タイガーマスクが新日本プロレスのリングでデビューしたのは、1981年4月23日、蔵前国技館だった。あれから39年経った。

 あの日、タイガーマスクは実は周囲からそんなに期待されていなかった――と言ったら、多くの人は不思議に思うかもしれない。しかし、事実、タイガーマスクは期待されていなかったし、ファンにも受け入れられないんじゃないかという不安視する見方が大半だったのだった。

 新日本プロレスも「IWGP(インターナショナル・レスリング・グランプリ)」という大きなプロジェクトに向けて邁進している時代で、劇画やテレビのアニメ番組の主人公がプロレスのリングで実際に戦うというプランは、そんなに重要な位置づけではなかったのだ。

 今では、タイガーマスクが佐山聡(サトル)だったことは、ファンなら知っているが、その頃は「佐山」と言ったところで、当人の顔を思い浮かべることができる人はかなり限られていた。記事中で誤って「トオル」と書いてしまったスポーツ紙があったほど、知られざる存在だったのだ。

全米マーシャルアーツ1位との対決。

 小柄な佐山聡が新日本プロレスでデビューしたのは1976年の5月だ。前座の試合は見ているが、決して目立った存在ではなかった。

 その後、佐山が少しだけ注目を浴びたのが、1977年11月14日に日本武道館で行われた「格闘技大戦争」という梶原一騎の名のもとに行われた格闘技イベントでのことだった。19歳の佐山はアントニオ猪木に指名された形で、ミドル級1位で21歳のマーク・コステロ戦に臨むことになる。

 アメリカではマーシャルアーツ(WKA=全米プロ空手)が大ブームで、その筆頭がベニ―・ユキーデというライト級のチャンピオンだった。ベニーはロサンゼルスに「ジェットセンター」という大きな道場を構えており、盛況だった。他にも、ヘビー級王者にはザ・モンスターマン・エディがいて1977年8月に猪木と格闘技世界一決定戦を行っているくらい、マーシャルアーツ人気は高かったのだ。

 あの佐山が格闘技戦に挑むのか――筆者は当時まだ学生だったが「猪木の弟子で佐山っていうのがいるんだ」と友人たちを誘って、日本武道館に出かけたのを覚えている。

「投げは禁止」のはずだったが……。

 猪木がリングサイドにいた。セコンドは山本小鉄だった。

 2分6ラウンドのマーシャルアーツ・ルール。

 両者とも大きめのボクシンググローブをつけての戦い。投げは認められず、寝技は禁止で、本来はキックとパンチで戦わなくてはいけない試合だった。

 それでも、佐山はプロレスラーらしくコステロに組み付くと、レフェリーが制止するのも構わず、抱えては投げた。腹を合わせて反る“ベリー・トゥー・ベリー”のスープレックス。そしてバックドロップ……佐山はただただがむしゃらに組み付いては投げにいっていた。後から聞くと、本人は「頭から落とせば勝てるだろう」と思っていたのだという。

 最初に投げ技が出た時は「これで決まった」と思った。だが、コステロは猫のように柔らかく受け身をとると、何事も無かったかのようにスクッと立ち上がってきた。場内に驚きの声が上がった。

 その後に続いた投げも同じように効果がなかった。実は……コステロはレスリング経験者で受け身に長けていたのだ。

マーシャルアーツ選手に対して完敗した佐山。

 そして……打撃戦へ。

 佐山はキックボクシングの「目白ジム」で特訓してきたローキックやパンチを繰り出したが、長身のコステロのヒザや左のパンチがそれを上回った。天才的な運動能力を持っていた佐山でも、数カ月の打撃練習では世界トップレベルの選手にダメージを与えることは難しかった。

