「運動時の疲労の全体像は、まだ科学的に解明されていない部分が多いんです」

 発売中のNumberDo「ランニングを科学する」では、「ランナーの疲労を徹底解剖する」という記事の執筆を担当した。その際、東京大学の八田秀雄教授から伺ったのが上述の言葉だ。乳酸研究をはじめ、運動生理学の世界的権威である八田教授にこう言わしめるほど、運動中の人間の体内では複雑なメカニズムが働いている。

「疲労」に関してだけでなく、未解明の部分が多い「人体と運動」という領域。その点で運動生理学は、人類の謎に挑む最前線の学問と言えるだろう。

 そんな八田教授のラボで修士課程の一員として日々研究に取り組むのが、近藤秀一だ。「東大生箱根駅伝ランナー」として記憶に新しい人も多いのではないだろうか。近藤は現在、実業団ランナーと大学院生の二足のわらじを履いている。

 走ることに魅せられた東大生。彼のアスリート兼研究者としての生き様を取材した。

自他共に認める“陸上オタク”。

「僕は“陸上オタク”なんです。だから、陸上をいろいろな角度から考察していきたいと思っています。そこで、走っている時に体の中で何が起きているのかを知りたいと考えました」

 近藤は現在、実業団陸上チームの「GMOインターネットグループ」に所属する傍ら、東京大学大学院の修士課程で、運動生理学の研究を行っている。

 近藤が取り組むのは「血中乳酸値と競技力の関係性」についての研究だ。端的に言えば、ランナーの血中乳酸濃度を測定し、そのデータを基に、パフォーマンスの推定や、競技における課題の発見に役立てることが目的だという。

 研究の協力者は主に、近藤の周囲にいるランナーたち。近藤は、週に1~2回ほど、GMOインターネットグループの拠点がある埼玉県東松山でチーム練習を行うが、それ以外は東大駒場キャンパスのトラックなどで練習を積む。練習パートナーは東大の陸上部員や、都内在住のエリート市民ランナーだ。彼らの協力を得て、なおかつ近藤自身も被験者になる。

作りたいのは「乳酸プロフィール」。

 近藤の実験では、被験者となるランナーに一定のペースで3分間トレッドミルを走ってもらい、1分間の休憩を挟む。ペースを少しずつ上げながらこれを数回繰り返す。1分間の休憩中に、血中の乳酸濃度を計る。この測定を定期的に行うと、その人の「乳酸カーブ」が見えてくる。

 乳酸カーブとは、血中乳酸濃度の変化をグラフで表したもの。縦軸が乳酸値で、横軸がランニングの速度だ。スピードが増すほど、乳酸の値は高くなっていき、運動後、しばらくすると下がっていく。もちろん、ランナーごとにその変化の幅は異なる。

 人間のエネルギー源は「糖」と「脂質」に大別される。2つの燃料の境目は運動の強度にある。運動強度が高まるほど、つまり、より「きつい」運動ほど糖の消費が高まっている状態だ。糖をより多く使い始める分岐点は「LT」と呼ばれ、ランナーの走力を計る1つの指標になっている。

 糖を消費すると、副産物として乳酸ができる。作られた乳酸はエネルギー源の1つとして消費されていく。血中乳酸濃度は、乳酸の増減のバランスで決まるため、この数値を計れば、個々のランナーごとにエネルギー消費の特徴がわかるというわけだ。近藤は、さまざまなランナーの「乳酸カーブ」を集めて、“乳酸のプロフィール”を作りたいのだという。

2年間取り組むテーマを決めるために。

 近藤は、乳酸が作られる過程だけでなく、減っていく過程も知りたいと考えている。そのために、計測終了後に被験者に軽く歩いてもらうなどして、乳酸の消費速度も測定するという。

「運動中は必ず糖を使いますが、同時にできる乳酸を効率よく使うことも大切なエネルギー代謝の機能です。ですから、乳酸の消費プロセスまで調べることで、ランナーごとの“強み”と“弱み”を可視化できるんじゃないかと思います」

 近藤は、さまざまなランナーの「乳酸カーブ」を集めて、“乳酸のプロフィール”を作ろうとしている。

 これまでに集めたデータは15人分ほどだが、近藤は「あと倍は必要」と話す。修士課程の2年間をかけて取り組むため、テーマを絞るためにはまず量が必要になる。研究データを体系化し、オリジナリティを出していくのはそれからだ。

 近藤は言う。

「ゆくゆくは、蓄積したデータを一般化していきたいです。その結果、たとえば、あるランナーが今どれくらいのタイムで走れそうか推定したり、どんな練習をすれば持久力を改善できるかをアドバイスできるようになったりするのが理想ですね」

東大4年で初出場した、箱根駅伝。

 近藤秀一と聞くと、“4度目の正直”を思い出す陸上ファンも多いかもしれない。

 2019年の第95回箱根駅伝。東大4年だった近藤は、関東学生連合の1区を走った。区間22位と振るわなかったが、2005年の松本翔さん以来、14年ぶりに東大生が箱根路を踏んだ。1、2年時は選抜メンバー入りするも補欠。3年時は12月末にインフルエンザを発症し欠場。“近くて遠い”箱根路出走を最終学年でようやく叶えた。

