『Sports Graphic Number』創刊1000号を記念して、NumberWebでも「私にとっての1番」企画を掲載します。今回はドイツに居を置き、浦和レッズの取材経験も豊富な島崎英純氏による、マンチェスター・ユナイテッド黄金期の中盤センターに君臨したポール・スコールズの鮮やかなボレーシュートと、その夜の話について。

 僕にとって、長く取材活動をしてきたJリーグの浦和レッズはもちろん特別なチーム。ただ、その浦和と同列に“心のクラブ”として敬愛しているのはイングランド・プレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッドだ。

 ユナイテッドを好きになったのは“ファギー”こと、サー・アレックス・ファーガソン監督がチームを率いて5年目、おそらく1991年頃。きっかけは17歳のライアン・ギグス(元ウェールズ代表)がトップデビューを果たし、あのくせっ毛の黒髪をなびかせながらピッチを疾走する姿に魅了されたからだった。

 ちなみにギグスはイングランドサッカーの歴史で初めて「ワンダーボーイ」と称された選手で、後に浦和のストライカーとして名を馳せる田中達也もまた「ワンダーボーイ」の名を冠してサポーターの寵愛を受けた選手だ。

ギグス、ベッカム、スコールズ。

 ギグスを好きになってからは、ユナイテッドの他の選手にも興味を持つようになった。エリック・カントナ(元フランス代表)、ブライアン・ロブソン(元イングランド代表)、アンドレイ・カンチェルスキス(元ロシア代表)、マーク・ヒューズ(元ウェールズ代表)などのプレーに惹かれた。

 さらに1992、93年に「ファーガソンの雛鳥たち」であるデイビッド・ベッカム、ニッキー・バット、ガリー・ネビル、フィル・ネビル、そしてポール・スコールズらが加入してからのユナイテッドの躍進に熱狂した。

 だから某サッカー専門誌の記者へ転職してからは「必ず、オールド・トラッフォード(ユナイテッドのホーム)に行く!」と意気込んでいたが、マンチェスターまでの道のりは果てしなく遠く、なかなかその願いが叶う日は訪れなかった。

 夢が実現したのはサッカー専門誌の記者を辞め、フリーランスとなってから約5年半が経過した2012年初頭のことだった。

鉛色の曇り空のマンチェスター。

 ふとヨーロッパ取材を思い立ち、ドイツ、スペイン、ポルトガル、そしてイングランドのクラブを巡る旅に出て、マンチェスターへの渡航も計画した。

 それは、たぶんに無理のあるもので渡航費もかさんだが、それでもどうしても「オールド・トラッフォード」の姿をこの目に焼き付けたく、強行日程を組んでイングランド北部の産業都市へと向かった。

 満を持して、試合前日にロンドンのユーストン駅から約2時間半をかけて市内中心部のマンチェスター・ピカデリー駅へ着くと、空にはどんよりとした鉛色の雲が広がっていた。街には焦げ茶色の無骨な建築物が林立していて、1月の寒々とした風も相まって暗澹たる雰囲気を醸していたのを覚えている。

 貧乏取材旅行だったから、中華街にあるテイクアウトの店で炒飯を買って、1人寂しくホテルの部屋で夕食を摂った。それでも備え付けのテレビに明日の試合情報が映るだけで胸が躍った。

 2012年1月14日、ホテルの窓越しに見た地面は濡れていた。小雨が降っているらしい。昼過ぎ、マンチェスター・ピカデリー駅からメトロリンク(路面電車)のオルトリナム駅行きの電車に乗って、スタジアムを目指した。

“夢の劇場”に入った瞬間の感動。

 この日のマッチメイクはユナイテッドvsボルトン・ワンダラーズだったが、プレミアリーグのゲームはホームサポーターとアウェーサポーターの動線が明確に分かれており、車内には赤いユニホームを着たホームサポーターの大群がひしめいていた。彼らが雪崩のように「オールド・トラッフォード駅」で下車するので、降り遅れる心配は無用だった。

 駅からスタジアムまでは一本道。通り沿いにはクラブカラーの赤い看板を立てたパブが建ち並び、試合3時間前からサポーターたちが談笑していた。

 フィッシュ・アンド・チップスやケバブを売る店を左手に見て道路標識を見上げると、そこには「SIR MATT BUSBY WAY」と書いてあった。言わずと知れたユナイテッドの伝説的指揮官の名を冠した道路の先に、ユナイテッドのホームが佇んでいた。

 イングランドのスタジアムは総じて無骨だ。レアル・マドリーのホーム、サンチャゴ・ベルナベウのような荘厳さは感じられないし、ザンクトパウリの本拠地、ミラントーア・シュタディオンのような退廃的な雰囲気もない。

