少なくとも1997年の4月16日時点で、その事実は大きな注目を集めるものではなかった。三ツ沢球技場で行われたJリーグ1stステージ第2節で、中村俊輔がJリーグデビューを飾っているのである。 

 桐光学園を高校選手権準優勝へ導いたレフティーが、期待のルーキーだったのは間違いない。ただ、1997年のJリーグが数多くの話題を集めて開幕したのもまた事実だった。

 前年のアトランタ五輪後にセビージャへの移籍を模索した前園真聖が、ヴェルディ川崎の一員となっていた。テレビのCMにも出演していた若手スターは、5年目のJリーグで初の大型移籍ということもあり、開幕前からテレビカメラに追いかけられていた。

 Jリーグ開幕前の3月には、フランスW杯アジア1次予選のオマーンラウンドが開催されていた。加茂周監督率いる日本はオマーン、マカオ、ネパールに3連勝したが、6月の日本ラウンドに向けてアトランタ五輪代表の抜擢を望む声が高まりつつあった。

 W杯1次予選に出場したGK川口能活や城彰二だけでなく、ベルマーレ平塚で3年目のシーズンを迎える中田英寿への期待感も、ジワジワと熱を帯びている。

エムボマが来日、稲本が17歳でデビュー。

 4月16日にマリノスが対戦したガンバ大阪にも、メディアに注視される選手がいた。フランスのクラブからやってきたカメルーン代表FWパトリック・エムボマは、どうやらケタ外れの身体能力の持ち主であることが明らかになった。この試合でも51分にチームの3点目をマークし、開幕から2試合連続弾を記録した。

 ガンバのスタメンには、17歳の少年も名を連ねていた。稲本潤一である。当時のJリーグ最年少出場記録を打ち立てたガンバユースの傑作品が、シーズン開幕とともにブレイクの予感を漂わせていた。

4点差をつけられ、試合が決まった後の登場。

 マリノスを率いるハビエル・アスカルゴルタが、中村を2人目の交代選手に指名したのは55分だった。0-4に点差が広がった直後である。残念ながら試合の大勢は決してしまった。過度なプレッシャーがかからないタイミングは、高卒ルーキーのデビュー戦として悪くないものだった。

 背番号25を着けた18歳は、三浦文丈、上野良治、山田隆裕、それに城に囲まれて攻撃を担った。高校時代から馴染みの三ツ沢球技場でのプレーだったが、「やっぱり、全然違いましたね」と試合後に振り返る。中村の出場後は失点をしなかったが、得点を奪うこともできなかった。

 記者に囲まれた彼の表情に、初々しい興奮はない。

「開幕から2試合目でデビューできたのは良かったですけど、点差が開いて相手のプレッシャーもそこまでキツくなかったし、何ができたかと言えば……全然、手ごたえとかより課題のほうが多いです」

デビュー時点で、すでに逆算は始まっていた。

 選手たちとメディアが交わる取材エリアでは、井原正巳や小村徳男、川口らが厳しい表情を浮かべている。日本代表としてW杯1次予選を戦ってきた彼らにとって、ホームで0-4の大敗を喫した事実は重い。

 高卒ルーキーが控え目な発言をしたのは、先輩たちの雰囲気を察したからではない。目標からの逆算で自らのプレーを検証する中村の思考は、プロデビューを経てすでに新しい課題を見つけていたのだった。

「やらなければいけないことが、今日こうやって試合に出てさらに多くなりました」

デビューから3日後に任されたPK。

 ガンバ戦から3日後、マリノスは等々力競技場でヴェルディと対峙する。中村は1点を追いかける73分に送り出され、2-2に追いついたのちの延長戦でも最後までプレーした。PK戦では4人目のキッカーを任され、しっかりとネットを揺らした。

 中村はリスタートのキッカーを務めていた。左足の精度はセールスポイントだが、PK戦の抜てきはちょっとした驚きをもたらした。

 試合後には指揮官アスカルゴルタへ質問が飛ぶ。ボリビアとチリで代表監督を務めてきたスペイン人は、「にんまり」という表現が似合う笑みを浮かべた。

「順番はもちろん考えました。1人目と5人目は大きな責任がかかるので、そこはシュンスケには任せられない。けれど、それ以外なら自信を持って選ぶことのできる選手ですよ」

 中村自身は少しホッとした表情をのぞかせた。

「前の試合で負けていたし、自分が外してここで負けたら連敗になっちゃう。こういうリーグ戦を戦っていくうえで、連敗をしたらいけないというのはみんなが言っていて。ましてや水曜、土曜の連戦で連敗すると、疲労感もかなりあると。

 そうやって試合をつなげて考えていくのは、実際に戦ってみて初めて分かること。いまはとにかく1試合1試合が経験というか、チームの勝利のために全力でプレーしながら、たくさんのことを学んでいる。先を行く選手に追いつくためには、1分でも無駄にしないようにしたい」

ワールドユース、そして日本代表へ。

 Jリーグで過ごす日々を大切にしていきながら、6月にはワールドユース選手権のメンバーに選出される。現在はU-20ワールドカップと呼ばれる大会で宮本恒靖や柳沢敦らとともに主力を担い、ベスト8入りに力を注いだ。

 プロ1年目のJリーグでは、27試合に出場して5ゴールをマークした。翌1998年2月には、フランス・ワールドカップへの準備を目ざす日本代表に初招集されることとなる。

中村俊輔の歩みが始まった、あの日。

 中村のJリーグデビューを三ツ沢球技場で目撃した6503人の観衆とメディアは、4月16日が訪れるたびに幸運を噛み締めることができるに違いない。

 まだ細身だった18歳はその後国内外のクラブを渡り歩き、ワールドカップやチャンピオンズリーグの舞台にも立ち、41歳となった2020年もJリーグでプレーしている。

 彼のパスは、トラップは、シュートは、いくつもの試合を思い起こさせるが、その第一歩はガンバ大阪を相手にした曇り空のナイトゲームだった。

(「JリーグPRESS」戸塚啓 = 文)