 結局、劣勢の佐山はダウンを繰り返すことになる。

 佐山は、ロープ際で崩れ、あるいはヒザをついていてほとんどTKO状態だったが、最終ラウンドもどうにか持ちこたえて、判定まで持ち込んだ。

 もちろん、完敗だった。

メキシコとイギリスで急成長していた佐山聡。

 1978年6月、“ルチャリブレの国”メキシコに渡った佐山はエンプレッサ(EMLL=現CMLL)と呼ばれたNWA系のリングにサトル・サヤマの名で上がっていた。

 私は1978年8月、藤波辰巳の試合に合わせてメキシコシティを訪れたが、勢いのあった新興団体UWA系の取材が主で、佐山には現地で3度も会って話もしたが、その試合は一度も見なかった。いま思えば……せめて一度でいいから見ておけばよかったと思う。

 夜遅くアラメダ公園前のホテルに藤波を訪ねてきた佐山は「ちょっと横にならせてください」と床に寝ころんだ。なんでも、その日の試合でトペを放ったところ、場外の固定のイスに強く腰を打ちつけてしまったというのだ。

「痛いんですよ」佐山は苦しそうに顔をゆがめた。

 筆者の目の前でこそ弱音を吐いた佐山だったが、結局メキシコではNWAミドル級王者にもなるほどの活躍を見せた。

 そして1980年、メキシコから英国に渡って、今度は「サミー・リー」を名乗った。リーはブルース・リーのリーだ。佐山は英国では相当自由に戦うことができたようだ。そのカンフーのようなファイトスタイルと、マーク・ロコ(当時のイギリスの人気レスラー。後に初代ブラック・タイガー)とのライバル抗争で人気を博していたが、突然、日本に呼び戻されることになる。

ストロングスタイルの新日にアニメキャラは不要!?

 1981年4月23日。テレビアニメ「タイガーマスク二世」のスタートに合わせて主人公の「タイガーマスク二世」が新日本プロレスのリングに上がることになった。もちろん、タイガーマスクの中身は非公開だった。

 正体以前に「ストロングスタイルの新日本プロレスにアニメのキャラクターは必要ない」という声が多くあったことを覚えている。

 さらに残念なことに、肝心な覆面レスラーの命であるマスクさえ、準備が整っていなかった。

 急造の陳腐な虎のマスクと、これもまた羽織るのが恥ずかしくて躊躇してしまうような薄っぺらなマントで、タイガーマスクが花道に姿を現すと、蔵前国技館のファンからは失笑が漏れた。

 新日本プロレスとしては大失態だった。セコンドにはメキシコで一緒だった木村健吾がついた。仕掛人の新間寿はリングサイドで心配そうにこの試合を見ていた。

 だが、そんなタイガーマスクとダイナマイト・キッドの試合が始まると、ファンの苦笑いは真顔に変わっていった。

全国的に大ブームとなったタイガーマスク。

 タイガーマスクの軽快なステップと速いキックがファンの心をつかんだ。相手がキッドだったことも幸いした。ファンは2人の戦いに、徐々に飲み込まれていった。

 最後はロープ越しでの高さのあるジャーマンスープレックス・ホールドで決着――これが虎伝説の始まりである。まさに、忘れられないタイガーマスク誕生の夜だった。

 タイガーマスクはそれから全国的に大ブームを巻き起こして、その勢いでテレビ番組『ワールドプロレスリング』は20パーセント以上の高視聴率を取るまでに成長。まさに、金曜日夜8時のオープニングは「タイガーマスクの試合」だったのだ。裏番組にあった人気刑事ドラマ『太陽にほえろ!』をしのぐ勢いだった。

 タイガーマスクは、それまでプロレスに興味を持っていなかった女子中学生や高校生の間でも話題にもなっていたのである。

佐山聡による一方的な契約解除へ。

 だがこのブームは、突然、終焉を迎える。

 初代タイガーマスクの最後の試合は1983年8月4日、蔵前国技館で行われた。NWA世界ジュニアヘビー級選手権で挑戦者はテクニシャンの寺西勇だった。

 この大会は、事前に「タイガーマスク」に代わる新しいリングネームの公募が行われていて、その新しいリングネームが近々発表されることが告げられていた。

 契約の問題が発生して、新日本プロレスとして「タイガーマスク」の名前を継続して使用することを諦めざるを得ない状況になっていたのである。年内が期限だった。

 タイガーマスクの新しいリングネームが実際にどの方向に動いていたかは、推測の域をでないが、「タイガー」は残して、それに「宇宙」や「銀」のイメージを加えることで合意に達していたはずだ。

