされるような部分が持つ力も、僕は個人的に信じています。職人のような振る舞いで結果を残す人はスポーツ界に限らず多くいますし、なにより日本の暮らしは、受け手、使い手、買い手、そういう一つ先の人たちに思いを巡らせて、手間を加えることで成り立っています。これはおそらく、尊い習慣です。

 この習慣が保証する温かみを棄てることなく、そのなかで必要時には察し合うのではなく「断言」できるリーダーシップを受け入れられる国になればいいなと、個人的には思います。それでは、ノンバーバルでインダイレクトなコミュニケーション、本日も愉しんでいきましょう。

(「欧州サッカーPRESS」中野遼太郎 = 文)