2020年で40歳。

 彼らは1980年4月に創刊した「Number」誌と同い年になる。創刊40周年記念特集号「日本サッカー 希望の1ゴール」の企画において、1980年生まれのフットボーラーを何人か取り上げた。

 そのタイトルは「40歳、人生を変えた一撃」。筆者がインタビューした2人に、ある共通項があった。

 玉田圭司と中村憲剛。

 ともにJリーグでのゴールを真っ先に挙げてくれたため、記事はその話を中心に構成させてもらった。

 実は、スペースの関係上書けなかった話がある。彼らには「もう一つ」心に残るターニングポイントの一撃があった。

 それは日本代表での初ゴール。

 いずれもアウェー、いずれもA代表デビュー2戦目、いずれも初先発――。

 これだけでも十分なのに、共通項はまだあった。

 1つ年上は、小野伸二、稲本潤一らの黄金世代。その陰に隠れる形となった1980年度生まれの選手たちではあるが、玉田、中村はアンダー世代での代表歴がない。

 Jリーグで活躍して代表の座をつかんできた叩き上げは、「それまで海外で試合をやる経験なんてなかった」と口をそろえる。

 だからこそ日の丸を背負い、海外で奪った初ゴールが強く印象に残っているのかもしれない。

代表の決定力不足が指摘されるなか、初先発。

 2004年4月25日、ハンガリーのザラエゲルセグ。

 首都ブダペストで調整してきたジーコジャパンは、東欧遠征初戦となるハンガリー戦を国内組で臨んだ。

 2月から始まったドイツワールドカップアジア1次予選は2試合を終え、ホームのオマーン戦、アウェーのシンガポール戦といずれも終盤に何とか決勝点を奪って勝ち点6を積み上げていた。

 決定力不足が指摘されるなか、シンガポール戦の後半途中から出場してA代表デビューを飾った玉田に初先発のチャンスが与えられた。

 柏レイソル入団5年目となる2003年シーズンに2ケタゴールを挙げ、ジーコ監督の目に留まった。本人からすれば代表を意識する前に、招集が掛かったという受け止め方だった。

「自分が一番下のレベルだと思った」

「1回呼ばれるっていうのはあると思うんです。シンガポール戦にちょっと出て、ヨーロッパへの遠征にも呼ばれた。

 でもここでダメだったら、切られちゃうかもなとは思いましたよ。だから自分のプレーを一生懸命、やろうと。

 僕にはアンダーの代表も、オリンピック代表の経験もない。初めてA代表に呼ばれたときは自分が一番下のレベルだと思ったし、凄いところに来てしまったな、という感じでした。

 練習のレベルが高くて、毎日気が抜けない。あの試合も気持ち的にフワッと入らずに、最初から集中できていたなっていう記憶がありますね」

 日本と欧州のピッチの違いなど適応までに時間が掛かったのは事実だ。

 それでも「最初は少し動きが硬かったかもしれないけど、集中が切れることはなかった」という。

即座に詰めて左足で押し込んだ。

 0-2で迎えた後半30分だった。

 右サイドの突破からチャンスをつくる日本。

 中央を経由して出てきたパスを、ゴール前で待ち受けていた玉田は左足でトラップした。その前に相手ディフェンダーの足に当たったことでトラップが大きくなってしまったが、即座に詰めて左足で押し込んだ。

 反撃の一発が2分後、2トップの相棒・久保竜彦のゴールを呼び込む。結果的には敗れてしまったが、手応えを掴んだ一戦となった。以降、ジーコジャパンの常連メンバーとなっていく。

「このゴールで一気に自信になりました。継続して呼んでもらえるようになって、ほかのメンバーの動きを見て学ぶことができた。本当にみんなうまかったので(笑)。

 代表で成長できたのも、あのハンガリー戦でチャンスをもらって、ゴールという結果を得られたことが大きかったと思います」

初の海外での試合で予期せぬことばかりが。

 玉田が23歳で初招集されたのに対し、中村は25歳のときだった。

 2006年のドイツワールドカップでは1勝もできずにグループリーグ敗退に終わり、イビチャ・オシム監督が就任。

 この年、入団4年目にしてJリーグのベストイレブンに選出されることになる彼は、10月4日の親善試合ガーナ戦に途中出場して代表デビューを果たす。そのままインドに渡り、アジアカップ予選に臨んだ。

 10月11日、国内組で挑んだバンガロールでのインドとの一戦。

 登録の関係で「53」の背番号をつけた中村は「55」番の鈴木啓太とボランチを組み、ゲームを組み立てる役割を担う。

 初めての海外でのゲームで待っていたのは予期せぬことばかり。

 前半39分にメインスタンドの照明の一部が停電となって、4分間中断された。ピッチはデコボコで、電光掲示板はあっても試合時間が表示されない。

ゴールまで30m、中央左の位置からからズドン。

 それでも中村にとっては「凄く新鮮だった」という。

「海外で試合をやること自体、僕は初めて。空港が混雑しているとか、食事に出てきたカレーが緑色だとか、シャワーの水を口にしないようにとか、遠征自体、確かにストレスもいろいろとありましたけど、アウェーってこうなんだって味わえましたから。

 オシムさんの練習はやっていて楽しかったし、こんなトレーニングもやるのかってそれも新鮮でした」

 初めての海外の試合が、かなり厳しい環境下。

 不慣れな環境と初先発のプレッシャーを、彼はストレスにしなかった。

 2-0で迎えた後半36分だった。

 ゴールまで30mはあっただろうか。中央左の位置からからズドン。右足から振り抜かれたボールは、音速のスピードでゴール左上に突き刺さった。

 萎縮せず、伸び伸びと。

 緊張感と集中を切らさず、終盤に入っても躍動できていた。

アディショナルタイムに犬が乱入。

 後半アディショナルタイムに入ると犬が乱入して中断するおまけまでついたが「ハプニングばっかりの試合」というよりも「あのスーパーゴールが中村憲剛の代表初ゴール」としてサッカーファンの脳裏に刻まれることになる。

「あの試合によって(オシムジャパンにおける)自分の立ち位置というものが明確になったような気がします。プレッシャーもありましたけど、それ以上にやってやろうっていう気持ちのほうが強かったですね。

 代表でもやっていけるんじゃないかという意味でインド戦のゴールは僕にとってのターニングポイントでした。

 あと代表でのゴールって、反響が半端ないなって思いました(笑)。日本に帰国したら、メディアに大きく取り上げられるやら、友人知人からいっぱい連絡が来るやら。代表ってやっぱり凄いところなんだと」

世代別代表の経験がなくても関係ない。

 世代別代表、五輪代表の経験がない。海外での試合経験もない。

 しかしそんなものは関係ない。臆する必要もない。

 玉田いわく「自分のプレーを一生懸命に」、中村いわく「やってやろうっていう気持ち」。

 日本代表でも希望を抱く1ゴールは、かくして生まれた。

 玉田も中村もその後ワールドカップの大舞台を踏み、40歳になるシーズンも所属チームで中心を担っている。

「過去」がつくるものではなく、「今」がつくる希望。

 玉田圭司と中村憲剛、2人のストーリーがそれを教えてくれている。

(「サムライブルーの原材料」二宮寿朗 = 文)