僕は今まで幾度となくNBAについてのコラムを書いてきました。自分の大好きなNBAについてコラムを書かせて頂くことはとても幸福なことでしたし、毎回、次は何を書こうかな、とワクワクしながら取り組んで来ました。しかし……スポーツを伝える仕事の中で、この事件ほど辛く、全く脳も精神も機能しなくなったことはありません。

 2020年1月26日、カリフォルニア州カラバサスで起こったヘリコプターの墜落事故で9名が命を落としました。元レイカーズでNBAの大スターのコービー・ブライアントも犠牲者の1人でした。

 この日が、僕にとっては、NBAの歴史上一番悲しい日となってしまいました。

 このニュースを知った時は、なにかの間違いであって欲しい。信じられない。嘘だろう? 彼だけは違う! と正直思いましたし、多くの方がそうだったと思います。

あの事故から2カ月ほどが経った今……。

 コービーといえば、20シーズンに渡ってレイカーズ一筋で活躍し、5度のNBA王者、2度の得点王、2度のオリンピック金メダル、リーグMVP、オールスター選出18回とNBAの歴史に残るスーパースターです。

 日本の神戸牛からつけた彼の名“KOBE”は、バスケットボールやNBAファンに限らず、世界中の人に認識され、愛されてきました。

 あの事故から2カ月ほどが経った今、頭では理解できているつもりですが、やっぱり気持ちの整理が出来ていないままこのコラムを書いています。

 コービーは2016年に引退してからまだ、4年しか経っていません。41歳という非常に若い年齢でした。事故が起こる前日の1月25日も、レブロン・ジェームズがキャリア通算得点記録でコービーを抜いて歴代3位に上がり、コービーはSNSでレブロンを祝福したばかりでした。

 引退して4年経っても、テレビでのゲスト出演や試合会場に現れた時の体型は現役当時とほぼ変わらず、今すぐに復帰したとしてもまだまだ通用しそうなオーラに溢れていた彼が、なぜ今死を迎えなければならなかったのか、残念で仕方ありません。

“新時代の”スーパースターになった第一章。

 現役時代のコービーは“ブラックマンバ”の愛称で知られていました。この愛称はクエンティン・タランティーノの映画『キル・ビル』の暗殺者の呼び名から引用されており、彼のプレイスタイルも、ゲームを支配してどんな相手でも最後には息の根を止めて倒してしまうという、まさに「暗殺者の精神」がみなぎっているように見えたものです。

 アメリカのスポーツメディアでは、一流スポーツ選手同士の優劣を比較する時に、よく、一番重圧がかかる土壇場での“キラーインスティンクト(殺しの嗅覚/本能)”がどれぐらいあるか? と言う議論を展開します。“神様”マイケル・ジョーダンと並んで、コービーもこのキラーインスティンクトが誰よりも秀でている選手として有名だったのです。

まるでアメコミに出てくるヒーローのような。

 高校卒業後18歳でNBA入りしてから20シーズン、37歳で引退するまで、コート上での一切妥協のないストイックなまでの競争心を、彼は我々に披露してきました。

 彼はファンにとって、どんな窮地に立たされてもチームを、そしてロスの街を救ってくれるスーパースター。まるで、アメリカのコミックに出てくるヒーローのような存在として地元で認識されていたのではないかと思います。

 そして、アンチにとっては何度やっつけようとしても、毎度毎度しぶとく立ちはだかる不死身の強敵として……敵をも魅了し、誰もが彼のプレイや言動から目が離せない。そんな存在だったのだと思います。

 だからこそ、今回の事故で彼が亡くなってしまったことが、信じられません。どんな窮地でも彼だけはどうにかしてくれる、長年、彼のプレイを観てきただけに、ヒーロー物の映画のように、倒れても敗北しても、最後にはまた救世主として登場すると、そんな錯覚さえ起こしてしまうような存在であったと思います。

 コービーを思う時に、絶対折れない精神、不屈の魂、そんな言葉が僕の脳裏に浮かんできます。

インターネットの進化とコービーのスター街道。

 そして、コービーの存在をここまで世界規模のスーパースターに引き上げた大きな要因として、新しい時代の流れも大きく作用したと言えます。

 彼のキャリアはインターネットの進化と共にありました。

 彼がNBA入りした1996年は、ちょうど世界中でEメールが普及し始めた頃でした。新たな時代のスターとして、コービーは人々に認識されはじめた最初の時期です。その後、スポーツメディアがインターネットを活用して試合やプレイを伝え始めたあたりで、アメリカではスポーツに関するブログが多く立ち上がりました。2000年からは、3ピートをシャック(シャキール・オニール)と共に成し遂げます。

 2004年にFacebook、2005年にYouTube、2006年にTwitterが立ち上がり、世の中に浸透してきた頃、コービーは伝説となる81得点を2006年に記録し、2008年にリーグMVPを獲得したのです。2008-2009年に再びNBA王者に返り咲き、翌年も連覇を果たしたコービー。これもまた2010年のInstagramの立ち上げ時期とぴったり重なっています。

 これらの新たなプラットフォームが普及する度に、彼のハイライトや日々の動画がスポーツのメイントピックとして拡散されてきました。偶然といえば、偶然ですが、インターネットの進化とコービーのキャリアは、かなり大きく絡んでいると言えるでしょう。

 そしてデビューから、引退までをインターネットの成長時期と共に過ごしてきた彼と僕たちの間には、「NBA史上、最も密な距離感で人生を共に駆け抜けた選手」という特別なコネクションが出来上がったのです。

ネット時代、世界中のファンの身近にいたスター。

 コービーより先に活躍していたマジック・ジョンソンやラリー・バード、そしてマイケル・ジョーダンの時代には、試合の生中継はまだ多くなかったし、インタビューや日々の言動も現地の一部の人々にしか伝わりませんでた。