 筆者は2年前、大学3年生だった近藤にインタビューしたことがあった。当時の近藤は、工学部の化学生命工学科に在籍。水中の不純物を取り除く水処理膜などの実験で多忙な日々を送りつつ、競技に臨んでいた。「東大生ランナー」という肩書から、メディアなどで「文武両道」と形容されることが多かったが、彼の感覚は少し違っていたようだ。

 当時の近藤は、こんな言葉を残している。

「“文武両道”という言葉がありますが、僕の中では学業と競技の間に壁はなくて、グラデーションのような感覚ですね。物事の真理を追究していく点では、どちらも共通していると思います。好きなものが2つあったら、それをどう結びつけられるかを考えることが大切です」

“文”と“武”が並行しているのではなく、混ざり合っているという感覚。それは、現在の近藤の姿勢に通じるものだろう。

こだわりは「競技に役立つ研究」。

 競技者と研究者を兼ねる近藤には、シンプルなこだわりがある。「競技に役立つ研究をする」ということだ。

 近藤は、「乳酸プロフィール」の研究を軸としつつ、並行して加速度センサーを用いたランニングフォームの傾向分析も行っている。市販のクリップ型センサーを腰に装着し、ランニング・ウォッチと連動させれば簡単に計測することができる。ランナーのレベルやフォームのタイプに応じた接地時間の左右差や、上下動、ストライドとピッチの特徴を探っているという。

 こだわりの背景にはこんな思いがある。

「まず、自分自身が1人のランナーとして1秒でも速くなりたいという思いがあります。そのためにランニングに関する実践知を増やしている感覚ですね。正直、個別的なデータになるほど、論文にするのは難しいです。でも、既存の論文を基にした科学的トレーニングの方法論を吸収しつつ、さらにもう一歩踏み込んでこそ、研究に面白みが出てくるんじゃないかな、と」

 運動生理学の分野では、マウスなどの動物を用いて実験をすることも多いが、近藤は人間を対象に実験を行っている。動物であれば、餌や運動量など実験の条件を変えやすく、より細かくデータを出すことができるが、人間になるとそう簡単にはいかない。それでも人間を選ぶのは、陸上ととことん向き合いたいからに他ならない。

被験者に「おもしろい」と言われたい。

 近藤が喜びを感じる瞬間は、計測結果を被験者に説明する際に、「おもしろい」と言われた時だという。

 説明を通じて、データ表に並ぶ数字が意味のあるものとして立ち上がってくる。これまでただ練習を積んできたランナーにとっては、近藤の言葉によって、自らの身体に対する解像度が高まることになる。

「数字に意味づけをするということですね。その結果、たとえば自分に合った練習方法を見出すことができたら、『おもしろい!』って思うはず。研究と競技がつながっていく楽しさを、少しでも多くの人に感じてほしいですね」

 近藤は陸上の話をする時、目を輝かせ、早口で話す。計測したデータを解説する時も、おそらく同じ表情をしているはずだ。「人が走っている姿を見るだけで楽しい」という無類の陸上好き。実験の対象に人間を選んだのも必然だったのかもしれない。

「今の研究にはかなり愛着があります。僕の競技人生はまだまだ続きますが、15年間続けてきた陸上を、1つの研究として表現できたらいいな、と」

「速い人に勝ちたい、そこに理屈はありません」

 今年2月2日。別府大分毎日マラソンに出場した近藤は、直前の故障が響き、2時間29分28秒で72位に終わった。

 同レースでは、4月からGMOインターネットグループに加入している吉田祐也(青学大=当時)が2時間8分30秒でゴール。さらに、大迫傑の日本記録に沸いた3月の東京マラソンでは、同僚の下田裕太と一色恭志が2時間7分台をマークした。

 近藤の自己記録は2時間14分13秒。仲間たちの躍進を横目に見て、「やっぱり悔しいです」と言う。

 高3時は、静岡県高校駅伝1区で下田(加藤学園高=当時)に競り勝ち区間賞を獲得した。東大でも無論エース。近藤にとっては、自らがチームの筆頭ではない経験は、今が初めてなのだ。これまで以上に闘争心を燃やさなくてはならない環境下、近藤のアスリートとしての一面が顔をのぞかせた。

「今、自分は“結果を出せていない側の人”になってしまっています。チームに速い人がいる以上は勝ちたいです。そこに理屈はありません。まずは万全の状態でレースに臨むことを大切にしたい。競技者としての当面の目標は、マラソンでサブテン(2時間10分以内)です」

 一方で、もう1つの視点からも、同僚たちを見ている。“陸上オタク”もとい、運動生理学研究者としての目である。近藤は、こう意気込む。

「今までいろいろなランナーのデータを取ってきましたが、今一番知りたいのが、トップランナーのデータです。だから、GMOの選手たちが実験に協力してくれたら、もう最高ですね。そうなれば、かなり面白い研究になるはずです。想像しただけでワクワクしますよ」

「1つ1つの数字に意味がある」と近藤は言う。ランニングとアカデミズムが同一線上にある彼にとって、今の世界は宝箱のようなものかもしれない。上り調子の日本マラソン界にあって、近藤の存在は、間違いなく唯一無二だろう。

(「Number Do Ex」吉田直人 = 文)