「東京オリンピックまで頑張る」

「自国開催だから、引退しようと思ってたけど続ける」

 リオ2016大会が終わったあと、こんな話を沢山のアスリートから聞いた。

 すでに実績を残していても、賞賛を得ていても、自国開催というモチベーションの大きさは計り知れない。

 競技特性にもよるが、25歳をすぎて来ると多くの競技で「ベテラン」と言われるようになる。以前私はエリートスイマーについてパスウェイ(どんな経歴を通って日本代表になったか)の調査をしたことがあり、競泳は特に幼少期から競技者として生活している時間が長い選手も多いので、そのくらいの年齢で十分ベテランと言えるだろう。

 私自身が引退したのは27歳の時で、日本代表は12年目だった。

 12年が長いのか短いのかは一概には言えないが、15歳から海外遠征が始まり、16歳では日本代表だった。普通ならば多くの物事に興味があり、エネルギーもあるこの時期に、その全てを競技に捧げた。そうでなければ「勝つ」ことはできない。10代半ばの時点で、多くの人が辿るものとは異なる時間感覚の中を過ごすようになるのだ。

人生の大舞台を20代で迎えて。

 トップレベルに到達するアスリートの多くは10代後半で頭角を現し、競技が最優先のキャリアをつき進んでいく。

 その中で自然と、「オリンピックは何歳の時にあるからまだ年齢的に間に合う」という風に戦略を立てるようになっていくのだ。

 私が27歳で引退した時、27歳は既に大人、年長者として扱われた。1964年の東京オリンピックに出場した故・木原光知子さんは「当時は20歳でおばさん」だったと教えてくれた。

 現在はアスリートの選手寿命も伸びて状況はずいぶん変わったが、それでも大舞台を何歳で迎えるかは、人生全体に大いに関係があると思う。

引退から“社会人”になるのに5年かかった。

 一般的には27歳という年齢はまだまだ若くて、社会人で言えば仕事が楽しくなってやりがいを感じる時期だろうか。社会の中で生きる方法を少しずつ理解してきている年代だろう。

 私の場合どうしても引退してからやりたいことがあり、それが勉強だった。自分がアスリートとしてやってきたことのエビデンスが必要だと感じたのだ。

 なので現役を引退してから大学院に入り、修士、博士と5年間勉強した。その中で、ピラティスのインストラクターの資格も取った。つまり、競技生活を終えてから社会で生きていくための準備に5年かかったことになる。

 アスリートの先輩の中には引退して素早く存在感を示している方もいたが、5年以上かけて大きなことを準備する人もいるだろう。ともあれ、社会の中で生きていくためには「アスリートだった」という要素だけでは、ほとんどの場合不十分だと感じていた。

 私は16歳から11年間を日本代表選手として過ごしたが、引退してからの人生はもっと長い。そして、全てを競技に費やしてきた時間を無駄にしない人生を歩みたいと考えていた。

引退したら戦いは終わると思っていた。

 私は現役の時、アスリートを引退したら「戦いが終わる」と思っていた。しかし実際に引退して大学院に通っている時に、「戦いは続いている」と感じるようになった。そして、沢山の方に支えられて競技を続けていたことが、改めて心にしみわたった。現在「セカンドキャリア」という言葉はずいぶん浸透したが、日本スポーツ振興センターなどは、「デュアルキャリア」という考え方を重要視するようになってきている。

 これからの時代を生きるアスリートは、競技者としての人生を歩みながら、社会を生きる「人」としての人生を止めないことが大切、という考え方だ。そのためにはアスリート自身の意識に加えて、環境整備や支援が必要だと言われている。

 私自身は完全に引退してから「次」を探すセカンドキャリア型だったが、いま現役の選手たちはデュアルキャリア型に考え方がシフトしてきているので多くの選手は、引退後の生活を頭の片隅に置いて競技をしているだろう。ベテランになればなるほど、その形やスケジュールをはっきり思い描いていたはずだ。

五輪アスリートがフルタイム看護師に?

 そういう選手の中には、今回の東京オリンピック延期でこれまでの計画が全てなくなってしまった選手が多くいると思う。

 しかし世界には、医学部を休学してオリンピックを目指していた選手もいるし、オーストラリアのホッケー選手レイチェル・リンチ選手は世界的な医療従事者不足に応じて看護師としてフル稼働しているそうだ。

 彼女は東京2020大会の金メダルを目指していたオーストラリア代表の主力GKであり、以前から週1日のペースで看護師として働いていた。そして現在は、目標をオリンピックの金メダルから新型コロナウイルスの終息にシフトして、医療現場でフルタイムで働く決断をしたのだ。

今こそ、社会を生きる1人として。

 彼女は、「東京オリンピックが延期されたけれど、落ち込んでいる場合ではない。この社会全体のもっと重要な闘争に全力を注げて嬉しい」とコメントし、最後に“Sports is such a wonderful thing in that way”とした。

 目の前にあった大きな目標が延期になり、愕然とする気持ちはわかる。しかし今こそ、この社会を生きる「人」として何ができるかを改めて考える時なのだと思う。

 1つのことに真剣に取り組んできたアスリートには、それができる力があると信じている。

(「オリンピックPRESS」伊藤華英 = 文)