『Sports Graphic Number』創刊1000号を記念して、NumberWebでも「私にとっての1番」企画を掲載します! 今回は藤島大氏による「ナンバーワン」の選び方。レスリング男子重量級で活躍した太田章のお話です。

 本当に偉いのは誰だ? 古くて新しいスポーツの命題である。 

 東京都内某所の酒場内に「庶民栄誉賞選考委員会」なる秘密結社がある。恥ずかしながら理事を務めている。内閣総理大臣表彰の「国民栄誉賞」にスポーツ関係者が浴するたび招集はかかる。会員は4名。「自分のために生きるのに精一杯だが周囲に迷惑はかけない」という入会条件を満たした者のみで構成される。

 アイルランドのビールをやっつけながらの議論が白熱したのは8年前だ。
 
 女子レスリングの吉田沙保里が国民栄誉賞を授与された。そのとき「五輪を含む世界選手権13連覇」。もとより強い反対はなかったのだが、かつて大学の男子レスリング部員であった表面処理機械会社の社員より「付帯意見」が提出される。

「レスリングであれば男子フリースタイル90kg級の太田章を忘れてはならない」

 手帳の営業を天職とする印刷会社社員がすかさず「金メダルではないはずだが。男子でも金を獲得した選手はいる」と軽微な疑義をはさんだ。元レスリング部はこう反論した。

「日本が痛恨のボイコットをしたモスクワ五輪の幻の代表。次のロスアンゼルス大会では銀メダルを獲得するも、ソ連など東側諸国の報復不参加のおかげと低く評価され、いったんは現役を退きながら、ならばと奮起、東西主要国のそろったソウル大会でも銀メダル。この歩みが泣ける」

 そして決定的な一言を。

「よくぞ東アジア人の骨格で五輪伝統格闘技重量級の決勝まで」

 一同、異議なし。その場で「庶民栄誉賞」に決まった。

勲章への価値はわからない。

 冒頭の命題。女子サッカーのワールドカップ優勝と男子のそれの16強進出はどちらが偉いのか。男子レスリングの重量級の2回連続の銀メダルは、軽量級の金、あるいは女子の無数のような金メダルと比べていかなる価値を有するのか。

 わからない。それで構わない。そしてスポーツのファンは「自分だけのナンバーワン」に心のメダルを授ける権利がある。太田章も対象である。

賢く柔らかい者と愚直で不器用な者。

 あらためて太田章はいくらか憎らしいレスラーだった。だから五輪のマット、まさに世界の舞台で頼もしかった。無理がなく賢くて柔らかい。正面突破の手は選ばず、ふわふわと、なお、鋭利に白星をすくいとる。

 1988年。ソウル五輪のイヤー。太田章は、3月の五輪2次選考大会で赤石明雄にフォール負けを喫して2位に終わった。5月6日の最終選考大会では同じ顔合わせに勝利。同13日のプレーオフに切符を争った。

 当時、中途入社3年目のスポーツ紙記者としてレスリング取材を手伝った。太田章が早稲田大学4年のとき、筆者の暮らしたラグビー部寮の先輩が紹介してくれて、いっぺんだけ会釈したことがあった。自然な心情ならひいきしたい。なのに実は国士館大学出身でこのころ東山梨教育事務所所属の赤石明雄にひかれていた。

 1987年の世界選手権代表の赤石明雄は、記憶が屈折していたらあやまるほかないのだが、愚直でちょっと不器用で、もちろん地力は確かだった。

 生きるか死ぬかのプレーオフ。細部は忘れた。ただ敗者は正直にタックルに入り、もっぱら守るロスアンゼルス大会2位にいなされ、切り返され、僅差に泣いた。

 赤石、かわいそうだ。若き記者のそれが正義感めいた感情だった。のちに「庶民栄誉賞」選考委員となる表面処理機械会社社員も純な青年として「あれが実績のある太田章でなかったらもっと消極性を注意されるのでは」と感じた。

「すれすれ」の優位を手放さない。

 すれすれでつかんだソウル行き。そんな「すれすれ」が生きた。すでに31歳。いちどは引退している。国内でも対戦者を圧倒はできない。しかし、もとより圧倒の困難な世界の強豪と当たっても「すれすれ」の優位を手放さない。

 5回戦(準決勝相当)。米国の実力者であるジム・シャーとぶつかる。0-8まで差を広げられた。ところが一瞬の「ともえ投げ」からフォールしてしまう。わざとスキをこしらえてタックルを呼び込んだように映った。折れた肋骨で臨んだ決勝ではソ連のマハルベク・ハダルツェフに完敗を喫した。

 1992年のバルセロナ五輪にも挑み、出場をかなえ、3回戦で散った。根っこが強靭なのにパワーまかせでない。だから身体が衰えても勝負の冴えはさびつかなかった。

試合運びと生き方は重なる。

 太田章は、幼いころに体操競技に親しみ、小学校から柔道、高校でレスリングに転じた。小説『青春の門』に感化されて受験した早稲田にはそのころスポーツ推薦制度はなくレスリング部も一般入試組ばかりだった。

 のちに本人がこう書き残している。

「早稲田のレスリングは2部だった。弱かった。高校でチャンピオンだった私は、一部の優勝校らの監督コーチに『太田はもうだめだ。弱い早稲田を選んだ太田は必ずつぶれる』と激励(?)され、その通り、2年から4年まで3年連続学生チャンピオンになった。(略)銀メダルを取れたのも、みなさんの御言葉のおかげです。感謝」(『体育学専修のあゆみ』)

 ひとつの競技のみに育たず、自分で進路を定め、ひとり工夫を凝らし、お家芸のはずの柔道でも苦闘の続いた90kg前後の階級(均整のとれた各国アスリートのひしめくクラス)で五輪表彰台に立った。

 ごりごりのレスリングでなしに体操選手の身のこなしや柔道の投げ技を「弱い」大学で独自に磨く。生き方と試合運びは重なっていた。

 1980年代、自由にわが道を進んだメダリストがいた。太田章の精神に杯を捧げたい。そして1988年の赤石明雄を「オールモスト・オリンピアン(ほとんど五輪選手)」と呼ぼう。

(「オリンピックPRESS」藤島大 = 文)