『Sports Graphic Number』創刊1000号を記念して、NumberWebでも「私にとっての1番」企画を掲載します。今回はソウル五輪代表の座をかけた選考会で、中山竹通が見せた激走を振り返ります。当時、レースに出場していた金哲彦氏が感じた中山の覚悟とは?

 私のナンバーワンは? と聞かれ、すぐ記憶に蘇ったのが1987年福岡国際マラソンで激走した中山竹通(ダイエー)である。

 何しろ私自身が同じスタートラインにたち、中山の激走に翻弄されたランナーの1人だったからだ。

 1987年12月6日、ソウル五輪の代表選考会のスタートを待つ福岡は朝から冷たい雨が降っていた。当時の記録には気温7.6度、風速5mと記してある。確かに、東京から応援に駆けつけた仲間には申し訳ないほどの悪天候だった。しかし、スタートを待つ私を含めた選手たちは悪天候に怯むどころか、これから始まる「マラソン」という名の真剣勝負に殺気さえ感じ、かつてないほどの異様な緊張感に包まれていた。

 当時、マラソン界が置かれていた事情を振り返ると、その理由が分かる。瀬古利彦(エスビー食品)の金メダルが期待された1980年のモスクワ五輪はボイコットで無念の不参加。そして、再びメダルが期待された1984年のロス五輪では、宗猛(旭化成)が4位に食い込んだもののメダルには届かなかった。

 そんな中、ロス五輪の年の福岡国際で中山が彗星の如く現れた。

「這ってでも出てこい」

 中山は翌年の1985年ワールドカップマラソンで世界歴代3位(当時)となる2時間8分15秒の日本最高記録を樹立。実力世界一と言われた瀬古利彦が最も恐れるライバルとなったのである。

 1988年のソウル五輪は、日本マラソン界にとってモスクワで獲れていたはずの金メダルをつかみ取る絶好のチャンスだった。当時「福岡一発勝負」と言われたレースは、現在のMGC(マラソングランドチャンピオンシップ)に相当する。世界の瀬古と新星・中山の直接対決に、マスコミを始め、日本中が固唾を飲んだ。

 しかし、瀬古は故障のためスタートラインに立てなかった。中山が「這ってでも出てこい」と発言したのは有名な逸話である。

中山の気迫に引っ張られたレース。

 雨の中、緊張を吹き飛ばすようにスタートから中山は飛ばした。

 5キロの通過は14分35秒。

 到底ついていけるはずもないことは分かっていても、私を含めた後続集団は実力を遥かに上回るハイペースで突き進んだ。「ついていけるのか?」という生ぬるさはなく、とにかく「ついていくしかない」。中山の気迫に引っ張られたのだ。

 当時の世界記録はカルロス・ロペス(ポルトガル)の2時間7分12秒だ。独走する中山の中間点はその記録を上回る1時間1分55秒、世界記録を1分29秒も上回っていた。単純に倍にすると2時間3分50秒というとてつもないペースだ。

 ちなみに、2020年東京マラソンで2時間5分29秒の日本記録を樹立した大迫傑(ナイキ)の中間点1時間2分00秒よりも早い。カーボン入り厚底シューズもない33年前のことである。

「覚悟」を持って挑むことの大切さ。

 雨は後半みぞれに変わった。そして、さらなる強風で体温を奪われた選手たちの足を止めた。前半からとてつもないオーバーペースで走っている選手たちにとっては地獄のレースとなった。

 最後は失速した中山だったが、優勝タイムは2時間8分18秒、日本歴代2位の記録を打ち立てた。

「這ってでも出てこい」という覚悟をもった中山に「オーバーペース」という言葉はない。「悪天候」という言い訳もない。瀬古がいようがいまいが関係ない。中山はただ命がけで走りきったのだ。

 ちなみに、私は2時間15分7秒で20位という成績。後半は無残なまでにペースダウンした。オーバーペースだったという言い訳はない。マラソンという舞台で真剣勝負し、そして潔く負けた。中山の強さは実力だけではない、「覚悟」の大切さを私たちに教えてくれた。

(「今日も世界は走っている」金哲彦 = 文)