 リングネームとは別に、タイガーマスクをどうやって消して、どうやって新しい虎を出現させるかも重要なこととして話し合われた。当時、タイガーマスクを高く評価していた猪木もこれを真剣に考えていた。東京・六本木の某所では、その次世代の虎についての勉強会のようなものも頻繁に行われていた。

 タイガーマスクの仮面をロケットで宇宙に運ぶ、というような突拍子もないアイディアもあった。引田天功のような「大脱出」のイリュージョンで、最後の試合を終えたタイガーマスクをリングから消すことも検討された。

 だが、佐山聡本人が知らないうちに進んでいく様々なプランとは別に、契約などでギクシャクしていた当時の複雑な人間関係は、修復不能な域にまで達していたのである。

 タイガーマスクは8月10日、新日本プロレスとテレビ朝日に対して一方的に契約解除を通告したのだ。

どうしても初代と比較してしまう……。

 本人から「虎のマスク」、NWA(ナショナル・レスリング・アライアンス)とWWF(ワールド・レスリング・フェデレーション)の2本のジュニアヘビー級のベルトが新日本プロレスに返上された。

 こうしてタイガーマスクは素顔の佐山聡に戻り、衝撃的なデビューから始まったタイガーマスク・ブームは2年4カ月目にして突然、幕を閉じることとなった。

 その後、新日本プロレスに出現したザ・コブラ(ジョージ高野)や全日本プロレスの2代目タイガーマスク(三沢光晴)も初代タイガーマスクの「負の遺産」を引き継ぐことになった。

 初代の凄さと絶頂で消えてしまったことによる増幅した幻影が、ポスト・タイガーマスクたちを悩まし続けたのである。ファンは幻影を追いかけて、新しい存在をいつも否定しようとしたのだ。

 ファンはどうしても初代タイガーマスクと比較してしまうのである。団体が無理やり次のキャラクターを売り出そうとしたビジネス面での姿勢も反感を買った理由の1つだろう。初代と同じではダメなのだ。遥かに初代タイガーマスクを上回らなければ、次のスターの誕生は決して許されないのである。事実、三沢タイガーですらファンは受け入れなかった。今ではカリスマ化しているあの三沢でさえ、ファンから支持されるたのは虎のマスクを自ら脱ぎ捨ててからだったのである。

そして獣神サンダー・ライガーが新時代を。

 初代タイガーマスクがそこまで脚光を浴びた理由は何だったのか?

 新日本プロレスでデビューして、マーシャルアーツの打撃戦を体験して、ルチャリブレの世界にも身を置いた。英国でもかなりの評価と人気を得るまでになっていた。だが、佐山はルチャのパターン化した動きは好きではなく、自分で開発した意外性のある動きでファンの心を掴んだ。そして、プロレスの先に猪木が語っていた新しい格闘技を夢見ていた。

 ジュニアヘビー級という世界で、タイガーマスクを超えるために必要なこと、それが独創性であり、その存在を堂々と示すことだと気づくには時間を要した。それほど長い間、みんなが初代の幻影にとりつかれていたのである。

 そして……1989年4月24日、東京ドームで獣神ライガーがデビューする。

 本人の意気込みとは対照的に、当時のライガーもマスクマンとしてそれほど期待はされていなかった。だが、唯一無二の獣神サンダー・ライガーは圧倒的に力強くてカッコよく、新しいジュニアヘビー級の世界を築いていくことになる。

(「プロレス写真記者の眼」原悦生 = 文)