 コービーは、テレビ、雑誌、インターネットと目まぐるしく進化していくあらゆるメディア・プラットフォームで、世界中にリアルタイムで発信された最初のスーパースターだったと言えます。コービーもこのことを熟知した上で、自分の物語を生きながら、我々に披露していたように思えます。

 そんな時代のスーパースターだっただけに、順風満帆だったと言えない部分も広く世の中に報道された一面もあります。

プライバシーのすべてが掘り起こされる人生に。

 不祥事として有名なのが、2003年に起きた、コロラドでのホテル従業員の女性から起訴された性的暴行事件。

 また、当時レイカーズのチームメイトだったシャキール・オニールとの不仲報道は、一気に世界中が知ることにもなりました。

 時代の現れか、コービーとシャックの不仲の経緯は、それ専用のウィキペディアのページが今でも存在しているほど話題になりました。

 コービーはスーパースターだったけれども、聖人君子ではありません。どんな人間でも間違いは起こします。ただその度に、過ちを教訓とし、より良い人間として成長できるように努力をしていたことも、現地のメディアや関係者は認識していました。

 スキャンダラスなニュースのように派手に報道はされていませんが、コロラドの事件以降、コービーは何度も女性保護団体などを訪れ、女性の立場や女性への理解や知識を深める努力をしていました。その後、WNBAの一番の支持者ともなりました。

 また、感情的になって審判へ同性愛嫌悪的発言をしてリーグから処分された際も、同性愛保護団体との会話を通して、自分の無知さ、愚かさを学び、のちにゲイヘイトをしたファンをネット上で正す行動にでました。

 このように、彼も我々と同じように1人の人間として、壁にぶち当たりもがきながら成長し、未熟な若者から4人の子供を愛する家庭想いな父親になりました。

 今回の事故で我々に更なるショックを与えたのは、事故で命を奪われた9名の中に、コービーの次女ジジちゃんが含まれていたことです。

コービーが選んだ人生の第二章。

 20シーズンに渡って世界中のファンの期待に応えてきたコービーが、引退後一番大切にしていたのが、家族とより多くの時間を過ごすことでした。

 引退後の生活は、レイカーズやNBAとの関わりよりも、別事業の立ち上げを優先にし、全ての時間を家族優先に組み立てていました。皮肉にも、仕事と家族の両立を考え、一番無駄なく移動できる手段を模索して辿り着いた答えが、日々のヘリコプターでの移動でした。

 NBAの現場やアリーナでの観戦からあえて距離を取っていたコービーが、再び試合会場に足を向けるようになったきっかけが、ジジちゃんのバスケットボールへの情熱でした。

 それを受けて、コービーが自身のマンバアカデミーで彼女を直接指導し、一番可愛がっていたとも言われています。

 事故の当日も、娘さんとそのチームメイトや保護者を乗せて、試合会場に行く最中でした。

この後、何をするのか本当に楽しみだった。

 コービーが選んだ第二章の物語は、家族と子供そしてメディアを通じて若者達の心に響くコンテンツの制作でした。

 一部の現地メディアは、コービーが、2013年にアキレス腱を断裂してリハビリをしていた頃から既に第二章への準備が行われており、壮大なプランが用意されていたとも報道しました。しかし、我々は、その計画の序章のほんの一部しか観ることができなくなりました。

 4月5日(現地時間4日)、ネイスミス・バスケットボール・ホール・オブ・フェイム(以降、殿堂)が、2020年にバスケットボール殿堂入りを果たす9名を発表しました。ティム・ダンカン(元サンアントニオ・スパーズ)、ケビン・ガーネット(元ミネソタ・ティンバーウルブズほか)などと揃って、コービーが選ばれたのです。僕たちにとっては、コービー自身の物語を語る最高の場面とも言える殿堂入りのスピーチも、永遠に観ることが出来なくなったということです。

 この殿堂入りを受けて、ステイプルズセンターの外に並ぶレイカーズレジェンド達の銅像の隣に、コービーの銅像が設置されるのも時間の問題だったはずです。豪快なダンクか、華麗なフェイダウェイシュートか、それとも優勝して両手を広げたポーズなのか……コービーがなにを選ぶつもりだったのか、もう誰も知ることができません。

NBAの戦いの次は、家族愛に満ちた世界を……。

 ストイックなまでに技術と精神を磨き、どんな場面でも結果を出し続けてくれた彼は、人生の第二章に関しても、我々の想像を超えるプランを提供することにかなりの自信を持っていたと言われています。

 彼にはいったいどんな世界が見えていたのか--それを披露する前に彼はいなくなってしまいました。

 暗殺者の如く、冷酷無比に相手を倒してきた“ブラックマンバ”--世界中が楽しみにしていた彼の次の章は意外にも、愛と笑顔に溢れた物語だったのかもしれません。

 彼が亡くなったあと、アメリカ出張に行った際、移動中に、ウーバーの運転手と他愛もない会話をしていたら、自然とコービーの話題になりました。こんな出来事ひとつでも、国や人種、文化、宗教の違いを超えて、コービーは人を繋いでくれてるのだな……と感慨深い気持ちになりました。そしてその運転手と、なぜ彼なんだ? お互い納得がいかないよね、と意気投合しあったのです。

 その時、運転手の彼が言った言葉は「きっと今頃、バスケの神様とゲームしてるよ!」でした。ファンだった皆さんにも、バスケの神様達を相手に不屈の闘争心で勝負を挑み続けるコービーの姿が想像できるのではないでしょうか。

 コービー! 天国のレジェンドリーグでも、僕らを熱狂させた最高のプレイを!

 MANBA FOREVER--.

(「#sotaronba」長澤壮太郎 = 文)