 オールド・トラッフォードもご多分に漏れず、近代的でありながらも利便性を重視した作りで、初めて外観をこの目に収めても高揚感は沸き立たなかった。でも、スタジアムに入り、閉鎖的で薄暗いコンコースの切り立った壁の隙間から“あの”ピッチを見据えると、そこには文字通りの「シアター・オブ・ドリームス」が広がっていた。

スコールズが再デビューした一戦。

 当時、日本人が在籍していなかったユナイテッドには明確な取材目的がなかったので、自身が加入するオフィシャルサポーターズクラブを通してチケットを購入した。その席はスタンドの上段だったが、何の不満もなかった。

 ピッチからスタンド最前列までの距離が恐ろしく近いことは遠目から見てもはっきりと分かったし、何よりここに来られただけで幸せだった。

 なお1995年1月25日、カントナがサイドライン際から暴言を吐いた相手サポーターにカンフーキックを浴びせた場所はここではなく、クリスタル・パレスの本拠地、ロンドンのセルハースト・パークだった。

 この試合、僕としては聖地巡礼以外にも見どころがあった、2011年5月11日に現役を退きコーチとなっていたポール・スコールズが、約8カ月後の2012年1月8日に負傷者続出を受けて現役復帰。すでにFAカップのマンチェスター・シティ戦で“再デビュー”を果たしていたが、このボルトン戦はスタメン出場が濃厚となっていたのだ。

稀代の「ボックス・トゥ・ボックス」。

 スコールズは稀代の「ボックス・トゥ・ボックス」プレーヤーだ。168cmと小柄ながら、無尽蔵のスタミナで自陣から敵陣までの広範囲をカバーする。

 彼の凄みは、惚れ惚れするようなハイレベルなベーシック・テクニックにある。速射砲のように放たれる味方からのパワフルかつスピーディなパスを、卓越したトラップで受け止め、冷静沈着なルックアップで瞬時に状況を把握する。

 そして、華麗さと実効性を兼ね備えたフィードパスは絶品の一言。キックスイングのフォームは一切の力みがなく、ムチのようにしなる右足でスパンとボールを弾き、そのボールはレーザービームの軌道を描いて味方選手の足元へ到達する。

 クライマックスはバイタルエリアでボールを保持した瞬間。オールド・トラッフォードの四方を埋めたサポーターから唸るような「シューーーート」という掛け声が飛んだ刹那、針の穴を通す弾丸ショットが炸裂する。

 そんなスコールズのプレーを、実際に体感できる。スタジアムアナウンスが彼の名前をコールした瞬間に、僕の心臓は激しく波打った。

右足ボレー弾に轟音のスタジアム。

 試合はペナルティキックのチャンスをウェイン・ルーニーが外して不穏さが増したが、ホームチームの優勢は揺るがなかった。

 そして前半のアディショナルタイムにハイライトが訪れた。ペナルティエリアの右からルーニーが高速低弾道クロスを送ると、ファーサイドで構えたスコールズが体を左に回転させながら右足でハードヒット。ボレーシュートを叩き込んだ。

 その瞬間、スタジアムは轟音に包まれ、彼は両手を広げて味方サポーターが陣取るゴール裏へと駆けていった。

 3-0で快勝したマンチェスターの夜。僕はアルコール禁止のスタジアムを離れて足早に近くのパブへ向かった。 

 入口に立っていた大柄で強面のガードマンが呼び止める。

「おい。ここはホームサポーターしか入れないぜ」

「明日、レスターへ来ませんか?」

 コートのポケットにねじり込んでいた赤いマフラーを掲げると、ニヤッと笑ったガードマンが体を横へずらして道を開けてくれた。立ったままカウンターにもたれて、ビールを口にして一息つくと、スマートフォンにメールの着信通知が届いているのに気づいた。送り主からは、こんな文言が書かれていた。

「スコールズ、良いゴールを決めたね。ところで僕、浦和へ帰ることに決めました。もし良かったら、明日、そこからレスターへ来ませんか?」

 そういえば彼もスコールズのことが好きだった。そして、はたと気づいた。スコールズが現役復帰して選んだ背番号は22。そして彼も、2007年に浦和へ移籍加入してからは、ずっと22番を背負っていた。

 明日はどんな話をしようか。多幸感に包まれるマンチェスターのパブで、僕は彼との邂逅に思いを巡らせていた。

 その10日後、浦和レッズはイングランド・チャンピオンシップのレスター・シティに所属していた阿部勇樹が、約1年4カ月ぶりに復帰することを発表した。

(「欧州サッカーPRESS」島崎英純 = 文)